少しずつ深くなる話
第五章 少しずつ深くなる話
① 二回目の安心
最初の相談会から一週間後、栄子はまた同じ会場に足を運んでいた。
「今日も来れてよかったですね」
入口で迎えた女性が、前回より親しげに微笑む。
たった一度来ただけなのに、もう“顔なじみ”として扱われる。
そのことが、栄子には少しうれしかった。
会場は前と同じだった。
丸机に湯呑み、急須、個包装の菓子。
柔らかな声。
やさしい笑顔。
何ひとつ変わっていないように見える。
参加費は今回も千円。
栄子は財布から千円札を出しながら、もうそれを高いとは思わなくなっていた。
ここに来れば、少なくとも話を聞いてもらえる。
「気にしすぎ」と笑われない。
「母親なんやから当然」と言ってもらえる。
それだけで、栄子の心は少し軽くなるのだった。
この日も、何人かの母親たちがそれぞれの悩みを話した。
反抗期の息子、無口になった夫、進路に迷う娘、言うことを聞かない幼い子。
どれも、どこの家庭にもありそうな話だった。
だからこそ栄子は安心した。
ここは特別におかしな人が来る場所ではない。
ごく普通の母親たちが、ごく普通の悩みを持ち寄る場所だ。
そう思えた。
だが、二回目からは、少しずつ変化があった。
進行役の女性たちは、前回より栄子に話を振る回数を増やしていた。
「真田さん、その後どうでした?」
「娘さんとの距離、ちょっとは変わりました?」
「先週、帰ってからしんどくなかったですか?」
聞き方はやさしい。
だが、前回よりも確実に“深く”なっている。
栄子は、そのことに気づかないまま答えていた。
② 個別の声かけ
二回目の会が終わったあと、栄子が帰ろうとすると、一人の女性がさりげなく声をかけてきた。
「真田さん、少しだけいいですか」
穏やかな目をした、四十代後半ほどの女性だった。
前回は進行役には回っていなかったが、会の中ではよくうなずき、他人の話を丁寧に聞いていた人だ。
「今日、お話聞いてて思ったんですけど……真田さんって、すごく人の気持ちを受け取りやすい方ですよね」
栄子は少し戸惑った。
「そうですかね」
「そうですよ。娘さんの小さな変化に気づけるのも、感受性が高いからやと思う」
「鈍い人やったら、そこまで見えんのです」
“感受性が高い”。
普段の生活で、そんなふうに言われることはなかった。
せいぜい「気にしすぎ」「考えすぎ」くらいだ。
だから、その言葉は新鮮だった。
女性はさらに、声を少し落として言った。
「実はね、こういう場所でも、誰でも同じように話が入るわけじゃないんです」
「真田さんみたいに、心が細やかで、見えないものに気づける方って、そんなに多くないんですよ」
栄子は目を伏せた。
褒められている。
そうわかっていても、胸が少し熱くなった。
自分はただ、不安になりやすいだけだと思っていた。
気にしすぎて、空回りしているだけだと思っていた。
でも、ここではそれが“よさ”として扱われる。
そのことが、思った以上にうれしかった。
「また、もう少し落ち着いて話せる時に、ゆっくりお話しませんか」
「真田さんみたいな方は、少し個別で整理していくと楽になること多いんです」
栄子は、小さくうなずいていた。
③ 三回目の“特別扱い”
三回目に会場へ行った時には、栄子の席が最初から奥に用意されていた。
「真田さん、今日はこっちどうぞ」
案内したのは前回と同じ女性だった。
栄子のために場所を空けていたような自然さで、しかし明らかに“少し特別”な扱いだった。
会のあと、その女性は栄子を別室の小さなテーブルへ案内した。
お茶を新しく入れ直し、焼き菓子まで添える。
「真田さんは、ほんとに頑張ってこられた方やと思うんです」
その言葉に、栄子の肩が少し揺れた。
「家でもずっと気を張って、職場でもきちんと働いて、娘さんのことも弟さんのことも見て……」
「普通は、そこまで背負えませんよ」
「そんな、大したこと……」
「大したことあります」
女性ははっきり言い切った。
「むしろ、真田さんみたいな方ほど、自分のしんどさを後回しにしてしまう」
「だから苦しくなるんです」
そして、少し間を置いて、ほとんど囁くように続けた。
「真田さん、あなたは特別に選ばれた方なのかもしれません」
栄子は息をのんだ。
「え……?」
「誰にでも見えるもの、感じられるものじゃないんです」
「家族の空気の乱れとか、人の心の揺れとか、小さな不安の芽とか」
「それをこんなに敏感に受け取る人って、実は少ないんですよ」
“特別”
“選ばれた”
その言葉は、栄子の胸の深いところに落ちた。
もちろん、すぐに信じたわけではない。
けれど、完全に否定することもできなかった。
これまで自分を苦しめてきた“気にしすぎ”が、ここでは“特別な感受性”に変わる。
その言い換えの甘さに、栄子は少しずつ引き込まれていった。
④ 小さな不安に意味が与えられる
その日から、会の中で語られる話は、少しずつ色を変えていった。
最初は「お母さんは悪くない」「一人で抱えなくていい」という、ごくやさしい言葉ばかりだった。
だが、回数を重ねるごとに、その“苦しさの原因”に説明がつけられるようになっていく。
「人ってね、理由もなく同じことでつまずくことって少ないんです」
「家族の中で似たような苦しみが続く時って、見えない流れがあることも多いんですよ」
進行役の女性が、静かにそう語る。
栄子は最初、その意味がよくわからなかった。
だが、別の女性が続けた。
