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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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茂之、法を学ぶ

 第三章 茂之、法を学ぶ


 金沢大学のキャンパスには、冬の手前の乾いた風が吹いていた。


 木々の葉は少しずつ色を失い、足元には落ち葉が重なっている。学生たちは厚手の上着を羽織り、講義棟から図書館へ、図書館から食堂へと、それぞれの速度で歩いていた。


 その中を、真田茂之は分厚い六法とノートパソコンを抱えて歩いていた。


 法学部四年生。


 十年前、母に何度も「もう変なところへ行かんよね」と確かめていた少年は、今では法律家を目指す学生になっていた。


 背も伸びた。声も低くなった。昔のように、何かあるたびに母の顔色をうかがうことは少なくなった。


 けれど、あの頃の記憶が消えたわけではない。


 夜の食卓が重かったこと。


 母の言葉が少しずつ変わっていったこと。


 父と姉が深夜に小さな声で話していたこと。


 知らない人からの電話に家の空気が固まったこと。


 そして、母に何度も確認せずにはいられなかった自分。


 子どもだった。


 それはわかっている。


 でも、何もできなかったという感覚だけは、今も胸の奥に小さく残っている。


 だから茂之は、法を学んでいた。


 ただ正義感だけで選んだわけではない。警察官の父に憧れたからだけでもない。


 あの時、家を守るには、愛情だけでも、怒りだけでも、正論だけでも足りなかった。弁護士が必要だった。証拠が必要だった。制度が必要だった。けれど同時に、法が動く頃には、家の中はもうかなり壊れていることも知った。


 その両方を見たからこそ、茂之は法律を学んでいる。


 午後のゼミ室には、十人ほどの学生が集まっていた。


 テーマは、消費者契約法と不法行為責任。そこに宗教団体やスピリチュアル商法、自己啓発セミナーをめぐる被害事例を絡めて議論する回だった。


 担当教授の高柳は、六十代前半の穏やかな男で、民法と消費者法を専門としている。物腰は柔らかいが、学生の曖昧な主張には容赦なく問い返すタイプだった。


「では、真田くん。今日の発表をお願いします」


「はい」


 茂之は立ち上がり、パソコンを接続した。


 画面に映し出されたタイトルは、


 『信仰・自己決定・消費者被害――自由意思はどこで歪められるのか』


 だった。


 少し大げさな題だと自分でも思った。だが、この題から逃げたくなかった。


「本日の発表では、高額献金や霊感商法、宗教的勧誘をめぐる民事上の責任について考えます。特に、“本人が署名している”“本人が支払っている”という外形がある場合でも、その意思決定が本当に自由だったと言えるのか、という点を中心に整理します」


 茂之は、淡々と話し始めた。


 契約書に署名がある。


 本人が説明を受けたことになっている。


 支払いも、形式上は自らの口座から行われている。


 しかし、そこに至るまでに、恐怖や罪悪感、家族への不幸の暗示、選民意識の植え付け、周囲からの孤立化があった場合、それをどこまで法的に評価できるのか。


 ゼミ室は静かだった。


 茂之は判例を示し、条文を確認し、次に仮想事例を提示した。


「たとえば、ある母親が、子育ての不安を抱えて相談会に参加したとします。最初は少額の参加費だけだったものが、やがて“家族を救うため”“先祖の因縁を断つため”という名目で、高額な物品購入や献金に進んでいく」


 そこで、一瞬だけ言葉が止まりそうになった。


 これは仮想事例だ。


 そう自分に言い聞かせる。


 実際の家族の話ではない。ゼミの場で、自分の家をさらす必要はない。


 けれど、どれだけ一般化しても、茂之の中では十年前の食卓につながっている。


 彼は一度息を吸い、続けた。


「この場合、契約や献金の外形だけを見れば、本人が自発的に行ったように見えます。しかし、意思決定の前提となる情報や心理状態が、団体側によって継続的に操作されていた場合、これを完全な自由意思と評価することには大きな問題があります」


 同級生の一人が手を挙げた。


「でも、その線引きって難しくない?宗教的な勧誘とか信仰上の助言と、違法な心理的圧迫の境目って、客観的に判断できるの?」


「難しいです」


 茂之はすぐに答えた。


「だからこそ、金額や頻度、勧誘の言葉、家族からの孤立化の有無、断った時の反応、脅しの表現、契約に至るまでの経緯を丁寧に見る必要があります。一回だけの発言ではなく、構造として見ないといけないと思います」


「構造?」


「はい。たとえば、本人が家族に相談できない状態を作る。周囲の反対を“真理への抵抗”のように説明する。支払わないことで不幸が起きると示唆する。こういうものが重なっていくと、本人は選んでいるつもりでも、実際には選択肢が狭められています」


