暮らしと心の対話の会の現在
第5章 暮らしと心の対話の会の現在
真田家の居間で始まった「暮らしと心の対話の会」は、十年後の今も続いていた。
最初は、栄子が自分の経験を誰かの役に立てたいと願い、月に一度だけ自宅を開放した、小さな集まりだった。
参加者は数人。
宗教団体への高額献金に悩む家族。
霊感商法や開運商品を買い続ける親を止められず、途方に暮れている子ども。
団体を抜けたあと、居場所も人間関係も失い、何を信じればいいのかわからなくなった元信者。
最初の頃は、栄子も手探りだった。
自分の体験を話せば、誰かを助けられるのではないか。
苦しんでいる人を、できるだけ長く支えなければならないのではないか。
そう思うあまり、また一人ですべてを背負いそうになることもあった。
しかし圭一は、はっきりと線を引いた。
「この家は相談の入り口にはなれる」
「でも、ここだけで全部解決しようとしたらあかん」
その言葉をきっかけに、対話の会は少しずつ形を整えていった。
現在は、市の生活相談窓口、消費生活センター、地域の弁護士会、臨床心理士、福祉関係者と緩やかに連携している。
真田家だけで問題を抱え込まない。
法律の問題は法律の専門家へ。
心身の不調は医療や心理の専門機関へ。
契約や借金の問題は消費生活センターや弁護士へ。
家庭内の安全に不安がある場合は、警察や自治体へ。
この会は、人を囲い込む場所ではない。
誰かを正しい方向へ導く場所でもない。
それぞれが、自分に必要な場所へつながるための入り口だった。
一 玄関に掲げられた小さな札
会が開かれるのは、毎月第二土曜日の午後だった。
玄関先には、その日だけ小さな木の札が出される。
暮らしと心の対話の会
書かれているのは、それだけだった。
大きな看板もない。
派手な案内文もない。
「人生が変わる」
「必ず救われる」
「ここへ来れば大丈夫」
そうした言葉は、決して使わない。
かつて栄子を取り込んだ教団は、断定的な言葉を使った。
あなたは選ばれた。
ここが本当の居場所だ。
家族を救うには献身が必要だ。
すぐに答えを与え、意味を決めつけ、逃げ道をなくしていった。
だからこそ、この会では、簡単な答えを出さない。
参加者が玄関を入ると、最初に栄子が伝える。
「今日は、話せるところだけで大丈夫です」
「話したくないことは、話さんでいいです」
「ここで何かを決める必要もありません」
その言葉のあとに、もう一つ付け加える。
「ただ、危険がある時や、専門的な支援が必要な時は、ちゃんと外につなぎます」
「一緒に考えましょう」
それが、この会の基本姿勢だった。
二 お茶と、押しつけない距離
居間のテーブルには、急須と湯呑みが並ぶ。
菓子皿には、栄子が勤めるスーパーで選んだ煎餅や小さな和菓子。
高価なものではない。
だが、雑にも扱わない。
栄子は、最初のお茶をとても大切にしていた。
教団の相談会でも、お茶と菓子が出た。
笑顔で迎えられ、否定されず、努力を認められた。
その記憶は今も残っている。
だから栄子は、お茶や共感そのものが悪いとは考えない。
怖いのは、その後だ。
安心させたあとで、相手を依存させる。
ここだけが安全だと思わせる。
家族や友人から切り離す。
だからこの会では、参加者との距離を急に縮めない。
泣いている人を、許可なく抱きしめない。
連絡先を過剰に求めない。
私生活のすべてを聞き出そうとしない。
参加し続けることを勧めない。
次も必ず来てください、とも言わない。
「必要な時に来てください」
栄子は、いつもそう言った。
来るかどうかを決めるのは、相手自身だからだ。
三 現在の参加者たち
十年が経ち、会に来る人は少しずつ増えていた。
宗教団体に関する被害だけではない。
高額な自己啓発講座。
スピリチュアルカウンセリング。
開運商法。
家族や恋人を切り離すオンラインサロン。
不安をあおり、商品や講座を買わせるコミュニティ。
問題の形は変わっても、根にある構造はよく似ていた。
ある日の参加者は、五十代の女性だった。
