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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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信じたものの正体

 第三十八章 信じたものの正体

 ① 崩れた偶像のあとで


 教祖逮捕のニュースが流れてから、真田家の時間はどこか歪んでいた。


 朝が来ても、昨日までの世界とは少し違う。

 テレビをつければ、また同じ教団の映像が流れる。

 新聞を開けば、関連記事が大きく載っている。

 スマホのニュース欄にも、同じ名前が何度も上がってくる。


 栄子は、そのたびに胸の奥を冷たいものが通るのを感じていた。


 自分が信じかけていたもの。

 救いだと思い込まされていたもの。

 家族を守るためだと、自分に言い聞かせて差し出してきたもの。


 その中心にいた人間が、

 不同意わいせつの強要。

 複数女性信者との性行為。

 妊娠。

 幹部による隠蔽。


 そこまで現実が明るみに出てしまうと、もう

「自分が見ていたのは一部だけだった」

 では済まなかった。


 栄子は、ようやく真正面から考え始めていた。


 自分はいったい、何を信じてしまっていたのか。


 ② 数字で流れる被害


 テレビの特集では、被害の全体像も少しずつ明るみに出始めていた。


 元信者の証言。

 被害対策弁護団の会見。

 各地で起きていた家族崩壊や借金、自殺未遂、生活破綻の報告。


 そして、アナウンサーが読み上げた数字に、居間の誰もが言葉を失った。


「関係者への取材や被害申告の集計によりますと、被害額はおよそ一〇〇〇億円にのぼると見られています」


 一〇〇〇億円。


 圭一が、無意識に息を止める。

 香奈美も、思わずテレビに顔を向けたまま固まる。

 茂之でさえ、その額の異様さだけは空気で感じ取ったのか、黙って画面を見ている。


 栄子は、ただ茫然としていた。


 百万円の壺。

 四十万円の祈祷料。

 二百万円の献金。

 五百万円の本。


 それだけでも十分に人生を壊せる額だ。

 それが全国で積み重なった結果、一〇〇〇億円に達する。


 もう、“たまたま行き過ぎた一部の信者の話”ではない。

 組織的に、意図的に、人の不安と善意を吸い上げていた。

 その全体像が、数字で突きつけられた。


「……一〇〇〇億って」


 香奈美が小さくつぶやく。


 誰も返事をしなかった。

 返せるような言葉がなかった。


 ③ 栄子の向き合い方


 その日から栄子は、ニュースを避けなくなった。


 以前なら、つらいものから目をそらしたかもしれない。

 あるいは、教団側の

 “外部の悪意”

 “誤解”

 という理屈に逃げたかもしれない。


 でももう、その逃げ道は狭くなっていた。


 ニュースに出る被害者の言葉。

 泣きながら取材を受ける家族。

 返済不能になった借金の額。

 人生を壊された人たちの顔。


 どれも、もう他人事には見えない。


 栄子はある晩、ぽつりと言った。


「うち……あの人らのこと、ほんとに“救う側”やと思っとった」


 圭一も香奈美も、すぐには何も言わなかった。


 栄子は続ける。


「優しかったんよ、最初は」

「責めんで、“それでいい”って言うてくれて」

「だから、そこに悪意なんかないって、勝手に思ってしまった」


 そこまで言って、唇を噛む。


「でも、優しいのと、まともなのは違うんやね……」


 その一言には、深い疲れが滲んでいた。


 ④ 支える側の難しさ


 家族は、もう頭ごなしに責めることはしなくなっていた。


 だが、だからといって心から穏やかに寄り添えるわけでもない。


 圭一の中にはまだ怒りがあった。

 香奈美の中にも、消えない怒りと悔しさがある。

 茂之だって、母に甘えたい気持ちと、また変なふうになるんじゃないかという怖さのあいだで揺れている。


 だから支え方も、どこかぎこちない。


 優しくしようとすると嘘っぽくなる。

 普通にしようとすると、逆に冷たくなる。

 怒らないようにすると、何も言えなくなる。


 その難しさを、真田家は痛いほど知り始めていた。


 ある夜、圭一が台所で食器を拭いている栄子に言った。


「……責めるの、やめたつもりでも、腹立つもんはまだ腹立つ」


 栄子の手が止まる。


 圭一は、そのまま続ける。


「でも、それと、お前を見捨てるかどうかは別や」

「そこだけは、はっきり分けようと思っとる」


 それは、きれいな慰めではなかった。

 でも、今の栄子にはその不器用さのほうが、変に優しい言葉よりも信じられた。


 ⑤ 茂之の絵


 そんなある日、茂之が学校から一枚の絵を持ち帰った。


 画用紙いっぱいに、夜空が描かれている。

 濃い青の中に、細かな星。

 その上を、長い尾を引く明るい彗星が走っている。


 その下には、三つの人影。


 一つは望遠鏡をのぞく香奈美。

 その隣には、少しかがんだ父・圭一。

 そして、もう一つ、少し後ろから同じ空を見上げる母・栄子。


「学校で描いたん」


 茂之は、少し照れたように言う。


「お姉ちゃんの彗星の話、先生にしたら、“じゃあ夜空の絵描いてみよう”ってなって」


 香奈美も、圭一も、しばらくその絵を見つめた。


 栄子は、声を失っていた。


 自分はそこにいる。

 まだこの家の絵の中に、ちゃんと描かれている。

 息子の中では、まだ“望遠鏡で夜空を一緒に眺める家族”の一人として残っている。


 茂之は何気ない調子で言った。


「ほんとは、みんなで見れたらええなって思って」


 その一言が、栄子の胸を深く打った。


 教団はいつも、

 “ここがあなたの居場所”

