表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
57/58

家は、いま

 第四章 家は、いま


 十年後の真田家は、静かに強い家になっていた。


 強い、といっても、声が大きいわけではない。いつも明るく笑っているわけでもない。何があっても揺るがない、という意味でもない。


 むしろ、揺れることを知っている家だった。


 不安になることもある。過去を思い出して黙り込む日もある。見知らぬ番号から電話がかかってくるだけで、栄子の肩がわずかに強張ることもある。宗教団体や高額献金のニュースが流れると、茂之が無意識にテレビの音量を少し下げることもある。


 それでも、その揺れを隠さなくなった。


 不安なら不安と言う。


 嫌な記憶が戻ったなら、戻ったと言う。


 わからないことは確認する。


 気になることは、一人で抱え込まない。


 事件の前より、不器用かもしれない。けれど、以前よりずっと健全だった。


 その象徴のように、真田家の居間では月に一度、「暮らしと心の対話の会」が開かれていた。


 始まりは、本当に小さかった。


 栄子が、自分と同じ体験を誰にもしてほしくないと口にしたこと。圭一が、それなら一人で背負わず、専門家とつながる形でやろうと言ったこと。香奈美が、自分の観測の話ならできるかもしれないと言ったこと。茂之が、お茶を出す係ならできると言ったこと。


 最初は、四人の小さな決意だけだった。


 だが十年経った今、その会は地域に少しずつ根を下ろしている。


 玄関には、目立たない小さな札が置かれている。


 暮らしと心の対話の会


 ただそれだけ。


 “救い”や“真理”という言葉は使わない。


 “あなたを変えます”とも言わない。


 “ここへ来れば大丈夫”とも言わない。


 ただ、話せる場所であること。必要なら、弁護士や消費生活センター、自治体の相談窓口、心理士につなぐこと。家族や本人が孤立しないようにすること。


 それが、この会の役割だった。


 その日も、午後二時になる少し前から、栄子は居間を整えていた。


 座布団を並べ、湯呑みを出し、急須に茶葉を入れる。テーブルの上には、スーパーで買ってきた小さな和菓子とせんべいを置いた。


 高価なものではない。けれど、手抜きではない。


 話しに来る人は、たいてい緊張している。玄関をくぐるまでに、何度も迷っている。だからこそ、最初に出すお茶や菓子には、ちゃんと人を迎える温度が必要だった。


 栄子は、そのことを身にしみて知っていた。


 十年前の自分は、弱っていた。誰かに否定されずに話を聞いてほしかった。ただ、それだけだった。


 その気持ちを、教団に利用された。


 だから今、栄子は人の話を聞く時、必ず自分の中で確認する。


 この人を、自分のそばへ縛ろうとしていないか。


 この人に、都合のいい意味を与えようとしていないか。


 この人の苦しみを、自分の過去の償いに使っていないか。


 その問いを忘れないようにしている。


 午後二時ちょうど、最初の参加者が来た。


 五十代の女性だった。夫が高額な“開運セミナー”に通い始め、家族に相談なくローンを組もうとしているという。すでに何度か止めようとしたが、「お前にはわからない」「俺は人生を変えようとしている」と言われ、会話にならないらしい。