定年を前に不安を抱えていた夫が、高額な人生再生セミナーへ通い始めたという。
「最初は、前向きになったように見えたんです」
女性は、湯呑みを両手で包みながら話した。
「でも最近は、家族は自分の成長を邪魔しとるって言うようになって」
「退職金の一部も、講座に使うつもりみたいで」
栄子は、すぐに相手の夫を批判しなかった。
「変わりたいと思った気持ち自体は、本物やったのかもしれませんね」
女性が顔を上げる。
「ただ、その気持ちを利用されとる可能性はあると思います」
「まず、何に、いくら払ったか。どんな説明を受けたか。記録を集めましょう」
栄子はノートを差し出した。
「腹が立つと思います。でも、今は証拠を残すほうが大事です」
別の日には、大学生の青年が来た。
母親が、先祖供養を名目に何度も金を支払っている。
止めようとすると泣き出し、
「私が払わんかったら、家族に災いが起きる」
と訴えるという。
青年は疲れきっていた。
「何を言っても、聞いてくれません」
「もう、怒鳴ってしまいそうです」
その言葉に、圭一が静かに応じた。
「怒るのは当然や」
「でも、怒りだけで動く前に、相談先を増やしたほうがいい」
栄子も続ける。
「家族だけで戻そうとすると、みんな疲れます」
「あなた一人が、お母さんを救わんでもいいんです」
青年は、その言葉を聞いた瞬間、顔を伏せた。
誰かに、そう言ってほしかったのだろう。
四 栄子の役割
栄子は、この会の中心にいる。
だが、自分を代表者だとは考えていなかった。
自分は、経験した人間の一人にすぎない。
今でもそう思っている。
栄子は、必要な時には自分の体験を話す。
子育てに悩み、職場の同僚から相談会へ誘われたこと。
最初は宗教だと知らなかったこと。
話を否定されず、頑張っていると認められ、救われた気持ちになったこと。
少額の支払いから始まり、家族を救うためだと言われ、高額な契約や献金へ進んだこと。
家族を敵だと思いかけたこと。
自分が正しいと信じながら、家庭を壊していたこと。
しかし、すべてを毎回話すわけではない。
自分の体験を語ることで、相手の苦しみを上書きしたくないからだ。
「私の時はこうやった」
と言うことはあっても、
「あなたも同じです」
とは決して言わない。
人によって事情は違う。
家族関係も違う。
戻るために必要な時間も違う。
栄子が十年かけて学んだのは、人を助けるとは、その人の人生を代わりに決めることではないということだった。
五 圭一の役割
圭一は、会の表に立ちすぎない。
警察署長という立場もあるため、参加者に圧迫感を与えないよう、普段は少し離れた場所に座っている。
だが、安全管理は必ず担う。
教団関係者が押しかけてきた場合。
元配偶者や家族から暴力を受ける可能性がある場合。
参加者が自傷や他害をほのめかした場合。
そうした時、誰に連絡し、どう動くかを事前に整えている。
また、会の終わりには必ず玄関や駐車場まで確認する。
「開くことと、無防備になることは違う」
それが圭一の考えだった。
優しさには境界線が必要だ。
安全を守れない優しさは、時に新しい被害を生む。
圭一は、家族が一度その危うさを経験したからこそ、曖昧にしなかった。
六 茂之の役割
金沢大学法学部四年生になった茂之は、法律面の入り口を担当することが増えていた。
もちろん、まだ弁護士ではない。
法律相談を正式に受けることはできない。
そのため、茂之は必ず最初に伝える。
「僕は法学部の学生です」
「法律的な判断は、必ず弁護士や専門窓口に確認してください」
その上で、
契約書や領収書を整理する。
経緯を時系列にまとめる。
録音やメッセージの保存方法を説明する。
相談窓口で何を話せばいいかを、一緒に整理する。
そうした役割を担っていた。
「法は万能じゃないです」
茂之は、よく言う。
「でも、証拠が残っとれば、できることは増えます」
「だから、捨てんでください。消さんでください」
十年前、何もできないと感じていた少年は、今は誰かが制度へつながるための橋を作っている。
