栄子、証言台に立つ
第四十五章 栄子、証言台に立つ
① 名前を呼ばれるまで
証言の日の朝、栄子は何度も深呼吸をしていた。
法廷に入る前から、足の裏が少し浮くような感覚がある。
緊張で手が冷たい。
喉も乾く。
圭一は、今日は余計なことを言わなかった。
ただ一言だけ、
「見たことを、そのまま言えばいい」
と言った。
香奈美も、まっすぐ栄子を見て言った。
「うまく言おうとせんでいい」
「ほんとのことだけでいい」
茂之は、前に渡した絵をもう一度栄子のバッグに入れ直してくれた。
「今日も入れといて」
栄子は、それを指先で確かめながら法廷へ向かった。
そして名前を呼ばれる。
「原告本人、真田栄子さん」
その瞬間、逃げたい気持ちは確かにあった。
でも、もう逃げないと決めていた。
② 栄子が語り始める
証言台に立った栄子は、最初の数問こそ声が震えた。
氏名。
年齢。
職業。
家族構成。
そうした基本事項のあと、弁護団側の質問は、ゆっくりと核心へ入っていく。
「真田さんは、どのようなきっかけでその集まりに参加するようになったのですか」
栄子は、少し間を置いてから答えた。
「最初は……子育ての相談みたいな集まりやと聞きました」
「娘のことを心配しすぎてるんかなとか、自分でもわからんくなっとって」
「誰かに少し聞いてほしいと思ってました」
法廷は静かだった。
誰も遮らない。
「その場では、最初から宗教の名前は強く出ませんでした」
「否定されんかったんです」
“それでいいんですよ”
“頑張っておられますね”
って言われて……それだけで、少し楽になった」
そこまで話した時、栄子は一度目を伏せた。
「今思うと、そこが入り口でした」
その言葉は、自分の弱さを認める言葉でもあった。
でも、だからこそ法廷の空気に重く残った。
③ 弱さを語ること
弁護士がさらに問う。
「何が、そこまで真田さんを引きつけたのでしょうか」
栄子は、長く黙った。
法廷の傍聴席で、圭一も香奈美も息を詰める。
そして栄子は、ゆっくり言った。
「……私は、ちゃんと家族を回せてないんじゃないかって、ずっと不安やったんです」
「家の空気が悪いと、自分のせいみたいな気がして」
「でも、家ではその不安を、うまく言葉にできんかった」
一つひとつ、言葉を選びながら続ける。
「夫は夫で、私を安心させようとして“大丈夫や”“考えすぎや”って言ってくれてたと思います」
「娘は娘で、思春期で、自分のこともあるし」
「だから、誰も悪いわけじゃないんです」
「でも私は……“苦しいままでも受け止めてもらえる場所”が欲しかったんやと思います」
傍聴席で、香奈美は思わず目を閉じた。
圭一も、じっと前を見たまま動かなかった。
栄子はそこで初めて、
自分が教団に埋めてもらおうとしていたものを、法廷で言葉にした。
④ 囲い込みの実態
そこから、栄子の証言はさらに具体的になっていった。
相談会が個別の面談へ変わっていったこと。
「あなたは感受性が高い」「選ばれた方です」と特別扱いされたこと。
家庭の悩みが“家系の流れ”や“浄化”に結びつけられていったこと。
家族の反発が、“真理に近づいたからこそ起きる抵抗”だと言われたこと。
「家の中で少しでも空気が悪くなると、“ほら、浄化が始まってますね”って言われました」
「夫が現実的なことを言っても、“理解されないのは真理に近づいた証拠”やって」
「娘が反発しても、“まだわからないだけ”やって」
その説明を聞きながら、裁判官もメモを取っている。
教団側代理人の表情も、少しずつ固くなっていく。
栄子はさらに言う。
「最初は少額でした」
「お茶代みたいな感じでした」
「でも、そこから少しずつ、“形にして献身することが必要”って話になっていって」
「壺、祈祷料、本、教育ローンの献金……と、止まらなくなっていきました」
そして、はっきりと続けた。
「どれも、“家族を救うため”やと言われました」
⑤ 「自主的だったのでは」
ここで教団側の反対尋問が始まる。
相手方代理人は、落ち着いた声で、しかしじわじわと栄子を追い込むように聞いてきた。
「真田さん、あなたは各契約書に自ら署名されていますね」
「……はい」
「誰かに腕をつかまれて無理やり書かされたわけではないですね」
「はい」
「壺の契約も、祈祷料も、本の契約も、教育ローンの申込みも、最終的にはご自身の判断で署名されたのではありませんか」
法廷に、少しだけ張りつめた空気が流れる。
