判決のあとに残るもの
第四十八章 判決のあとに残るもの
① 勝ったのに、晴れない朝
判決が確定したあとの朝も、真田家にはいつも通りの時間が流れていた。
目覚ましが鳴る。
圭一が先に起きる。
栄子が台所に立つ。
香奈美が眠そうな顔で階段を下りてきて、茂之がランドセルを探しながら右往左往する。
裁判で勝った。
教団は刑事でも民事でも敗れた。
控訴もしない。
そう聞けば、何か大きな霧が晴れたような、派手な解放感があってもよさそうだった。
でも実際には、そんなものはなかった。
朝の味噌汁は、昨日と同じ湯気を立てる。
洗濯物は回さないとたまる。
学校には行かなければいけないし、仕事も休めない。
借金の整理も、返還の手続きも、まだ“これから現実に進む仕事”として山ほど残っている。
裁判が終わったのは確かだ。
でも、生活はその続きを普通に要求してくる。
そのあたりまえの重さが、むしろ真田家には深くのしかかっていた。
② 栄子の償い方
栄子は、判決が出てからいっそう、日々の暮らしに手を戻すようになっていた。
別に、派手に頑張るわけではない。
突然「何でもやる」と張り切るのではなく、
むしろ以前より静かに、できることを積み重ねるようになった。
朝の弁当を丁寧に詰める。
茂之の体操服を前夜のうちに確認する。
香奈美の部活帰りの時間に合わせて、食べやすいおかずを考える。
圭一のワイシャツを、前より少しだけきれいにたたんでおく。
それは大きな謝罪ではない。
でも、栄子なりの
日々の中で償う
やり方だった。
ある夜、圭一がそれに気づいて言った。
「無理して一気に埋めようとせんでいいぞ」
栄子は少し手を止めた。
「……埋まらんのはわかっとる」
「でも、何もせんのも違うやろ」
その言い方は、前よりずっと現実的だった。
全部を一気に取り戻せるとは思っていない。
でも、だからといって諦めるつもりもない。
その感覚が、今の栄子にはあった。
③ 家族もまた“普通”を探す
香奈美も、母の変化を前より落ち着いて見られるようになっていた。
もちろん、ふとした瞬間に過去を思い出して、胸がざらつくことはある。
あの時の言葉。
減っていった食卓。
自分の世界を“神様が見つけた”で塗りつぶされかけた怒り。
でも、それと同時に、今ここで母がちゃんと現実の側に立とうとしていることも見えている。
ある日の夜、香奈美が何気なく言った。
「明日、観測会ちょっと遅くなる」
すると栄子は、ごく普通に返した。
「何時くらい?」
「帰ってきたら温めやすいもんにしとくね」
その返しが、前ならいちいち奇跡みたいに感じていた。
今はまだそこまでではない。
でも、普通の会話として受け取れるようになってきたのが、大きかった。
茂之も同じだった。
完全に元通りに甘えるわけではない。
でも、学校のプリントを母に渡したり、図工の話をしたり、少しずつ“母に戻す距離”を測っている。
家族全員が、それぞれの場所で
普通をやり直している
のだと、圭一は感じていた。
④ “勝った”ではなく“生き直す”
ある夜、圭一がぽつりと言った。
「なんか、勝ったって感じでもないな」
その一言に、三人とも少しだけ反応した。
たしかにそうだった。
教団は負けた。
判決も確定した。
でも、胸を張って“勝利”と言えるほど、すっきりしてはいない。
栄子は傷ついた。
家族も傷ついた。
失った金も、時間も、信頼もある。
教団が消えたからといって、それが自動的に戻るわけではない。
香奈美が言う。
「裁判は勝ったけど、生活は別やもんね」
圭一はうなずく。
「そうや」
「これからのほうが、たぶん地味にしんどい」
その言葉に、栄子も小さくうなずいた。
派手な決着のあとに残るのは、
返還手続きや、家計の見直しや、学校行事や、夕食の献立や、
そういう逃げられない毎日だ。
“勝った”ではなく、“生き直す”。
それが、判決のあとに残る本当の課題だった。
⑤ 東京本部でも判決
そんな中、東京の本部をめぐる裁判でも、大きな動きがあった。
