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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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戻ってきた味、戻らない傷

 第四十九章 戻ってきた味、戻らない傷

 ① 振り込まれた現実


 冬の気配が金沢の朝に混じり始めたころ、真田家の口座に一つの大きな変化があった。


 賠償金が、実際に振り込まれたのだ。


 それは、単に栄子が支払ってしまった分の返還だけではなかった。

 壺、祈祷料、教育ローン分の損害、生活を圧迫されたことによる実害、そして家族が被った精神的な苦痛に対する賠償も含めた金額だった。


 圭一は、銀行の記帳結果を見ながら、しばらく何も言えなかった。


 数字は確かにそこにある。

 帳尻の上では、大きな穴がようやく少し埋め戻されたことになる。


 香奈美も、その通帳をのぞき込んで、息をついた。


「……ほんとに入ったんや」


「入ったな」


 圭一の声は、静かだった。

 喜んでいるというより、長く握りしめていた拳を、ようやく少しだけ開いたような感じだった。


 栄子は、その数字を見ながら、胸の奥が重たくなるのを感じていた。


 助かる。

 それは間違いない。

 でも、その金額は、そのまま

 自分がどれだけ家を壊しかけたか

 の形でもあった。


 だから簡単に安堵だけはできない。


 ② もうこれで終わりにしよう


 その夜、圭一と香奈美は珍しく二人で少し長く話していた。


 居間のテーブルには、賠償金の明細や返還処理のメモが置かれている。

 ローン整理の見通しも、かなりはっきりした。

 生活を立て直すための最低限の土台は、ようやく見え始めている。


 圭一がぽつりと言った。


「もう、これで終わりにしよう」


 香奈美は顔を上げた。


「終わりって?」


「この出来事で、家の中ずっと支配されるのをやめようってことや」

「忘れるわけじゃない」

「なかったことにもせん」

「でも、これ以上、この話を家の真ん中に置き続けるのは、もうやめたい」


 香奈美は、しばらくその言葉を考えていた。


 たしかに、ここ数か月、家の中のほとんど全部が教団の話につながっていた。

 怒りも、涙も、裁判も、金も、全部そこから派生していた。


 でも、本来この家には、それ以外の時間があるはずだ。

 部活も、天文部も、茂之の学校も、圭一の仕事も、栄子の料理も。

 そういうものが、また家の中心に戻ってきていいはずだ。


 香奈美はゆっくりうなずいた。


「うん」

「もう、これで終わりにしたい」


 その“終わり”は、忘却ではなかった。

 区切りだ。

 この出来事を自分たちの人生の全部にはしない、という決意だった。


 ③ 栄子が聞いていた言葉


 二人のその会話を、栄子は台所で聞いていた。


 はっきり盗み聞きするつもりではなかった。

 でも、洗い物をしていると、静かな家では声が届いてしまう。


 もう、これで終わりにしよう。


 その言葉に、栄子は胸が詰まった。


 自分だけなら、まだずっと引きずっていたかもしれない。

 いや、たぶん今でも完全には終われていない。


 でも圭一と香奈美は、傷を抱えたうえで、それでも先へ行こうとしている。

 その優しさは、やわらかい慰めではなく、

 この家で生き続けるための意思

 としてそこにあった。


 栄子は、湯気の向こうで目を閉じた。


 ④ ふとした拍子に戻る傷


 もちろん、それで全部が滑らかになるわけではない。


 生活は少しずつ安定してきた。

 家計も持ち直し、食卓にも前よりあたたかさが戻ってきた。

 それでも、ふとした拍子に傷はぶり返す。


 たとえば、見知らぬ番号から電話が入るだけで、栄子の肩は一瞬強張る。

 ポストに少し厚い封筒が入っているだけで、圭一の胸の奥には冷たいものが走る。

 香奈美は、誰かが軽い気持ちで

「宗教って心の支えになることもあるよね」

 などと話しているのを聞くだけで、急に顔がこわばる。


 茂之も、学校で募金や寄付の話が出ると、一瞬だけ母のほうを見る癖がまだ抜けない。


 傷とは、なくなるのではなく、

 時々ふれて痛むものとして残る

 のだと、家族全員が知り始めていた。


 ⑤ 栄子の長い仕事


 栄子も、そのことをわかっていた。


 だから最近は、償いとか再建という言葉を、前ほど劇的に考えなくなっていた。


 最初のころは、何か大きなことをしなければならない気がしていた。

