返せと叫ぶだけでは戻らない
第三十七章 返せと叫ぶだけでは戻らない
① 法の準備、家の沈黙
八月の終わり、真田家では少しずつ“現実的な戦い”が進んでいた。
内容証明は送られた。
契約書類は整理された。
ローン会社への照会も進み、教育ローンの目的外利用についても、弁護士側が本格的に問題点を洗い出し始めている。
被害対策弁護団との面談日程も具体化し、返金請求の論点整理も始まっていた。
外から見れば、ようやく反撃の形が整ってきたように見える。
けれど家の中では、誰もそれを“前進”とだけは感じられなかった。
返金請求の準備は進んでも、
失った信頼はまだ戻らない。
書類を整えても、
食卓の気まずさは消えない。
法的な言葉が積み上がるほど、
逆に“ここまで壊れてしまったのか”という現実がはっきりする。
圭一は、夜遅く書類を閉じたあと、何度も同じことを思った。
金は追える。
でも、家族はそんな単純じゃない。
② 修復のほうが難しい
夕食の席でも、その難しさははっきり出ていた。
栄子は前より少しだけ穏やかに話すようになった。
教団めいた言葉も減った。
食費も、できる範囲で戻そうとしているのが見える。
けれど、それで昔のままに戻るわけではない。
香奈美は、まだ母を完全には許せない。
茂之も、母の顔色をうかがう癖が抜けない。
圭一も、栄子がスマホを見るたびに胸の奥で警戒が走る。
たとえば栄子が
「今日、安い鶏肉あったし、明日唐揚げしようか」
と言っても、前みたいに
「やったー」
とすぐにはならない。
一度壊れたものは、直るとしても、時間がかかる。
そのあたりまえのことを、真田家は痛いほど学び始めていた。
③ 栄子が言葉にし始める
それでも、少しだけ変わり始めているものもあった。
ある夜、圭一と栄子が二人きりになった時だった。
洗い物を終えたあと、栄子がふいに言った。
「……うち、なんであそこまで行ったんやろって、最近ずっと考えとる」
圭一は黙って聞いた。
遮らない。
急いで結論を言わない。
それだけを意識する。
栄子は、少しずつ言葉を探すように続けた。
「最初は、ほんとにちょっと相談したいだけやった」
「香奈美のこと、心配しすぎなんかなって、自分でも思っとったし」
「でも、“それでいいんです”って言われたら……なんか、ほっとしたんよ」
圭一は、そこで初めて目を伏せた。
やはりそこなのだ。
「うちは、ずっと、何か起きたら自分が何とかせんなんって思っとった」
「家の空気悪かったら、自分のせいみたいな気がして」
「でも家では、そういうの言っても、“考えすぎ”とか“様子見”とかで終わること多かったやろ」
責めている言い方ではなかった。
でも、圭一の胸には重く落ちた。
栄子は続ける。
「責めたかったわけじゃないんよ」
「ただ……“苦しいままでいていい”って言ってほしかったのかもしれん」
それは、以前の栄子なら絶対に言えなかった種類の本音だった。
④ 圭一の受け止め方
圭一は、すぐには謝らなかった。
その代わり、少し考えてから言った。
「俺は……たぶん、早く片づけようとしすぎとったんやろな」
栄子が顔を上げる。
「お前が苦しいって言う前に、“大丈夫や”“考えすぎや”で終わらせとった」
「そう言えば楽になると思っとった」
それもまた、圭一なりの不器用な優しさだった。
でも、今となっては、その“早く整えようとする感じ”が、栄子の空洞を深めていたのかもしれない。
栄子は、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「うちも、ちゃんと言わんかった」
「言う前に、自分で勝手にためとったし」
そこまで話して、また沈黙が落ちる。
でもその沈黙は、以前のような冷たいものではなく、少しだけ生身のものだった。
⑤ 香奈美の距離
香奈美もまた、自分なりに母との距離を測り直していた。
完全には許せない。
でも、ずっと敵のままでいるのもしんどい。
ある日の夜、彗星の話題がテレビの科学ニュースに少し似た形で出た時、香奈美は意識して母にだけ向けて言った。
「今度、天文部の先生が、追加の解析結果も整理してくれるって」
栄子は、前のように変な意味づけを差し込まなかった。
ただ、
「そうなんや」
と返した。
それだけのことなのに、香奈美は少しだけ肩の力が抜けた。