まさにそこが、教団側の一番言いたいことだった。
本人が自主的にやったのだ
と。
栄子は、一瞬だけ言葉を失いかけた。
けれどここで飲み込まれたら、また同じだと思った。
「署名したのは私です」
まず、そこは認める。
そのうえで栄子は、顔を上げた。
「でも、その時の私は、自由に判断してるつもりで、自由やなかったです」
教団側代理人の眉がわずかに動く。
栄子は続ける。
「払わないと家族を救えないと思わされてました」
「ここで惜しんだら流れが止まるって」
「家の中で少しでも悪いことが起きたら、“ほら、浄化の抵抗です”って意味づけされてました」
「だから、自分では選んでるつもりでも、気持ちはもう狭められとったんです」
その言葉は、法廷にまっすぐ落ちた。
⑥ 「家族を守るためだと思わされた」
教団側はさらに揺さぶる。
「つまりあなたは、ご自身の判断能力がまったくなかったとおっしゃるのですか」
その問いは意地が悪かった。
“判断できなかった人間”だと認めれば、今度は証言そのものの信用性を攻撃できる。
栄子は、少し息を整えてから答えた。
「判断能力がゼロやったとは言いません」
「でも、判断の材料が、もうおかしくされとったんです」
法廷が静まる。
栄子は、最後にはっきり言った。
「私は、家族を守るためだと思わされたんです」
その一言は強かった。
自分の意思が一切なかったと言っているのではない。
だが、その意思がどんな言葉で誘導され、どんな意味づけの中で変えられていったのかを、真正面から言った。
圭一は、傍聴席で初めて少しだけ目を伏せた。
香奈美も、唇をぎゅっと結ぶ。
それは、真田家がずっと痛みとして抱えてきた核心だった。
⑦ 刑事裁判で暴かれる別の地獄
同じ時期に進んでいた刑事裁判では、さらに生々しい被害の実態が暴かれていた。
この日の公判では、性的被害を受けた若い女性信者の両親が証人として出廷した。
父親は、法廷で何度も言葉を詰まらせながら、それでも話した。
「娘は、教祖に“浄化のため”“神に近づくため”と言われて、拒めなくなっていました」
「帰宅しても様子が変わっていって、食べられなくなって、眠れなくなって」
「妊娠がわかった時には、もう心身ともに限界でした」
母親は、声を震わせながら続ける。
「娘は、自分が悪いんだとずっと思い込まされていたんです」
「でも、あの子は被害者です」
法廷に重たい沈黙が落ちる。
さらに検察側からは、堕胎せざるを得なかった胎児のDNA鑑定結果も提出された。
胎児のDNAと教祖のDNAが一致した。
その事実は、法廷の空気をさらに変えた。
教団側の神聖さや指導者性を根元から破壊する、あまりにも動かしがたい証拠だった。
⑧ 教祖の言い逃れも崩れる
教祖側はなおも争った。
「彼女とは性的同意があった」
その主張が、法廷で読み上げられる。
だが、それもまた一つひとつ覆されていく。
女性側の供述。
複数の信者への同様の手口。
教義を用いた心理的拘束。
拒絶すれば“信仰が足りない”“神に逆らう”と受け取られるような関係性。
幹部の隠蔽的な対応。
そしてDNAという物理的証拠。
“同意”という言葉で覆える段階は、もうとっくに過ぎていた。
圭一は、あとでその報道を見ながら低く言った。
「ここまで来てもまだ、言い逃れするんやな」
栄子は、ただ青い顔でテレビを見つめていた。
あの“教祖”が、そこまで醜く崩れていく。
自分が一時でも、その人間を中心にした言葉を信じかけたことが、たまらなく苦しかった。
⑨ 証言のあとで
栄子の証言が終わったあと、法廷を出る足取りはひどく重かった。
疲労。
緊張。
恥ずかしさ。
そして、言い切ったあとの空白。
でも同時に、どこかで少しだけ、息がしやすくなっているのも感じていた。
言ってしまった。
隠さずに。
ごまかさずに。
自分がどうやって囲い込まれていったのかを。
家族を守るためだと思わされた。
その言葉を、自分の口で法廷に置いた。
帰り道、香奈美がぽつりと言った。
「……ちゃんと伝わったと思う」
栄子は、すぐには返せなかった。
でも、その言葉にだけは、少しだけ救われた。
圭一も、短く言う。
「ようやった」
それだけで十分だった。
この章で、真田家はまた一つ、前へ進んだ。
それは癒えたという意味ではない。
むしろ傷はもっと深く見えた。
でも、見えたからこそ、もう“なかったこと”には戻れない。
そして、その戻れなさの中でしか、本当の再建は始まらないのだった。




