切ったはずの糸
第三十五章 切ったはずの糸
① 終わったはずなのに
決別宣言をした翌日から、真田家の空気は少し変わった。
劇的に明るくなったわけではない。
借金も契約も残っているし、栄子の心の中から《真光の輪》の言葉が一夜で消えたわけでもない。
それでも、あの夜以降、家族の呼吸はほんの少しだけそろい始めていた。
圭一は、食卓で必要以上に責めるのをやめた。
香奈美も、母の言葉尻をすぐに疑うのではなく、一度待つようにしていた。
茂之も、恐る恐るではあるが、また学校の話をぽつりぽつりと口にするようになった。
だが、それで本当に終わるほど、教団は甘くなかった。
栄子のスマホには、藤代や室井の番号からは着信が来なくなった。
その代わり、知らない番号からのワンコールが入る。
非通知。
短い留守電。
無言電話。
そして、もっと嫌な気配が別のところから近づいてきていた。
② 栄子自身との戦い
栄子にとって、いちばん苦しかったのは、教団を切ったあとも、心が完全には静かにならないことだった。
もう行かない。
関わらない。
そう言った。
それは本心だった。
でも、だからといって、すぐに向こうへの依存が消えるわけではない。
朝、少し気持ちが沈んだ時。
家で何か言いかけて飲み込んだ時。
香奈美の前でまたうまく言葉を選べなかった時。
そんな瞬間に、ふと頭の中であの声がよみがえる。
真田さんは悪くありません。
あなたは選ばれた方です。
ここがあなたの居場所です。
それを打ち消すたび、栄子は自分で自分に腹が立つ。
(もう切ったやろ)
(もう戻らんって決めたやろ)
それなのに、まだ揺れる。
まだ、あのやさしい声を求めてしまいそうになる自分がいる。
決別とは、言った瞬間に自由になることではない。
言ったあとから始まる、自分との戦いなのだと、栄子は身をもって知り始めていた。
③ 圭一、法的警告へ
一方で圭一は、もう“様子を見る”段階を越えたと判断していた。
被害対策弁護団との打ち合わせを進め、内容証明の準備に入る。
教団名義、関係者名義、支部宛て。
接触の停止要求。
不当勧誘と金銭要求に対する抗議。
ローン契約と献金に関する調査継続の意思表示。
机の上には文案が並んでいた。
「電話、訪問、職場接触を含む一切の直接接触をやめること」
「本人の不安定な心理状態に乗じた勧誘を継続していること」
「法的措置を検討中であること」
圭一は文面を読み返しながら、低く息を吐く。
もう、夫婦だけの問題ではない。
家庭内の話し合いだけでもない。
相手は明らかに“離脱を許さない”動きを見せ始めている。
ならば、こちらもはっきりと線を引かなければならない。
④ スーパーの帰り道
その日の午後。
栄子はスーパーの惣菜部門で、いつも通り揚げ物を並べ、値引きシールを貼り、閉店前の片づけをしていた。
仕事をしている間だけは、少しだけ頭が静かになる。
目の前の作業に集中していれば、教団のことも、借金のことも、家の中の気まずさも、ほんの少しだけ遠くなる。
それでも、ふとした瞬間に胸がざわつくことがある。
今日は特にそうだった。
朝から妙な落ち着かなさがあった。
閉店が近づき、パートの終了時間になる。
栄子はエプロンを外し、ロッカーで荷物を整えて、更衣室を出た。
店の外へ向かおうとした、その時だった。
「真田さん」
聞き覚えのある、やわらかい声。
栄子の全身が、瞬時に強張る。
振り向くと、店の出入口近くの目立たない場所に、藤代美和が立っていた。
きちんとした服装。
穏やかな表情。
買い物客に紛れていれば、ただの感じのいい女性にしか見えない。
けれど栄子には、その存在がひどく恐ろしく見えた。
「……何しに来たんですか」
声が固くなる。
藤代は、少し困ったような顔を作って言う。
「少し、お話の時間をいただいてもいいですか?」
その言い方が、あまりにも以前と変わらなくて、逆にぞっとする。
⑤ 栄子、自分で線を引く
栄子は、一歩引いた。
以前なら、その声に揺れていたかもしれない。
“少しだけ”なら。
“話すだけ”なら。
そう思ってしまったかもしれない。
でも今は違う。
「私はもう、教団の関係者でも、信者でもありません」
その言葉を、栄子ははっきり言った。
自分で言いながら、胸が苦しくなる。
けれど、続ける。
「お引き取りください」
そう告げて、脇を通り抜けようとする。
だが藤代は、すぐには引かなかった。
「真田さん、誤解されてるんです」
