彗星を待つ家
第五十章 彗星を待つ家
① 時間が進んだ家
二年という時間は、長いようでいて、暮らしの中では案外あっという間にも過ぎていく。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。
それを二度繰り返すうちに、真田家の中にも、少しずつ新しい“普通”が根を張っていった。
香奈美は高校二年生になった。
部活も勉強も忙しい。
天文部では後輩もでき、以前はただ自分が観測に夢中だったのが、今は説明したり、データの取り方を教えたりする立場にもなっている。
茂之は中学一年生になった。
制服姿がまだ少しちぐはぐで、でも本人はそれなりに誇らしそうだ。
声変わりの気配も出てきて、前より少しだけ背も伸びた。
あの頃みたいに、何かあるたび母の顔色をうかがうことは減った。
圭一は相変わらず仕事で忙しい。
けれど、以前のように家の空気に神経を張りつめたまま帰宅することは少なくなった。
疲れていても、ちゃんと“帰る家”としての温度を感じられるようになっている。
そして栄子は、派手ではないけれど、確かにこの家の中で生き直していた。
朝の弁当。
夜のご飯。
洗濯物。
家計簿。
スーパーのパート。
時々、香奈美の観測会に差し入れでおにぎりを持っていくこともある。
茂之の部活の洗い物が増えれば、「中学生は洗濯物が急に増えるねえ」と笑うようにもなった。
それは昔と同じではない。
けれど、壊れかけたあとに作り直した“新しい普通”だった。
② 消えない記憶
もちろん、何もかもがきれいに消えたわけではない。
見知らぬ番号からの電話に、一瞬だけ胸がざわつく癖は、栄子にも圭一にもまだ少し残っている。
宗教や献金のニュースが流れると、香奈美は今でも無意識に顔をしかめる。
茂之だって、学校で変な勧誘に気をつけようという話が出ると、前よりほんの少し真顔になる。
記憶は消えない。
あの時の減っていった食卓。
ぎくしゃくした空気。
裁判所の廊下の冷たさ。
証言台の緊張。
教団の崩れていく顔。
戻ってくるまでにかかった時間。
それらはみんな、家族の中にちゃんと残っている。
でも今は、記憶があることと、そこに支配され続けることは違うとわかっていた。
傷は残る。
でも、傷のために今日の味噌汁がまずくなる必要はない。
傷は残る。
でも、その傷ごと笑っていい日もある。
真田家は、そういう生き方を少しずつ覚えてきた。
③ 二年後の夏
そして、約束の二年後の夏が来た。
八月。
日中の熱は相変わらず厳しいが、夜になると空の深さが少し変わる。
KANAMI COMET が、いよいよ地球へ近づく時期だった。
香奈美は高校二年生。
茂之は中学一年生。
二年前、まだ家が崩れかけていた頃に
「その時、四人で見られたらいい」
と話した夜から、本当にここまで来たのだと思うと、不思議な感じがした。
その日の夕方、真田家では少し早めに夕食を済ませた。
栄子は、冷たい麦茶を水筒に入れ、おにぎりと簡単なつまみを小さな容器に詰める。
圭一は車に双眼鏡と折りたたみ椅子を積み込む。
香奈美は天体アプリと最新の位置データ、双眼鏡、星図を確認する。
茂之は、やけにそわそわしながら何度も
「まだ行かんの?」
と聞いてくる。
「そんな焦らんでも、彗星は逃げんよ」
香奈美が笑うと、茂之は
「でも今日が一番ええ日なんやろ」
と、妙にわかったふうな顔をした。
そのやりとりに、圭一も栄子も少し笑った。
④ 夜空の下へ
四人が向かったのは、街明かりの少ない少し高台の場所だった。
蝉の声は夜にはもう弱まり、代わりに草むらの虫の音が響いている。
見上げれば、夏の星座が大きく広がっていた。
香奈美が、空を指差しながら説明する。
「蠍座のあたりやよ」
「このへん。尾の方向、ちょっと長く見えると思う」
圭一と茂之が同じ方向を見上げる。
栄子も、その横で静かに夜空を追う。
そして――
「あ……」
最初に声を漏らしたのは、栄子だった。
蠍座の方向。
低く、しかしはっきりと夜空の中で存在感を放つ光。
