野辺山の空の下で
第二章 野辺山の空の下で
長野県南佐久郡南牧村、野辺山。
朝の空気は、金沢のそれとはまるで違っていた。
金沢の冬は、水気を含んだ冷たさが肌にまとわりつく。空は低く、雲は厚く、町全体が静かに湿っている。けれど野辺山の冷え方は、もっと乾いていて、刃物のようだった。
頬に当たる風が痛い。息を吸うと、肺の奥まで冷える。
だが、その冷たさが香奈美は嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
空気が澄んでいる。余計なものが削ぎ落とされている。遠くの山の稜線も、観測所の白いアンテナも、朝の光の中でくっきりと浮かび上がる。
野辺山電波観測所。
巨大なパラボラアンテナが、ゆっくりと空の一点へ向きを変えていた。
その動きは、静かだった。巨大な鉄の構造物であるにもかかわらず、どこか生き物のようでもあった。遠い宇宙から届く、かすかな声を聞き取ろうとしている耳のように。
真田香奈美は、厚手のコートのポケットに手を入れたまま、その姿を見上げていた。
十年前、金沢の高校で天文部にいた少女は、いま国立天文台の研究者になっていた。
かつて、自宅の望遠鏡と学校の観測機材で、小さな点の移動を見つけた。何度も画像を比較し、赤経と赤緯を調べ、既知の天体データと照合し、それでも説明がつかないことを確認した。
その先にあったのが、KANAMI COMET だった。
あの彗星は、彼女の人生を変えた。
いや、人生を変えたというより、彼女がもともと持っていたものを、はっきり形にしたのだと思う。
人から与えられた意味ではなく、自分の目で見て、測り、確かめる。
その姿勢は、十年前、母・栄子を教団から取り戻す過程で、香奈美の中に深く根を張った。
そして今、香奈美は、はるか遠くの銀河を見ている。
肉眼では決して見えない場所。望遠鏡を覗いてもただのかすかな光点にしか見えないような、何千万光年、何億光年も離れた宇宙。
そこから届く電波を拾い、分子雲の動きを読み、銀河の中で何が起きているのかを推測する。
人間の目には見えない。だが、ないわけではない。
見えないことと、存在しないことは違う。
その言葉は、香奈美が研究者として生きるうえで、何度も自分に言い聞かせてきた言葉でもあった。
観測室に入ると、すでに同僚の三浦怜奈がモニターの前に座っていた。怜奈は香奈美より三つ年上で、銀河進化を専門にしている研究者だった。短く切った髪を耳にかけ、眠そうな目でコーヒーをすすっている。
「おはよう、真田さん。外、寒かったでしょ」
「痛い寒さでした」
「野辺山の歓迎やね」
怜奈は笑って、隣のモニターを指した。
「昨夜のデータ、もう一次処理終わってるよ。例の銀河、やっぱり少し変」
香奈美はすぐに椅子へ座り、画面に向かった。
表示されているのは、遠方銀河 NGC-7X41 の観測データだった。仮番号で呼ばれるその銀河は、地球から見れば小さな光の染みのような存在だ。しかし電波で見ると、その内部には複雑な構造があった。
分子ガスの分布。星形成領域。中心部の活動性。そして、前回観測時にはなかった異常な増光。
香奈美はマウスを動かし、前回データと重ね合わせた。
「ここ……」
画面の一点を拡大する。
「やっぱり、前回より明らかに強いですね」
「ノイズでは?」
「一応疑いました。でも、同じフレーム内の他の領域は安定してます。受信側の異常ならもっと広範囲に出るはずです」
「校正誤差?」
「補正後でも残ってます」
香奈美の声は落ち着いていた。
こういう時、彼女は決して急がない。
見つけたかもしれない。そう思う瞬間ほど、慎重になる。十年前、カナミ彗星を見つけた時もそうだった。あの時も、最初は自分の目を疑った。ノイズかもしれない。画像のズレかもしれない。既知天体かもしれない。
しかし、疑い続けたからこそ、本物へたどり着いた。
信じるのではない。確かめる。
その姿勢は、香奈美の中でほとんど祈りに近いものになっていた。
怜奈が言った。
「超新星候補?」
「まだ候補です。断定はできません。でも、この位置、この増光、この時間変化なら、かなり可能性は高いと思います」
「光学観測とも照合する?」
「はい。国内外の観測網にも照会したいです。あと、前後のアーカイブも全部洗います」
香奈美はすでに手を動かしていた。
研究者としての彼女は、感情を大きく表に出さない。喜びも興奮も、一度データの中へ沈める。そこから、事実だけを拾い上げる。
怜奈が、少し楽しそうに言った。
「真田さんって、何か見つける時、ほんと顔変わるよね」
「そうですか?」
「うん。静かになる」
「普段もうるさくないですけど」
「そういう意味じゃなくて。なんか、周りの音が消える感じ」
香奈美は少しだけ笑った。
「たぶん、怖いんです」
「怖い?」
「はい。見つけたと思う瞬間って、嬉しいより先に怖いんです。間違ってたらどうしようって」
怜奈は少し意外そうに目を細めた。
「KANAMI COMET の時も?」
「めちゃくちゃ怖かったです」
香奈美は画面を見たまま答えた。
「あの時は高校生でしたし、最初はほんとに、自分が何か見間違えたんじゃないかと思ってました。でも、何回見ても動いてる。既知天体にも出てこない。先生に見てもらっても、おかしいってなって」
「それで国立天文台に送った」
「はい」
「その時から研究者向きだったんだね」
香奈美は首を横に振った。
「研究者向きかどうかはわかりません。でも、あの時、勝手に意味をつけるのだけは絶対に嫌でした」