 次に来たのは、大学生の青年だった。母親が霊感商法のようなものに何度も金を払っている。本人は「これで家族が守られる」と信じており、止めると泣き出すという。


 さらに、脱会して三か月の女性も来た。まだ自分の言葉でうまく話せない。何が正しくて何が間違っていたのか、頭ではわかっても心が追いつかないと言う。


 栄子は、一人ひとりにお茶を出した。


「今日は、無理に全部話さなくて大丈夫です」


 いつものように、最初にそう伝える。


「ここで何かを決める必要もありません。話せることだけでいいです。必要なら、専門の窓口にも一緒につなぎます」


 この“一緒につなぐ”という言葉を、栄子は大事にしていた。


 かつて教団は、「ここだけが居場所」と言った。


 真田家の会は、そうではない。


 ここは、どこかへつながるための場所だ。


 閉じ込める場所ではない。


 話し合いは、静かに始まった。


 五十代の女性が、まずぽつりぽつりと話した。


「最初は、夫もそんなにおかしくなかったんです。ただ、定年後のことを不安にしていて……何か変わりたいって言っていました」


 栄子はうなずく。


「不安な時って、変わりたいと思いますよね」


「はい。でも最近、“家族は自分の成長を邪魔している”って言うようになって……」


 その言葉に、栄子の胸が少し痛んだ。


 ああ、同じだと思った。


 言葉は違う。団体も違う。だが、構造はよく似ている。


 家族の心配を、敵意や妨害にすり替える。


 本人を“理解されない特別な存在”にして、周囲から切り離す。


 栄子は、自分の経験をすぐには語らない。ただ、相手の話を聞いたあと、静かに言った。


「その言葉が出てきたら、かなり注意したほうがいいと思います」


「やっぱり……」


「ただ、そこで強く否定すると、向こうは“ほら、家族はわかってくれない”と思いやすいです。だから、まずは記録を残してください。いつ、何を言ったか。何にいくら払ったか。契約書やパンフレットがあれば、写真でもいいので残す」


 茂之が横から補足した。


「消費生活センターに相談する時も、記録があると話が進みやすいです。あと、契約書があるなら、クーリングオフや取消の余地があるか、早めに見てもらったほうがいいです」


 大学生の青年が、少し驚いたように茂之を見た。


「法律の人ですか?」


 茂之は少し苦笑した。


「まだ学生です。法学部で勉強中です」


「すごいですね」


「いや、まだ全然です。でも、相談先に行くまでの整理くらいは手伝えます」


 その言い方に、圭一が少しだけ目を細めた。


 昔は、母が戻ってくるかどうか不安で何度も確認していた子どもだった。今は、誰かが相談先につながるための言葉を、落ち着いて渡している。


 人は、こんなふうに時間をかけて育つのだと、圭一は思う。


 午後三時を過ぎた頃、リモート画面がつながった。


 野辺山にいる香奈美だった。


 画面の向こうの香奈美は、研究所の小さな会議室にいた。背後には白い壁と、観測スケジュールが書かれたボードが見える。


「聞こえますか?」


 栄子が笑う。


「聞こえとるよ」


 香奈美は軽く会釈した。


「今日は現地に行けなくてすみません。真田香奈美です。国立天文台で研究をしています」


 参加者たちは少し緊張したように画面を見る。


 香奈美は、いつも通り落ち着いた声で話し始めた。


「今日は、少しだけ宇宙の話をします。でも、難しい話ではありません」


 画面に一枚の画像が映った。


 遠い銀河だった。肉眼では見えない、電波観測と画像処理を通して浮かび上がった淡い構造。渦のような形。点在する星形成領域。そして、その一角に示された小さな印。


「これは、私たちのチームが観測している遠方銀河です。この中で、最近、超新星爆発が確認されました」


 大学生の青年が、小さく「すごい」とつぶやいた。


 香奈美は続ける。


「超新星爆発は、星が一生の終わりに起こす大きな現象です。とても遠い場所で起きた光が、長い時間をかけて私たちのところに届きます」


 画面が切り替わる。


 次は、十年前に地球へ接近した KANAMI COMET の写真だった。


 長い尾を引く彗星。


 真田家にとって、特別な光。


 香奈美は少しだけ間を置いた。


「私は、高校生の時に彗星を見つけました。小さな点の移動を、何度も確認して、既知の天体と照らし合わせて、それでも説明がつかなかった。それが後に彗星とわかりました」


 参加者の一人が、画面をじっと見つめていた。


 香奈美は穏やかに言った。


「その時に思ったんです。見えないことと、存在しないことは違う。今すぐ見えなくても、ちゃんと確かめていけば見つかるものがある」


 脱会して三か月の女性が、ゆっくり顔を上げた。


 香奈美はその人の表情を画面越しに見て、少しだけ声を柔らかくした。


「今、先が見えない人もいると思います。信じていたものを失って、何を頼ればいいのかわからない人もいると思います。でも、今見えないからといって、その先に光がないわけではありません」