七 香奈美の役割
香奈美が金沢へ帰省している時、会の終わりには庭へ望遠鏡が出されることがあった。
木星。
土星。
月のクレーター。
星団。
季節によっては、淡い星雲。
香奈美は、参加者へ難しい説明を押しつけない。
「まず、見てください」
そう言って、望遠鏡を譲る。
参加者が小さく息をのむ。
その瞬間を、香奈美は急かさず待つ。
そして言う。
「今見えてるのは、ほんの一部です」
「見えにくいものも、ちゃんとあります」
香奈美が野辺山にいる時は、リモートで参加する。
自分が観測した遠方銀河の画像。
超新星爆発。
分子雲。
カナミ彗星の写真。
肉眼では見えない宇宙を画面に映しながら、こう伝える。
「見えないことと、存在しないことは違います」
「今すぐ先が見えなくても、その先までなくなったわけやないです」
そして最後には、必ず同じ言葉を添える。
「光はあります」
「一人で見つけられん時は、誰かと一緒に探してください」
その言葉は、教団のように答えを押しつけるものではない。
自分を信じろとも言わない。
ただ、本物の星や銀河の光を見せる。
その上で、希望を失わないでほしいと伝える。
それが香奈美の役割だった。
八 脱会した人を迎える場所
解散命令が出された教団から離れた元信者も、少しずつ会に来るようになっていた。
彼らの多くは、被害者である一方、過去に誰かを勧誘した経験も持っていた。
そのため、単純に自分を被害者だと言えず、強い罪悪感を抱えている人もいた。
「私も友達を誘いました」
ある女性は泣きながら話した。
「本当に救えると思ってたんです」
「でも、あの子もお金を取られて」
「今さら謝っても許されんと思います」
部屋は静かだった。
栄子は、すぐに
「あなたも被害者です」
とは言わなかった。
それだけでは、女性が向き合おうとしている責任まで消してしまうからだ。
「したことの責任は、なくならんと思います」
栄子は、静かに言った。
「でも、責任があることと、人生を終わらせることは別です」
「謝れるなら謝る。返せるものがあるなら返す。できることを考える」
「そのためにも、生きて外におらんなん」
女性は泣きながらうなずいた。
この会は、何でも許す場所ではない。
だが、人を永遠に罪の中へ閉じ込める場所でもない。
責任と再出発を、同時に考える場所だった。
九 会の終わり
夕方になると、参加者たちは少しずつ帰っていく。
問題が解決したわけではない。
借金は残っている。
家族との関係も、すぐには戻らない。
教団の言葉が頭から離れない人もいる。
それでも、来た時より少しだけ顔を上げて帰る人がいる。
玄関で、
「また来てもいいですか」
と尋ねる人もいる。
栄子は、そのたびに答える。
「必要な時に来てください」
その言葉には、縛らない優しさがあった。
会が終わると、家族で片づけをする。
栄子は湯呑みを洗う。
圭一は戸締まりを確認する。
茂之は相談先へつなぐためのメモを整理する。
香奈美は帰省中なら望遠鏡を片づけ、野辺山にいれば画面越しに最後まで見守る。
誰か一人の善意で成り立つ会ではない。
家族と専門家と地域が、それぞれできる範囲で支えている。
だから続けられていた。
十 灯りのある家
対話の会が終わった夜、栄子は居間の灯りを少しだけ残しておく。
誰かが戻ってくるわけではない。
それでも、すぐには消さない。
十年前、自分が欲しかったものを思い出すからだ。
正解ではない。
大きな真理でもない。
すぐに人生を変える方法でもない。
ただ、苦しいと言っても追い出されない場所。
間違ったあとでも、戻ってきていいと言われる場所。
必要なら、現実の支援へつないでくれる場所。
真田家は、完璧な家ではない。
今も傷は残っている。
それでも、その傷を隠さず、誰かが話せる灯りをともしている。
かつて壊れかけた家は、十年後、誰かを囲い込む場所ではなく、誰かが外の世界へ戻っていくための場所になっていた。
それが、現在の「暮らしと心の対話の会」だった。