 と囁いた。


 でもこの絵は、何も言わない。

 ただ黙って、

 お母さんも、まだこの家の中に描いてあるよ

 と示していた。


 ⑥ 国立天文台からの続報


 その頃、香奈美のもとには、国立天文台からさらに詳しい解析データが送られてきていた。


 今回は、彗星の軌道図や、地球接近時の予測光度なども含まれている。


 香奈美は居間の机に資料を広げる。


「これ、追加の解析結果」


 圭一も、茂之も、そして栄子も、自然とその周りに集まった。


 香奈美は説明する。


「KANAMI COMETは、小惑星やなくて彗星やって確定したやろ」

「で、今回の解析で、地球に近づいた時の明るさの予想も出た」

「予測では、一等星くらいの明るさになるって」


「一等星って、かなり明るいやつやろ?」


 圭一が聞くと、香奈美はうなずく。


「うん。かなり目立つ」

「しかも核も大きいみたいで、四十キロくらいはあるんじゃないかって見られとる」


 茂之が目を丸くする。


「四十キロ!?」


「うん。かなりでかい」


 香奈美は、軌道図を指差した。


「二年後の八月ごろ、地球から一五〇〇万キロまで近づく予測」

「太陽に最接近するのは八月半ば」


 栄子は、その軌道図を黙って見つめていた。


 数字。

 予測。

 軌道。

 明るさ。

 それは全部、教団の言う“神秘”とは違う。

 けれど、だからこそ逆に圧倒的だった。


 意味づけられた神秘ではなく、

 見て、測って、計算して、そこで初めて浮かび上がる宇宙の大きさ。


 その現実が、栄子の心に少しずつ沁み込んでいく。


 ⑦ 絵の中の未来


 茂之の描いた絵と、香奈美が開いた軌道図。


 その二つが、奇妙な形で真田家の中に並んでいた。


 一方は、子どもが願う家族の姿。

 もう一方は、科学が示す未来の光。


 二年後の八月。

 その時、自分たちはどうなっているのだろう。


 ちゃんと四人で、その彗星を見上げられるのだろうか。

 借金はどうなっているのか。

 訴訟は。

 教団は。

 家族の傷は。


 そんなことを、誰も口にはしなかった。

 でも全員の胸のどこかにあった。


 栄子は、そっと茂之の絵に手を置いた。


「……きれいやね」


 その声は、とても小さかった。


 ⑧ 全国規模の崩壊


 一方で、教団の崩壊は全国規模で進み始めていた。


 ニュースでは毎日のように新事実が出る。

 教祖だけでなく幹部も摘発。

 複数の女性信者への性的搾取。

 財務資料の押収。

 各地の支部への家宅捜索。

 元信者たちの集団提訴の動き。

 弁護団による被害の追加集計。


 民事訴訟の準備も、一気に活発化していった。

 被害者同士の情報共有。

 ローン会社や関連法人への責任追及。

 教団名義の資産の洗い出し。


 刑事事件としての立件も、単なるわいせつ事件にとどまらず、

 詐欺や組織的勧誘、金融面での違法性へ広がる可能性が報じられ始める。


 圭一は、そのニュースを見るたび、怒りと、しかしわずかな安堵の両方を感じた。


 ようやく、外の世界がこの異常さを“異常だ”と認識し始めている。


 だが同時に、それは

 ここまで被害が広がるまで止められなかった

 という事実でもあった。


 ⑨ 信じたものの正体


 その夜、栄子は一人で居間に残り、テレビの消えた画面を見つめていた。


 信じたものの正体。

 それは結局、何だったのか。


 優しさに見えたものは、入り口だった。

 理解に見えたものは、囲い込みだった。

 真理に見えたものは、支配のための言葉だった。

 救済に見えたものは、金と体を奪うための仕組みだった。


 そこまでやっと、言葉にできるようになり始めている。


 でも、その正体を知ったからといって、傷がすぐ消えるわけではない。

 むしろここから、自分が何を失い、何を壊しかけたのかを、本当に見ていかなければならない。


 それはとても痛い。


 けれど栄子は、茂之の絵と、香奈美の彗星のデータを思い出しながら、初めて少しだけ思った。


 それでも、ここからやり直したい。


 その思いは、まだ弱い。

 でも確かに、教団ではなく家族のほうへ向いていた。

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