 言いながら、茂之は自分の中で言葉が少し熱を帯びるのを感じた。


 気をつけなければいけない。


 これは発表だ。怒りの演説ではない。


 だが、高柳教授は止めなかった。ただ、静かに聞いている。


 茂之は画面を切り替えた。


「さらに問題なのは、法的手段にたどり着くまでの時間です。被害者本人が被害を認識していない段階では、家族は動きにくい。本人が納得しているように見えるからです。けれど、家族の中ではすでに食費が削られたり、会話が減ったり、子どもが不安定になったりしていることがある」


 ここで、言葉が一瞬だけ重くなった。


「つまり、法が本格的に動く頃には、家庭内の被害はかなり進行している場合があります」


 ゼミ室の空気が少し変わった。


 高柳教授が、ゆっくりと口を開いた。


「真田くん。君は、“法が動く前”の段階をかなり重視しているようですね」


「はい」


「それはなぜですか」


 茂之は、数秒だけ黙った。


 正直に言うか。


 言わないか。


 ここは大学のゼミであって、告白の場ではない。だが、自分の発表に重みを持たせているものを隠したままでは、どこか嘘になる気がした。


「家族が、そういう被害に近いところまで行ったことがあります」


 ゼミ室が静かになった。


「詳しいことは省きます。でも、当時僕は子どもで、何が起きているか完全にはわかりませんでした。ただ、家の空気が変わっていくのはわかりました。食卓が変わる。会話が変わる。母の言葉が変わる。でも、子どもには止められない」


 茂之は、机の端を軽く握った。


「だから思うんです。法は必要です。でも、法が動く頃には、家の中はもうかなり壊れていることがある。だから、相談につながる前の小さな違和感を、どう地域や学校や家族が拾うかがすごく大事です」


 しばらく誰も話さなかった。


 高柳教授は、眼鏡の奥で茂之をじっと見ていた。


 やがて、静かに言った。


「真田くんの言葉には、現実を見た人間の重さがあるね」


 茂之は少し照れたように笑った。


「ありがとうございます」


「ただし、君の課題も見えます」


「はい」


「現実を見た人間ほど、制度に対して焦る。もっと早く、もっと強く、もっと広く介入すべきだと考えがちです。それは大事な感覚ですが、同時に、自由や信仰、自己決定との緊張関係も忘れてはいけません」


「はい」


「その緊張を抱えたまま考えること。それが法を学ぶということです」


 その言葉は、茂之の胸に深く残った。


 ゼミが終わったあと、友人の西野拓海が声をかけてきた。


「真田、お前の発表、重かったな」


「重かった?」


「うん。いい意味で。教科書の話って感じじゃなかった」


「まあ、ちょっと私情入ったかも」


「でも、あれくらい入ってたほうが伝わるわ。俺、正直こういう宗教被害とか霊感商法の話って、どっか遠い話やと思ってたけど、家の空気が壊れるって言われて、ちょっと見方変わった」


