職場にまで来る相手
第三十六章 職場にまで来る相手
① 家族の外にもある防波堤
スーパーで藤代美和に待ち伏せされた件は、真田家の空気をさらに引き締めた。
だが、それは絶望だけを運んだわけではなかった。
栄子にとって、あの日いちばん大きかったのは、
教団の外にも、自分を守ろうとしてくれる人がいる
と、体で知ったことだった。
店長の篠崎圭一郎は、次の日の出勤時にも栄子に声をかけた。
「昨日の件、こちらでも記録に残しておきます」
「また来るようなら、すぐ言ってください」
「場合によっては、店として対応します」
その言葉は、栄子の胸に静かに残った。
教団の人たちはいつも、
「わかるのは私たちだけ」
「家族は責める側」
という構図を作っていた。
でも、店長は家族でも信者でもない。
それなのに、事情を聞いて、普通に
“これはおかしい”
と判断してくれた。
それが、栄子には新鮮だった。
やさしい言葉で包むのではなく、
目の前の危険にきちんと線を引く。
そういう守り方もあるのだと、少しずつわかり始める。
② 圭一、内容証明へ
職場にまで来た。
その事実を聞いた瞬間、圭一の中で迷いは消えた。
「もう、口頭の警告やない」
低くそう言って、机の上の書類をそろえる。
被害対策弁護団と相談しながら、内容証明の文面はさらに強いものへ変わっていった。
本人および家族への電話・訪問・待ち伏せ・職場接触を直ちに停止すること
宗教団体関係者を名乗る者、または関係者と疑われる者による接触を含むこと
金銭支払い、献金、ローン契約、本契約に関する勧誘・督促・精神的圧迫を含む一切の接触を禁ずること
違反が続く場合、刑事・民事の両面からの法的措置を取ること
圭一は、弁護士の指示で一文一文を確認していく。
「“接近禁止”そのものは、現時点で命令として出せる段階ではない」
「ただ、接近禁止に近い、明確な警告としては十分です」
「今後の立件や訴訟を考えても、こちらがどこで線を引いたかを明示する意味は大きいです」
圭一はうなずいた。
もう、“やめてください”では足りない。
相手はそれを聞いても、なお職場に来たのだ。
ならば今度は、
法的に記録の残る形で、境界線を示す。
それが必要だった。
③ 職場も味方になる
数日後、篠崎店長は本社側とも共有したうえで、店としての対応方針を栄子に伝えた。
「真田さん個人の事情に深入りはしません」
「でも、業務の妨げになる接触や、従業員の安全を脅かす行為には、店として対応します」
「今後また来た場合は、すぐ私か副店長を呼んでください」
栄子は、何度も頭を下げた。
「すみません……ご迷惑かけて」
店長は首を振る。
「迷惑というより、これは普通に危ないです」
「真田さんが悪いわけじゃない」
「困ってるなら、職場として放っとけません」
その言葉に、栄子はまた胸が詰まる。
教団が言うように、
“外の世界は理解してくれない”
のではなかった。
少なくとも、まっとうな大人たちは、教団のように甘いことは言わなくても、
おかしいことをおかしい
と言ってくれる。
そして、必要なら守ってくれる。
その現実が、栄子の中で少しずつ大きくなっていく。
④ 教団の反撃
だが、教団側もすぐに動いた。
内容証明が届くと、金沢支部と東京本部のあいだで緊急のやり取りが始まる。
そして今度は、露骨な勧誘ではなく、金銭返還を逃れるための理屈の整備に入った。
彼らの主張は明確だった。
クーリングオフ期間はすでに経過している
本人が自ら望んで契約した
説明は十分に行った
強制や脅迫は一切していない
献金はあくまで自発的な信仰行為であり、返還義務はない
要するに、
「納得して払ったのだから、こちらに返還義務はない」
という一点に持ち込もうとしていた。
教団にとって大事なのは、信仰そのものよりも、まず金の流れを守ることだった。
壺も、祈祷料も、本も、教育ローンによる二百万円の献金も。
これらを“本人の自由意思”に見せかけられれば、返還要求への壁になる。
彼らはそこを熟知していた。
⑤ 一枚ずつ剥がされる主張
だが、その主張は、最初から盤石ではなかった。
弁護士側はすでに、教団の理屈の穴を一つずつ洗い出していた。
「まず、“本人が納得していた”という主張ですが」
「納得の前提となる説明が適切だったかが問題です」
「教育ローンを宗教献金に使わせている時点で、用途偽装の疑いが出る」