教祖だけでなく、東京本部長らの逮捕に続いて進められていた刑事裁判、そして民事訴訟が、ついに結審したのである。
報道では連日、その経過が伝えられていた。
東京本部でも、
* 組織的な不当勧誘
* 性的支配の教義化
* 高額献金とローン誘導
* 幹部ぐるみの隠蔽
* 離脱者への執拗な接触
などが、金沢と同じ構造で認定されていった。
そして出された判決結果も、金沢地裁とほぼ同じ方向だった。
刑事では、東京本部長らにも極めて重い実刑判決。
民事でも、原告側の主張が大筋で認められ、損害賠償責任が明確に認定された。
ニュースを見ながら圭一が言う。
「根っこから同じやったってことやな」
栄子は、その言葉に何も返せなかった。
東京本部も、金沢支部も、表現の仕方が少し違うだけで、やっていたことの芯は同じだった。
⑥ 全国で二〇〇〇億円
さらに、全国規模での被害額と賠償命令の全体像が報じられた時、真田家はまた言葉を失った。
金銭被害と慰謝料を合わせて、全国では二〇〇〇億円規模の支払いが命じられる見通し。
二〇〇〇億円。
一〇〇〇億円の被害額を聞いた時も、十分に現実離れしていた。
だが今度は、それが賠償責任として数字になった。
テレビの解説者は続ける。
「ただし、教団資産は現時点でおよそ一〇〇〇億円程度と見られており、全額の回収には追加の資産保全が必要です」
そして次のニュースが流れる。
教団幹部らの保有する不動産の没収、関連団体資産の差押え・没収も進められる方針。
つまり、教団本体の金だけでは足りない。
幹部個人の資産、周辺法人や関連団体の資産まで剥がしていかなければ、被害回復は届かない。
その現実の大きさに、香奈美がつぶやく。
「ほんとに、国みたいな規模やん……」
誰も否定できなかった。
⑦ お金が返ることと、戻らないもの
賠償命令が出た。
資産没収も進む。
返還の道筋も、以前よりはっきりしてきた。
でも、そのニュースを見ながら、栄子は妙に静かだった。
圭一が気づいて聞く。
「どうした」
栄子は、しばらくしてから言った。
「お金が返ってくるのは大事やと思う」
「ほんとに大事やと思う」
「でも……返ってきても、消えんもんもあるね」
その言葉に、居間の空気が少し沈む。
たしかにそうだ。
お金が返れば助かる。
生活はかなり違う。
進学だって、毎日のご飯だって、現実は大きく変わる。
でも、あの時の息苦しさや、壊れかけた家の空気や、子どもたちの不安や、
“神様が見つけた”と言われた時の香奈美の怒りまでは、金で戻らない。
そこを、栄子もちゃんと見始めていた。
⑧ それでもご飯をつくる
だからこそ、栄子はその夜も台所に立った。
鍋に火を入れ、白菜を切り、豚肉を並べる。
今日は鍋にしようと思っていた。
涼しくなってきたから、ちょうどいい。
圭一が横から見て言う。
「今日は鍋か」
「うん」
「安かったし、みんなで食べるほうがあったかいし」
その何気ない会話が、今の真田家には大事だった。
判決も、賠償も、没収も、ニュースでは大きく流れる。
でも、家の中を本当に支えるのは、こういう鍋の湯気や、
「もうちょっとポン酢取って」
みたいな、どうでもよさそうなやりとりなのだ。
栄子は、それを一つずつ取り戻していくしかないと思っていた。
⑨ 二年後の夏へ
食後、香奈美は軌道図を見ながら、ぽつりと言った。
「二年後の八月、ほんとに一等星級なら、かなり見やすいと思う」
茂之がすぐに反応する。
「じゃあ、絶対見れるやん」
圭一が笑う。
「晴れればな」
栄子は、そのやりとりを聞きながら、小さく思った。
二年後。
その時、自分たちはどうなっているだろう。
裁判の後処理も、返還の実務も、きっとまだ尾を引いているかもしれない。
でも、それでも、四人で彗星を見上げられる場所まで戻っていたい。
そう思えること自体が、今はひとつの希望だった。
裁判は終わった。
教団は崩れた。
でも、そこから先に残るのは、毎日の味と、壊れかけた家をもう一度あたため直す時間だ。
“勝った”ではなく、“生き直す”。
その意味を、真田家は少しずつ、食卓のこちら側で学び始めていた。