 茂之は、少しだけ肩の力を抜いた。


「そう言ってもらえるなら、発表した意味あったかも」


 拓海は笑って、六法を肩に担いだ。


「それにしても、お前、ほんまに弁護士目指すん?」


「たぶん」


「たぶんて」


「まだ迷っとる。法科大学院行くか、予備試験本気で狙うか、就職してから考えるか」


「署長の息子やし、警察行くんかと思ってたわ」


「それも考えたことある」


 茂之は正直に言った。


「でも、父さんは警察で人を守ってる。僕は別の入口から守りたいんかもしれん」


「別の入口?」


「契約とか、相談とか、裁判とか。家の中で“これやばいんじゃないか”って思った時に、どう動けるかを一緒に考えられる人になりたい」


 拓海は、少しだけ真面目な顔になった。


「お前、向いとると思うわ」


「何に」


「そういう、めんどくさい人助け」


「褒めとる?」


「褒めとる」


 二人は笑った。


 その日の夕方、茂之は大学の図書館に残った。


 消費者契約法の注釈書、不法行為法の基本書、宗教法人に関する資料。机の上に何冊も積み上げ、ノートに論点を整理していく。


 だが、途中で集中が切れた。


 スマホを開くと、姉の香奈美から家族グループに写真が届いていた。


 野辺山の観測所。白いアンテナと、澄んだ夜空。そして一枚、遠方銀河の画像。かすかな光の中に、超新星候補の位置が丸で示されている。


 香奈美のメッセージ。


「正式に確認された。遠い銀河の超新星」


 すぐに母・栄子が返信している。


「おめでとう。ちゃんと見たから見つかったんやね」


 父・圭一も続けた。


「ようやった」


 茂之は画面を見ながら、少し笑った。


 姉は遠い宇宙を見ている。


 自分は、目の前の社会の仕組みを見ている。


 見ているものは全然違う。けれど、根っこはたぶん同じだ。


 見えにくいものを、なかったことにしない。


 小さな変化を、見逃さない。


 誰かが勝手につけた意味ではなく、事実をたどる。


 姉はそれを宇宙でやっている。自分は人間の社会でやりたい。


 茂之はスマホに返信した。


「姉ちゃん、また見つけたんやな。すごい」


 少しして香奈美から返事が来た。


「まだ私はチームの一人やよ」


 茂之は笑いながら打った。


「そこが姉ちゃんらしい」


 そのあと、ふと思い立ってもう一文を送った。


「今度、観測の話、対話の会でしてよ。光の話、必要な人おると思う」


 香奈美からの返事は、少し間を置いて来た。


「帰れたらね」


 その短い返事に、茂之は妙に安心した。


 帰れる場所がある。


 その事実が、真田家にとってどれほど大きいかを、茂之はよく知っている。


 夜、家へ帰ると、圭一はすでに帰宅していた。署長になっても、対話の会が近い日はなるべく早く帰るようにしている。栄子は台所で夕食の準備をしていた。


「ただいま」


「おかえり」


 栄子の声が返ってくる。


 それだけのことが、昔は一時期、難しかった。


 茂之は荷物を置き、リビングに入る。圭一が新聞を畳みながら聞いた。


「ゼミ、どうやった」


「まあまあ」


「まあまあって顔やないぞ」


「ちょっと発表してきた」


「何の」


「宗教被害と消費者契約。自由意思はどこで歪むのか、みたいな」


 圭一はしばらく黙った。


「……重いな」


「うん」


「話したんか。うちのこと」


「少しだけ。詳しくは言ってない」


「そうか」


 圭一はそれ以上は聞かなかった。


 栄子も、台所で手を止めていた。顔は見えないが、聞いているのはわかった。


 茂之は、少し迷ってから言った。


「母さん」


「ん?」


「僕、あの時のこと、全部忘れたいわけじゃないんやと思う」


 栄子は、ゆっくり振り返った。


 茂之は続ける。


「もちろん、しんどかったし、嫌やったし、今でも思い出すことはある。でも、忘れたいだけやったら、たぶん法学部行ってない」


 圭一も栄子も黙って聞いていた。


「僕、あの時何もできんかったってずっと思っとった。でも、今なら、何かできる人になれるかもしれんって思う」


 栄子の目が少し揺れた。


「……ごめんね」


 十年経っても、母は時々そう言う。


 茂之は首を横に振った。


「今日は謝ってほしくて言ったんやない」


「うん」


「ただ、母さんが戻ってきたから、僕はこうやって考えられとるんやと思う。戻ってこんかったら、たぶん怒りだけで終わっとった」


 その言葉に、栄子は何も返せなかった。


 圭一が、静かに言った。


「怒りだけでは、人は守れんからな」


 茂之はうなずいた。


「うん。だから、勉強する」


 それだけ言うと、彼はテーブルに六法を置いた。


 その夜の夕食は、鶏の治部煮風の煮物だった。金沢らしい味つけで、栄子が少し丁寧に作ったものだ。


 食卓を囲みながら、茂之はふと思う。


 十年前、自分はこの食卓が怖かった。


 母の言葉が変になるのが怖かった。父と姉が黙るのが怖かった。何か言うと壊れるような気がして、息をひそめていた。


 今は違う。


 過去の話もできる。怒りも、後悔も、将来のことも、同じテーブルに置ける。


 完全な家ではない。


 でも、壊れたままでもない。


 それが、今の真田家だった。


 食後、茂之は自室に戻り、ゼミの発表資料をもう一度開いた。


 最後のスライドには、こう書いてある。


「法は、壊れた後に動くことが多い。だからこそ、壊れる前の違和感を拾う仕組みが必要である。」


 茂之は、その一文をしばらく見つめた。


 そして、少し書き足した。


「戻る場所を残すことも、被害回復の一部である。」


 その言葉は、条文には載っていない。


 けれど、茂之にとっては、十年かけて家族から学んだ法の前提だった。


 窓の外には、金沢の夜が広がっていた。


 野辺山ほど星は見えない。遠い銀河も、超新星も、肉眼ではわからない。


 それでも、見えない光はどこかにある。


 姉がそれを見ている。


 父は地域で人を守っている。


 母は誰かの話を聞いている。


 なら、自分も、自分の場所で光を拾う人間になりたい。


 茂之は再びノートに向かった。


 六法のページをめくる音が、静かな部屋に響いた。


 十年前、何もできなかった少年は、もうただ怯えているだけの子どもではなかった。


 彼は今、法という言葉を使って、誰かの帰る場所を守るための道を歩き始めていた。

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