 もっと謝らなければ。

 もっと家族のために尽くさなければ。

 失った分を全部すぐに埋めなければ。


 でも、実際にはそうではなかった。


 借金整理の書類を一緒に確認すること。

 学校からの連絡を忘れずに見ること。

 茂之の上着を朝のうちに出しておくこと。

 香奈美の観測会の日は少し早めにおにぎりを用意すること。

 圭一が疲れて帰ってきた時、必要以上の言葉ではなく、熱いお茶を出すこと。


 そういう小さなことを、逃げずに続ける。


 それが、今の自分にできる償いであり、再建なのだと、栄子は受け入れ始めていた。


 長い仕事。


 そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。

 一日で帳尻を合わせる必要はない。

 でも、毎日さぼらず向き合わなければいけない。


 それはしんどい。

 けれど、そのしんどさこそが、たぶん本物なのだと思えた。


 ⑥ 香奈美の傷、香奈美の未来


 香奈美もまた、前へ進み始めている。


 KANAMI COMET の追加データ整理は続いていたし、学校でもその話題で声をかけられることが増えた。

 天文部の活動は、あの混乱の時期より明らかに集中してできている。


 それでも、傷が消えたわけではない。


 母が自分の成果を

 “神様が見つけてくださった”

 と言ったあの日の怒りは、完全には消えていない。

 ときどき夢のように思い出して、胸がざわつくこともある。


 でも今は、その傷ごと持って前へ進むしかないとわかっていた。


 ある夜、軌道図を見ながら香奈美が言った。


「うち、たぶんずっと忘れんと思う」

「でも、忘れんままでも、次の観測はできるし」


 その言葉に、圭一は少し笑った。


「それでええやろ」


 “忘れないこと”と“止まらないこと”は両立できる。

 香奈美は、ようやくそう思えるようになっていた。


 ⑦ 茂之の小さな確認


 茂之の傷は、もっと静かだ。


 ある日の夜、鍋を囲んでいた時だった。

 茂之が、箸を止めて言う。


「お母さん」


「ん?」


「もう、ほんとに変な人んとこ行かんのやんな」


 部屋が一瞬だけ静かになる。


 その質問は、今の茂之にとって、何度でも確かめたいことなのだろう。

 そしてそのたびに、ちゃんと同じ答えが返ってくるかを見ている。


 栄子は、すぐに答えた。


「行かんよ」


 茂之は、少しだけ間を置いてからうなずき、また鍋に箸を伸ばした。


 その小さな確認と応答の積み重ねが、たぶんこの子の中で“家が安全な場所”へ戻るために必要なのだと、栄子は感じていた。


 ⑧ 賠償金が入っても終わらない


 賠償金は入った。

 教団は崩れた。

 裁判も終わった。


 でも、それで人生が帳消しになるわけではない。


 真田家には、それぞれに残るものがあった。


 圭一には、家を守れなかったかもしれないという悔しさ。

 香奈美には、自分の大事な世界を一度踏みにじられかけた怒り。

 茂之には、また家が変になるかもしれないという小さな不安。

 そして栄子には、自分で家を壊しかけたという消えない痛み。


 だから、

 賠償金が入ったから終わり

 ではない。


 むしろそこから、やっと“その後”が始まる。


 ⑨ もうこれで終わりにするために


 その夜、食後の静かな時間に、圭一があらためて言った。


「お金は戻った」

「裁判も終わった」

「だからもう、この件で家の中を縛るのは終わりにしたい」


 香奈美も、それにうなずく。


「うん」

「ほんとに、これで終わりにしたい」


 栄子は、その言葉を聞いて、少しだけ泣きそうになった。


 終わりにする、というのは、

 “なかったことにする”

 ではない。


 この出来事を、これ以上家族の真ん中に座らせない、ということだ。

 傷はある。

 でも、傷のために毎日を明け渡さない。


 栄子は、小さく言った。


「……うん」

「うちも、そうしたい」


 そうして真田家は、ようやく少しずつ、

 事件のあとを生きる家族

 になっていこうとしていた。


 教団の前とまったく同じには戻れない。

 でも、もうそれでいいのかもしれない。


 戻ってきた味。

 戻らない傷。

 その両方を抱えたまま、四人はこれからの暮らしを作っていく。


 そして二年後の夏、

 KANAMI COMET を四人で見上げることが、

 その暮らしの先にある小さな約束として、静かに残り続けていた。

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