 居間は静かだった。


「私は、簡単に大丈夫とは言いません。でも、光はあります。見えにくい時は、一人で探さなくていいです。誰かと一緒に見ればいい。一緒に確認すればいい」


 栄子は、その言葉を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 十年前、香奈美は怒っていた。


 母が自分の発見を“神様のおかげ”と塗り替えようとしたことに、本気で怒った。


 その怒りは、今、誰かに光を渡す言葉になっている。


 怒りが、ただの怒りで終わらなかった。


 それが栄子には、たまらなくありがたかった。


 香奈美の話が終わると、しばらく誰も話さなかった。


 やがて、脱会した女性が小さな声で言った。


「私、出てきてから、何もなくなった気がしていました」


 栄子は、その人を見る。


「でも、今のお話を聞いて……見えてないだけかもしれないって、少しだけ思えました」


 香奈美は画面越しにうなずいた。


「それでいいと思います。少しだけで」


 女性は涙をこぼした。


 栄子はティッシュを差し出した。抱きしめたりはしない。急に距離を詰めたりもしない。ただ、必要なものをそっと渡す。


 この距離感を、栄子は十年かけて学んだ。


 やがて、会は終わりに近づいた。


 参加者たちは、それぞれ少しだけ表情を変えていた。問題が解決したわけではない。夫のローンも、母の献金も、脱会後の空白も、明日すぐ消えるものではない。


 それでも、来た時より少しだけ、肩の力が抜けていた。


 玄関で見送る時、栄子は一人ひとりに言った。


「困ったら、また連絡してください」

「一人で決めなくていいです」

「必要なら、次は相談窓口に一緒につなぎましょう」


 最後に帰る脱会した女性が、玄関先で足を止めた。


「あの……また来てもいいですか」


 栄子は迷わず言った。


「もちろんです」


 その言葉を聞いた女性は、少しだけ笑った。


 弱い笑顔だった。でも、確かに笑顔だった。


 ドアが閉まり、家の中に静けさが戻った。


 栄子は湯呑みを片づけ始める。茂之はメモを整理し、圭一は玄関の鍵を確認する。画面の向こうの香奈美は、まだ接続を切らずにその様子を見ていた。


「今日も、お疲れさま」


 香奈美が言う。


 栄子が画面を見る。


「あんたこそ。研究所からありがとう」


「ううん。今日は話せてよかった」


 茂之が言った。


「姉ちゃんの光の話、効くな」


「そんなつもりで話してるわけじゃないけど」


「でも効いとる」


 圭一も頷いた。


「本物を見せる言葉は強いんや」


 香奈美は少し照れたように目を伏せた。


「本物ってほどでもないよ。画像やし」


 栄子は首を横に振った。


「本物やよ。あんたがちゃんと見て、確かめたものやから」


 その言葉に、画面の向こうの香奈美は一瞬だけ黙った。


 十年前には、同じ母が同じ娘の発見を、教団の言葉で塗り替えようとした。


 今は違う。


 ちゃんと見て、確かめたものだと認めている。


 それだけで、十年という時間の重みがあった。


 会が終わった夜、栄子は一人で台所に立った。


 湯呑みを洗い、菓子皿を拭き、テーブルを整える。もう何度も繰り返してきた作業だが、毎回少しだけ違う。


 来る人が違うからだ。


 抱えている傷が違うからだ。


 そして、自分自身も少しずつ変わり続けているからだ。


 栄子は、ふと窓の外を見た。


 金沢の夜空は、雲が切れて星がいくつか見えていた。


 野辺山ほどではない。香奈美が見ている遠い銀河も、肉眼では見えない。


 でも、見えないからといって、ないわけではない。


 栄子はそのことを、今なら信じられる。


 信じる、というより、確かめてきた。


 家族が壊れかけたこと。


 それでも戻れたこと。


 戻ったあとも傷は残ったこと。


 傷が残っても、人は誰かを支える側へ回れること。


 すべて、十年かけて確かめた現実だった。


 居間の灯りを落とす前、圭一が声をかけた。


「疲れたか」


「少し」


「無理すんなよ」


「うん。でも、今日来た人、また来るって」


「そうか」


 圭一は短く答えた。


 それだけで、二人には十分だった。


 誰かがまた来る。


 その時、この家には灯りがある。


 完璧な家ではない。痛みを知っている家だ。


 だからこそ、迎えられる人がいる。


 十年後の真田家は、そういう家になっていた。


 壊れかけた家が、誰かの戻る場所になる。


 それは大きな奇跡ではない。


 けれど、確かな答えだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