「また、“家族を救うため”“支払わなければ流れが止まる”などの心理的圧迫があれば、自発性の主張は弱まります」
圭一は、メモを取りながら聞く。
さらに弁護士は続ける。
「クーリングオフ期間が過ぎているのは事実です」
「しかし、それで全て終わるわけではありません」
「不実告知、困惑、目的外借入の誘導、精神的支配に基づく取消や不法行為責任の追及は可能性があります」
一枚ずつ。
教団が盾にしようとした理屈は、一枚ずつ剥がされていった。
“納得して払った”
と言っても、その納得が、繰り返しの囲い込みと意味づけの中で作られたものならどうか。
“自発的な献金”
と言っても、その前提に、恐怖や選民意識や家族への罪悪感を埋め込んでいたらどうか。
法の言葉は、教団の言葉より地味だ。
でも、一度現実に触れると強い。
⑥ 栄子の前で開かれる書類
圭一は、今度は隠さず、栄子の前で弁護士とのやり取りメモを見せた。
「向こうは“お前が納得して払った”って言うやろうな」
「でも、それで終わりやない」
「教育ローンを宗教献金に回した件は、かなり問題になる可能性がある」
「職場に来た件も、接触停止警告のあとなら、さらに重く見られる」
栄子は、その紙を見ながら、複雑な顔をした。
自分がしてしまったことが、こうして法律の言葉に置き換わると、急に冷たく、現実的になる。
もう“学び”でも“献身”でもない。
契約。
用途偽装。
不当勧誘。
接触停止。
損害。
その一方で、栄子の心のどこかではまだ、
“でも、あの時は本当に必要だと思った”
という気持ちも残っている。
だから苦しい。
間違っていたと認めることは、
自分が愚かだったと認めることではない。
そう頭ではわかっても、感情はなかなか追いつかない。
⑦ ここから始まる戦い
その夜、沢渡も加わって話し合いが続いた。
「ここから先は長いです」
沢渡は、率直に言った。
「刑事事件として立件できるかどうかは、証拠の積み上げと他の被害事例とのつながり次第です」
「すぐ逮捕、すぐ解決、にはなりません」
「でも、だからといって泣き寝入りする必要もない」
圭一は、静かに聞いている。
沢渡はさらに言う。
「民事訴訟も時間がかかります」
「返金要求も、一度で通るとは限らない」
「向こうは必ず、“自発的な信仰行為だった”って言ってきます」
香奈美が低く聞いた。
「じゃあ、ほんとに長いんですね」
「長いです」
沢渡ははっきり答えた。
「でも、長いからこそ、今ここで線を引いて、証拠を守って、生活を立て直す必要があります」
「刑事も民事も、その土台がないと戦えません」
それは、家族にとって重い現実だった。
もう“話し合えばわかる”段階は過ぎている。
ここからは、長い長い戦いだ。
刑事事件としての立件。
民事訴訟。
返還請求。
生活再建。
信頼の再構築。
全部が一度には終わらない。
⑧ 栄子が知る“外の守り”
だが、この章で栄子の中にもう一つ生まれたものがある。
それは、教団の外側にも、自分を守る手があるという実感だった。
家族だけではない。
店長もいた。
沢渡もいた。
弁護士もいた。
相談窓口も、本気で話を聞いてくれている。
教団はいつも、
“外には理解者がいない”
という前提を作っていた。
でも実際には違った。
外の人たちは、教団のように特別扱いはしない。
甘い言葉もあまり言わない。
けれど、事実を見て、理屈を整理し、必要な時にはきちんと守ろうとしてくれる。
そのことが、栄子には少しずつ効いてきていた。
⑨ 長い道の入口
夜遅く、家族がそれぞれの部屋へ戻ったあとも、圭一は一人で居間に残っていた。
机の上には、内容証明の控えと、弁護士からの助言メモ、被害対策弁護団の連絡先が並んでいる。
栄子もまた、部屋で静かに天井を見つめていた。
もう、前には戻れない。
教団を信じ切っていた頃にも、
何も知らなかった家族にも。
ここから先は、長い長い道になる。
刑事事件として立件できるのか。
民事で返金を勝ち取れるのか。
壊れた生活を立て直せるのか。
そして何より、家族としてもう一度やり直せるのか。
答えはまだない。
でも、教団の理屈が一枚ずつ剥がされていくように、
真田家も一歩ずつ、現実の側へ戻っていくしかなかった。
それは楽な道ではない。
けれど少なくとも、
誰かに意味づけてもらうだけの道ではなく、自分たちで立て直す道
だった。