その核から、長い尾が淡く、しかし確かな形で伸びている。
KANAMI COMET。
二年前には軌道図と予測光度の中にしかなかった存在が、
今、目の前の本物の夜空にあった。
⑤ カナミ彗星
それは、想像していた以上に雄大だった。
蠍座の方向で、長い尾をたなびかせながら夜空にかかるカナミ彗星。
単に明るい点ではない。
尾を引いて、空の一部そのものを変えてしまうような存在感がある。
香奈美でさえ、一瞬、説明する言葉を失った。
「……すごい」
その一言しか出ない。
茂之は、口を開けたまま見上げている。
「ほんとに……お姉ちゃんの彗星や」
圭一は、腕を組んだまま、長く空を見つめていた。
そして珍しく、感想をひねらず、そのまま言った。
「これは……すごいな」
栄子は、ただ黙って見上げていた。
宇宙の神秘。
そう言ってしまえば簡単だ。
でも今の栄子には、それが教団の言葉みたいな空っぽの“神秘”とはまったく違うことがわかる。
これは、香奈美たちが見つけた。
見て、比べて、確かめて、測って、記録して、たどり着いた光だ。
人間がきちんと現実を見つめた先に、こんな景色がある。
そのことが、栄子の胸に深く沁みていく。
⑥ 言葉が出ない
しばらくのあいだ、誰もまともにしゃべらなかった。
夜風が少し吹く。
草の匂いがする。
遠くで車の音がかすかに聞こえる。
その中で、長い尾を引く彗星だけが、静かに空を支配していた。
宇宙の神秘を感じさせる光景に、言葉が出ない。
それは、四人とも同じだった。
あの頃、家が壊れかけていた時には、
二年後にこうして四人で同じ空を見上げている姿なんて、具体的には想像できなかった。
でも今、こうしている。
完全に傷が癒えたからではない。
何もかも忘れたからでもない。
傷も記憶もあるまま、それでもここへ来た。
そのことのほうが、彗星の明るさとは別の重みを持って、四人の胸にあった。
⑦ 圭一の思うこと
圭一は、空を見ながら静かに思っていた。
裁判。
借金。
証言。
あの長い時間。
何度ももう無理かもしれないと思ったこと。
それでも、家は壊れ切らなかった。
もちろん、ただ運が良かったわけじゃない。
運だけなら、きっと途中で終わっていた。
誰かが踏みとどまり、誰かが謝り、誰かが見守り、誰かが怒り、誰かが助け舟を出してくれた。
そういう積み重ねの先に、この夜がある。
「……壊れんでよかったな」
圭一が、ぽつりとそう言った。
その声は、誰に向けたというより、自分自身にも向けたものだった。
⑧ 栄子の思うこと
栄子は、その言葉を聞きながら、目を潤ませていた。
壊しかけたのは、自分だった。
それは消えない事実だ。
でも、壊れ切らなかったのもまた、事実だった。
家族がいた。
怒ってくれた。
止めてくれた。
見捨てなかった。
そして自分も、最後には家族の側へ戻ることを選べた。
目の前の彗星は、ただきれいなだけではなかった。
それは、
この家が、完全には壊れなかった証
のように見えた。
香奈美が見つけた光。
でも今は、家族全員の光でもある。
栄子は、小さく言った。
「見れてよかった」
それだけで十分だった。
⑨ 家族四人で
茂之は、望遠鏡と肉眼を行ったり来たりしながら、何度も
「すげえ」
を繰り返している。
香奈美は、そんな弟を見て少し笑い、でもまたすぐ自分も空へ引き戻される。
圭一は時々頷きながら、言葉少なにその場の空気を味わっている。
栄子は、三人の顔と彗星を交互に見ていた。
家族四人で、カナミ彗星を眺める。
それは、二年前にはただの希望だった。
今は現実だ。
もちろん、この先も人生にはいろんなことがあるだろう。
傷が完全に消えることもないかもしれない。
でも、この夜を知っている限り、
この家はもう、あの時みたいに簡単には崩れないのではないかと、誰もが少しだけ思えた。
夜空には、雄大に尾をたなびかせたカナミ彗星。
言葉を失うほどの光景。
その前に立つ四人の姿は、誰にも見られていなくても、確かに一つの答えだった。




