証人たちが立つ日
第四十四章 証人たちが立つ日
① 朝の静けさ
証人尋問の日の朝、金沢の空は薄い雲に覆われていた。
晴れているわけでもない。
かといって雨でもない。
どこか決めきれない空模様が、その日の真田家に似ていた。
家の中は、いつもより静かだった。
圭一は早くから起きて、何度目かわからないほど書類の確認をしていた。
香奈美は、自分の部屋で制服ではなく落ち着いた私服に着替え、何度も鏡の前で髪を整えている。
茂之は学校がある日と同じ時間に起きたのに、今日はランドセルを背負わないことを、まだ少し不思議そうにしていた。
そして栄子は、台所に立っていた。
朝ごはんを作る手はいつも通りだった。
味噌汁の湯気。
焼いた鮭の匂い。
卵焼きを返す箸先。
それでも、その一つひとつに、今日は別の重さがあった。
今日、自分は法廷に行く。
そして、ただ傍聴するのではなく、原告側の一人として、自分が経験したことを話す。
それを思うだけで、胃の奥が冷たくなる。
② 家族それぞれの準備
朝食の席では、誰も無理に明るく振る舞わなかった。
圭一が先に口を開く。
「無理に立派に話そうとせんでいい」
「見たこと、聞いたこと、感じたことを、そのまま言えばいい」
栄子は小さくうなずく。
香奈美も言った。
「変に完璧に言おうとせんでいいよ」
「途中で詰まっても、泣いてもいいし」
「とにかく、お母さんがどうやって入っていったか、それが伝わればいい」
茂之は、少し考えてから、自分のリュックから一枚の紙を出した。
「これ、持ってって」
それは、前に学校で描いた絵のコピーだった。
姉と父と母が望遠鏡で夜空を見上げ、空には明るい彗星が描かれている。
「お守りみたいなやつ」
「こわくなったら見て」
栄子は、それを受け取った瞬間、少し笑って、でも目を潤ませた。
「ありがとう」
その絵を小さく折りたたんで、バッグの内ポケットに入れる。
それは裁判資料でも証拠でもない。
でも、今日いちばん大事なものかもしれなかった。
③ 法廷へ
金沢地裁の前には、朝から報道陣が集まっていた。
教祖の事件はすでに全国規模の関心事になっている。
しかも今日は、金沢支部の勧誘実態や家族への影響に踏み込んだ証人尋問が予定されていた。
圭一と栄子、香奈美は、なるべく記者の目を避けるようにして中へ入る。
弁護団が短く打ち合わせをし、席順や流れを確認する。
「最初に、防犯カメラ映像の再生があります」
「そのあと店長さんの証言です」
「真田さんはその後です」
「落ち着いていきましょう」
落ち着いて。
その言葉が、今日はやけに遠く聞こえた。
それでも栄子は、バッグの中の絵の感触を指先で確かめながら、静かに息を整えた。
④ 店長が立つ
証言台に最初に立ったのは、スーパーの店長・篠崎圭一郎だった。
店長は、法廷でも普段と変わらない、落ち着いた話し方だった。
背筋を伸ばし、質問に対して必要以上の感情を交えず、ただ見たことと判断したことを順に述べていく。
「その日、閉店前の売り場確認をしていたところ、従業員通用口付近で真田さんと女性が接触しているのを見ました」
「通常の知人同士の立ち話とは違う、緊張した雰囲気がありました」
「真田さんの表情が明らかに硬く、会話を早く切り上げたいように見えたため、介入しました」
法廷に、防犯カメラ映像が映し出される。
そこには、仕事を終えて帰ろうとする栄子。
通路脇で待ち受ける藤代美和。
距離を詰められ、一度足を止める栄子。
そこへ店長が現れ、自然な形で店内へ戻す場面。
映像には音がない。
だが逆に、それが淡々とした現実味を持っていた。
教団側代理人が反対尋問に立つ。
「この映像には音声がありません」
「単なる知人同士の会話だった可能性は否定できないのでは?」
店長は落ち着いて答えた。
「可能性の話なら何でも言えます」
「ですが、私は現場で本人の様子を見て、ただごとではないと判断した」
「その後、本人から、関わりたくない相手である旨を聞いています」
「あなたの主観では?」
「はい。現場責任者としての主観です」
「ただし、従業員保護の観点から見て、十分に介入すべき状況でした」
その答えは、教団側の理屈を静かに押し返した。
⑤ 一枚ずつ崩れる主張
この店長証言と映像は、教団側の主張に大きな穴をあけた。
彼らはこれまで、
* 本人が自主的に会っていた
* 執拗な接触はしていない
* 離脱後の関与はない
* 家族側の思い込みが誇張されている
といった線で戦おうとしていた。
だが、勤務先の出口での待ち伏せに近い接触。
店長の介入。
本人の明確な拒絶。
その一連が外形的事実として出ると、“自主的な交流”という言い訳が急に苦しくなる。