怜奈は、その言葉に少しだけ黙った。
香奈美の家庭に何があったのか、研究所の同僚たちはおおまかには知っている。詳しく踏み込む人はいない。けれど、彼女がなぜ“確認すること”にここまでこだわるのか、その背景に何かがあることは感じ取っていた。
香奈美はモニターを見つめながら続けた。
「母が、一時期、何でもかんでも変な意味づけをするようになったんです。空も、星も、家のことも。教団の言葉で全部説明しようとして」
その声は穏やかだった。だが、底に少しだけ硬さがあった。
「その時、すごく嫌だったんです。私が見つけたものまで、神様が見つけてくださったって言われて」
「……きついね」
「はい。だから、私はたぶん、あの時からずっと、自分で確かめたいんです」
観測室に短い沈黙が落ちた。
やがて怜奈が言った。
「じゃあ、この増光も、ちゃんと確かめよう」
「はい」
香奈美はうなずいた。
その日から、観測所は少し慌ただしくなった。
過去データの再確認。別波長での観測依頼。光学望遠鏡チームへの照会。海外データベースとの比較。自動検出システムのログ確認。
香奈美は一つずつ検証していった。
焦らない。飛びつかない。否定できる可能性を先に潰す。
データは少しずつ、同じ方向を示し始めた。
遠方銀河 NGC-7X41 の外縁部で、超新星爆発が起きた可能性が極めて高い。
星が一生を終える時、膨大なエネルギーを放って爆発する。その光は、何千万年もの時間を越えて地球へ届く。
その瞬間を、いま香奈美たちは捉えようとしていた。
数日後、正式な確認が取れた。
研究チームは、遠方銀河内の新たな超新星爆発の発見を報告することになった。香奈美の名前も、その発見者の一人として記録される。
発表資料を作り終えた夜、香奈美は観測所の外へ出た。
野辺山の空は、驚くほど深かった。
星が多い。金沢では見えにくい星まで、ここでは静かに瞬いている。冬の星座が高く昇り、冷えた空気の中で鋭く光っていた。
香奈美は、空を見上げながらスマホを取り出した。
母へメッセージを送る。
「超新星、正式に確認されたよ」
少しして、栄子から返信が来た。
「おめでとう。テレビで見られるんかな」
香奈美は笑った。
「たぶんニュースには少し出るかも。でも地味な話やよ」
すぐに返ってくる。
「地味でもすごいことやろ。ちゃんと見たから見つかったんやもんね」
香奈美は、その文字をしばらく見つめた。
十年前、母は「神様が見つけてくださった」と言った。
今の母は、「ちゃんと見たから見つかった」と言う。
その違いが、香奈美には何よりも大きかった。
過去は消えない。
あの怒りも、あの傷も、完全に消えたわけではない。ふとした拍子に思い出すこともある。母の言葉に過敏になる瞬間も、まだゼロではない。
けれど、母は変わった。
自分の言葉で、現実を見ようとしている。
香奈美は短く返した。
「うん。ちゃんと見た」
そのあと、少し迷ってから、もう一文を送った。
「今度帰ったら、写真見せる」
栄子からの返事はすぐだった。
「楽しみにしとる」
香奈美はスマホをしまい、もう一度空を見上げた。
遠い銀河で起きた爆発の光は、長い長い時間をかけてここへ届いた。
星の死が、地球では発見になる。終わりが、誰かの始まりになる。
不思議だと思った。
でも、人生も少し似ているのかもしれない。
十年前、真田家は一度壊れかけた。あの時の痛みは、今も完全には終わっていない。けれど、その痛みがあったからこそ、香奈美は研究者としてここに立っている。茂之は法を学び、栄子は誰かの相談に寄り添い、圭一は署長として人の暮らしの壊れ方に目を向けている。
傷は、ただの傷では終わらなかった。
時間をかけて、別の光になった。
翌週、発見のニュースは科学系の番組で短く紹介された。
金沢の真田家では、栄子がテレビの前に座っていた。圭一も隣にいる。茂之は大学から少し遅れて帰ってきて、録画を見ることになっていた。
画面には、香奈美の姿が映る。
研究所の観測室。背後にはモニターとデータ画像。香奈美は落ち着いた表情でインタビューに答えていた。
「見つけたというより、データがそこにあっただけです」
「ちゃんと見たら、ちゃんと見えることがある」
「今回の発見も、多くの観測と確認の積み重ねの結果です」
栄子は、その言葉を聞いて目を潤ませた。
圭一が横から言う。
「泣いとるんか」
「泣いとらん」
「いや、泣いとるやろ」
「ちょっとだけや」
栄子は苦笑した。
テレビの中の香奈美は、十年前の少女ではない。だが、芯は変わっていない。現実を見ようとする目。勝手な意味づけを許さない強さ。そして、見えないものの先に光を探す力。
栄子は、そっとつぶやいた。
「ちゃんと届いたんやね」
圭一は、何も言わなかった。
ただ、同じ画面を見つめていた。
その夜、茂之が帰ってきて録画を見ると、彼は少し照れくさそうに笑った。
「姉ちゃん、なんか研究者っぽいな」
圭一が言う。
「研究者やろ」
「いや、そうなんやけど。なんか、ほんまに遠くへ行ったんやなって」
栄子は首を振った。
「遠くを見とるだけで、帰ってくる場所はここやよ」
その言葉に、茂之は少しだけ黙った。
香奈美は遠い銀河を見ている。
でも、あの子の光は、この家にも届いている。
真田家の夜は、静かに更けていった。
野辺山の空の下で、香奈美が見つけた遠い超新星の光。
それは、ただの研究成果ではなかった。
十年前、壊れかけた家が、それでも未来を育てた証だった。