“普通に返ってくる”。
そのことが、今はひどく大きい。
まだ前のようには話せない。
でも、少しずつ探ることはできるかもしれない。
そんな距離感だった。
⑥ 茂之の距離
茂之のほうは、もっと率直だった。
母に対して、まだ近づきたい気持ちと、怖い気持ちが半分ずつある。
以前みたいに甘えるのはためらう。
でも、完全に離れたいわけじゃない。
そんなある日、学校の図工で描いた絵を持ち帰った茂之は、最初は圭一にだけ見せようとしていた。
でも途中で少し迷ってから、栄子のほうへも向けた。
「これ、見て」
栄子は驚いたように受け取る。
「……上手やね」
その一言で、茂之はほんの少しだけ表情をゆるめた。
それ以上の会話は続かなかったけれど、その短いやり取りは確かにあった。
家族の修復とは、こういう小さな“渡し直し”の積み重ねなのかもしれなかった。
⑦ 思わぬ方向からの崩落
そんなふうに、真田家がぎこちなくも“戻るための足場”を探し始めていた矢先だった。
朝のニュース番組が、思わぬ速報を流した。
新興宗教団体「真光の輪」の教祖、不同意わいせつ容疑などで逮捕。幹部も摘発。
居間にいた全員の動きが止まる。
テレビの画面には、教団本部らしき建物、押収物を運ぶ捜査員、モザイクのかかった関係者の映像が映し出されていた。
アナウンサーは、淡々と続ける。
「捜査関係者によりますと、教祖は複数の女性信者に対し、教義や霊的指導を名目に性的行為を強要した疑いが持たれています」
「被害女性の中には妊娠したとされる人もおり、教団幹部による隠蔽工作の疑いも含めて捜査が進められているとのことです」
香奈美が、思わずテレビに近づく。
圭一の顔は、硬いまま固まっている。
栄子だけが、青ざめていた。
⑧ 栄子の崩れる音
教祖。
真理を知る者。
導く者。
選ばれた人たちを救う者。
その中心にいた人間が、不同意わいせつの強要で逮捕された。
しかも、複数の女性信者。
妊娠。
幹部の隠蔽。
それは、教団が積み上げてきた“神聖さ”を根元から叩き壊すような内容だった。
栄子は、口元を押さえたまま画面を見つめる。
「……うそやろ」
かすれた声が漏れる。
だが、ニュースは止まらない。
被害者側弁護団のコメント。
元信者の証言。
教団内で“教祖の身体に触れることは浄化”“拒むのは信仰の未熟さ”といった説明がなされていた疑い。
そこまで聞いた時、栄子の膝から力が抜けた。
自分が信じかけた“真理”の中心に、こんなものがあったのか。
壺や献金や本だけでも十分ひどい。
でもこれは、それ以前の話だった。
人の心を支配し、体まで奪い、しかもそれを教義で正当化していた。
その現実は、栄子の中に残っていた教団への最後の幻想に、大きな亀裂を入れた。
⑨ 長い戦いは続く、それでも
圭一は、すぐに沢渡へ連絡を入れた。
沢渡もすでに動いていた。
「大きいです」
「これで刑事事件としての立件の流れは一気に強まる可能性があります」
「民事でも、教団側の信用性には致命的な打撃です」
圭一は、短く息を吐く。
長い長い戦いになる。
その見通しは変わらない。
むしろここから、さらに大きな刑事事件、民事訴訟の流れが本格化していくのだろう。
だが、今この瞬間だけは、真田家にとって一つの現実がはっきりした。
あれは、救いの場ではなかった。
少なくとも、その中心にいた者たちは、
“人の心を救う側”
ではなく、
“人の心と体を食い物にする側”
だった。
栄子は、その場で泣き崩れた。
教団に騙されたこと。
家族を傷つけたこと。
自分が何を信じかけていたのか。
その全部が、一気に押し寄せてきたのだ。
香奈美は、すぐには近づけなかった。
圭一も、しばらくは動けなかった。
でも、この崩れ方は、以前とは違う。
教団の理屈で揺れるのではなく、現実によって崩れている。
それは苦しい。
けれど、そこからしか本当の再建は始まらない。
真田家の戦いは、ここからさらに長くなる。
刑事事件としての立件。
民事訴訟。
返還請求。
生活の立て直し。
家族の修復。
全部が、一歩ずつだ。
それでもこの日、思わぬ方向から暴かれた教団の正体は、栄子を現実へ引き戻す大きな衝撃になった。
そしてそれは、長い長い闘いの、本当の意味での第二章の始まりでもあった。