「うちもね、娘とうまくいかん時期がずっとあって」
「なんでこんなに苦しいんやろうって思っとったんやけど、学んでいく中で、先祖から続く因縁の影響もあるって知ったんです」
栄子は顔を上げた。
“先祖から続く因縁”。
あまりにも大げさな言葉だった。
日常の悩みとは結びつきにくいはずの言葉。
けれど、この場では、それが不思議とまっすぐ受け入れられていた。
誰も笑わない。
誰も「そんなわけない」と言わない。
むしろ、深くうなずいている。
「たとえば、自分に自信が持てないとか」
「いつも家族のために頑張ってるのに報われないとか」
「なぜか同じような苦しみが巡ってくるとか」
「そういうの、単なる性格や運じゃなくて、代々の流れの中にある場合があるんです」
栄子は知らず知らず、膝の上で手を握っていた。
自分にも思い当たることがある。
昔から、人の顔色を気にしやすかった。
失敗すると、必要以上に引きずった。
ちゃんとやらなければ、きちんとしていなければと、自分を追い込む癖があった。
そういうものを、ただの性格だと思ってきた。
コンプレックスだとも思っていた。
でもここでは、それが“自分だけの弱さ”ではなく、“もっと大きな流れ”として説明される。
それは恐ろしくもあり、同時に少し救いでもあった。
自分が悪いわけじゃない。
自分の努力が足りないだけでもない。
もしそういう“因縁”があるのなら――
そう思った瞬間、栄子の中で、ほんのわずかに何かが動いた。
⑤ 真光の輪の教えへ
その後、個別の話の中で、女性はようやく団体の名前を口にした。
「私たちは《真光の輪》という学びの場で、そういう心の問題や、家族に流れる見えない苦しさを学んでいるんです」
栄子は少し緊張した。
団体名が出たのは初めてだった。
だが、言い方はあくまで穏やかだった。
宗教だとは言わない。
信仰とも言わない。
ただ“学びの場”だと言う。
「真光の輪ではね、人が抱える苦しみには、表面の出来事だけじゃない原因があるって考えるんです」
「本人がどれだけ頑張っても報われない時、親子でなぜかすれ違ってしまう時、そこには見えない曇りがかかっとることがある」
「それを整えていくと、家庭が少しずつ変わるんですよ」
栄子は黙って聞いていた。
まるで、今の自分のために用意された言葉のようだった。
娘との距離。
夫との温度差。
自分の不安。
家の中に漂う、説明しきれない重たさ。
それら全部が、ここでは一つの筋道でつながっていく。
「真田さんみたいな方は、もう感じ始めとるんやと思う」
「普通の人にはまだ見えん段階でも、“あれ、何かおかしい”ってわかる」
「それは、選ばれた人の感受性なんです」
またその言葉だった。
選ばれた人。
特別な感受性。
栄子は、もうその響きを完全にははね返せなくなっていた。
⑥ 支部長・野々村千鶴の判断
その夜、金沢支部では短い報告がまとめられていた。
真田栄子。
四十代。
地元スーパー勤務。
中二の娘への不安が強い。
家庭内では夫が比較的現実的で、共感不足を感じている。
自己否定傾向あり。
責任感が強く、評価に飢えている。
「感受性」「特別」といった言葉への反応が良好。
報告を読んだ
《真光の輪》金沢支部支部長・野々村千鶴
は、静かに言った。
「この方は入ります」
周囲の女性たちが顔を上げる。
野々村は淡々と続けた。
「焦ってはいけません。ただし、次の段階に進めます」
「先祖の因縁と、本人の生きづらさを結びつけること」
「娘さんとのすれ違いを、“本人だけの問題ではなく家系に流れる曇り”として認識させること」
「夫にはまだ話を広げすぎない。先に本人の中で“ここだけが本当の理解者”という感覚を固めます」
その声には迷いがなかった。
栄子はもはや、ただの参加者ではない。
金沢支部にとっては、十分に見込みのある相手になっていた。
「次は、本人のコンプレックスに触れてください」
「“頑張っても報われない感覚”“昔からの生きづらさ”“親族の中に繰り返されてきた苦しみ”」
「そのあたりを先祖因縁と結びつけていけば、自分ごととして深く入ってきます」
指示は、冷たく正確だった。
救いの言葉は、ここでは道具だった。
共感は入口。
特別扱いは囲い込み。
因縁の話は、罪悪感と依存を生むための枠組み。
すべてが順番通りだった。
⑦ 栄子の心に芽生えたもの
帰宅した栄子は、夕飯の支度をしながらも、頭の中で何度もその言葉を反芻していた。
“選ばれた方”
“感受性が高い”
“先祖から続く因縁”
“見えない曇り”
“家庭に流れる苦しさ”
どれも、少し前の自分なら笑っていたかもしれない。
そんな大げさな話、あるわけがないと。
けれど今は、完全には笑えなかった。
自分の中に、確かに説明のつかないしんどさがある。
娘のことが気になってたまらないのも、単なる心配性では片づけきれない気がしてくる。
どうして自分はこんなに気にしてしまうのか。
なぜ、こんなに苦しくなるのか。
もしそこに意味があるのなら。
もし、自分がただ弱いだけではないのなら。
もし、この苦しさに名前がつくのなら。
栄子はその夜、台所で包丁を握りながら、ふと立ち止まった。
これまで“性格”だと思っていたものが、
“因縁”という言葉に置き換わった時、
人は自分の人生を、自分の手から少しずつ手放し始める。
栄子はまだ、その入口に立ったばかりだった。
それでももう、
《真光の輪》が差し出した物語の中に、
自分の苦しみを当てはめ始めていた。