検察側と原告側弁護団は、そこを逃さなかった。
「この段階で真田氏はすでに関与を断つ意思表示をしていた」
「それにもかかわらず勤務先まで赴き接触を図った」
「これは本人の自由意思の尊重とは逆の行為ではないか」
法廷の空気が、少しずつ変わっていく。
教団側の“やさしい宗教活動”という外皮が、一枚ずつ剥がれていった。
⑥ きっかけとなった同僚
さらに、この日の尋問では、栄子を最初に相談会へ誘った同僚――加藤彩也子にも証言が求められた。
ここが、もう一つの大きな山場だった。
本当に“救えたら”という善意から紹介したのか。
それとも、教団へ入信させる意図があったのか。
加藤は証言台に立った時点で、もう落ち着きを失っていた。
手元のハンカチを何度も握り直し、質問が始まる前から目が泳いでいる。
弁護団側が問う。
「あなたは真田さんに、どういう趣旨でその集まりを紹介したのですか」
加藤は最初、はっきり言った。
「子育て相談の集まりみたいなものだと思っていたので、少しでも気が楽になればと思って……」
だが次の質問で揺らぐ。
「教団との関係は知らなかったのですか」
「いえ、その……名前までははっきり……でも、学びの場みたいなことは……」
さらに問われる。
「紹介した時点で、真光の輪の金沢支部の関係者が運営していることは認識していましたか」
加藤の返答は、そこで二転三転し始めた。
「全部は知らなくて」
「でも、いい話を聞ける場だとは」
「いや、直接そう言われたわけではなくて」
「私も誘われて……」
質問が重なるたび、言葉がほどけていく。
しどろもどろ。
明らかに、自分でもどこまで知っていたのかを、都合よく曖昧にしようとしているのが見えた。
法廷の空気が、また少し変わる。
⑦ 加藤の証言が崩れる
原告側弁護団は、そこをさらに詰めた。
「あなた自身も複数回参加していた記録がありますね」
「真田さんに紹介した時点で、少なくとも“宗教色のない単なる相談会”ではないと認識していたのではありませんか」
加藤はうつむき、何か言おうとして言葉を失う。
「……いや、その」
「救えたらと思って……」
「“救えたら”とは、何からですか」
「え……」
「子育ての悩みからですか」
「それとも、教団へ導く意味での“救い”ですか」
その問いに、加藤は答えられなかった。
本当に善意だけだったのか。
それとも、自分が信じ込まされた“救い”をそのまま横流ししていたのか。
あるいは、勧誘の役目を自覚しながらやっていたのか。
本人の中でも、その境界はもう崩れていたのだろう。
だから答えが定まらない。
けれど、その“定まらなさ”こそが、教団側の構造を示していた。
普通の善意の紹介なら、ここまで証言は揺れない。
⑧ 栄子が決意する
店長の証言。
防犯カメラ映像。
加藤の崩れていく証言。
それらを傍聴席で聞いていた栄子の中で、何かが静かに決まった。
ここまで、他の人たちが現実を見せてくれた。
店長は、ただ見たことをそのまま話してくれた。
加藤は、逆に、自分が何をしていたのかを法廷でうまく整えられなかった。
なら、自分も逃げてはいけない。
自分が何を信じ、どう囲い込まれ、どう家族を壊しかけたのか。
それを、今度は自分の口で話す番だ。
休憩に入った時、栄子は弁護士に言った。
「……私、証言します」
弁護士は、すぐには頷かなかった。
その代わり、まっすぐに確認する。
「大丈夫ですか」
栄子は、少しだけ震えながらも言う。
「大丈夫じゃないです」
「でも、やります」
それは、被害者としてだけではなく、
現実へ戻る者としての決意
でもあった。
⑨ 家族が迎えるその日へ
法廷からの帰り道、圭一も香奈美も、すぐには何も言わなかった。
けれど、車に乗り込む直前、栄子が自分から言った。
「次、うちが話す」
圭一が、静かに栄子を見る。
香奈美も、少し息をのんだ。
栄子は続ける。
「怖いけど」
「でも、あんなふうに店長さんが立ってくれて、加藤さんの話も聞いて……」
「うちだけ黙っとるわけにいかんって思った」
圭一は、短くうなずいた。
「わかった」
香奈美も、少し時間を置いてから言う。
「……やるなら、最後まで聞く」
それは、娘なりの支えだった。
その夜、真田家では誰も大きな声を出さなかった。
でも、全員が次の山場をはっきり意識していた。
店長が立った。
証拠が出た。
教団側の主張は崩れ始めた。
加藤の曖昧な善意も、法廷の光の下で形を失った。
そして次は、栄子自身が立つ番だ。
証言台の向こうで、どれだけ過去を語れるのか。
その日を迎えるために、家族はそれぞれの形で心の準備を始めていた。