「私たちは、ただ真田さんのことを心配して――」
「やめてください」
栄子の声が、少し強くなる。
「もう関わらないって言いました」
藤代はなおも食い下がる。
「今のご家庭で、本当に落ち着いておられますか?」
「真田さん、かなり無理をしておられるでしょう」
「少し話すだけでいいんです」
その“少しだけ”が、いちばん危険だと、今の栄子にはわかる。
一度立ち止まれば、またそこから引き戻される。
それが怖かった。
⑥ 店長の機転
その時だった。
「どうかしたんですか?」
少し離れたところから声が飛ぶ。
振り向くと、スーパーの店長――
篠崎圭一郎
が立っていた。
閉店前の売り場確認に出てきたらしい。
だが、その表情はただならぬ空気をすぐに察していた。
藤代は一瞬だけ笑顔を作ったが、店長の目はごまかされなかった。
店長は、何でもない調子を装って栄子に言う。
「真田さん、事務所のタイムカード、まだ押してなかったですよ」
栄子は一瞬きょとんとした。
だが、その言葉の意味はすぐにわかった。
助け舟だ。
「……あ、すみません」
店長はそのまま自然に言う。
「じゃ、ちょっと戻ってもらっていいですか」
そして、藤代に対しては礼儀正しく会釈するだけで、それ以上相手にしない。
栄子は、その流れに乗るように店の中へ戻った。
藤代は、追ってはこなかった。
店の敷地内、しかも店長が関わった以上、これ以上はまずいと判断したのだろう。
⑦ 事情を聞く店長
事務所へ入ると、店長はドアを閉めてから、ようやく真顔になった。
「真田さん、さっきの方、知り合いですか」
栄子は、しばらく答えられなかった。
心臓がまだ速く打っている。
「……前に、ちょっと関わりのあった人です」
店長はそれだけでだいたい察したようだった。
「困ってるんですか?」
その問いに、栄子は迷った。
職場の人にどこまで話していいのか。
でも、今ここで
「大丈夫です」
とごまかしても、自分が本当に大丈夫ではないことは、自分が一番よくわかっていた。
「……はい」
「もう関わりたくないんですけど、来るんです」
店長は短くうなずいた。
「わかりました」
「今日は私が一緒に外まで出ます」
「今後も店の近くに来るようなら、遠慮なく言ってください」
その言葉を聞いた瞬間、栄子の胸に、また別の種類の涙が上がってきた。
教団のような大げさな“救済”ではない。
ただ、今この場で困っていることに対して、当たり前に手を貸してくれる人がいる。
それだけのことが、今の栄子にはひどくまぶしかった。
⑧ 一緒に退店する
閉店後、店長は本当に栄子と一緒に店を出た。
夜の駐車場。
蒸し暑い空気。
街灯の白い光。
藤代の姿はもう見えない。
だが、どこかに視線が残っている気がして、栄子は落ち着かなかった。
店長は、周囲を一度見てから言った。
「今日はもう帰って大丈夫そうですね」
「……すみません」
「気にせんでください」
「ただ、もしこういうのが続くなら、ちゃんと相談したほうがいいですよ」
「職場に来るのは、普通じゃないですから」
その“普通じゃない”という一言が、栄子に重く残る。
そうだ。
普通じゃない。
家に来るのもおかしい。
電話が鳴り続けるのもおかしい。
決別した相手が、職場の帰り際を狙って現れるのもおかしい。
そこまで来て、ようやく、教団の“やさしさ”の輪郭が少しずつ剥がれていく。
⑨ 切ったはずの糸の正体
その夜、栄子は家に帰ると、圭一と香奈美にそのことを話した。
スーパーに来たこと。
帰り際を待ち伏せされたこと。
「少しだけ話を」と言われたこと。
店長が助けてくれたこと。
圭一の表情は、聞いているうちにどんどん硬くなった。
「職場まで来たんか」
「……うん」
「もう、完全に一線越えとる」
香奈美も、怒りで顔が熱くなるのを感じた。
「だから言ったやん」
「向こう、絶対普通じゃないって」
栄子は、今日はその言葉に反発しなかった。
ただ、疲れた顔で椅子に座っている。
切ったはずの糸。
でもそれは、向こうが握って離さない糸だったのだと、今はっきり感じていた。
そして同時に、自分のほうも、まだ完全には振り切れていなかったことがわかってしまう。
藤代の声を聞いた瞬間、一瞬だけ胸が揺れた。
あの“わかってくれる感じ”に、戻りそうになった。
でも、今日は違った。
自分で
「私はもう、教団の関係者でも、信者でもありません」
と言った。
その言葉は、スーパーの帰り道で、以前より少しだけ本物になった気がした。




