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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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家を出るという誘惑



第三十章 家を出るという誘惑


① 「少し離れて静養しませんか」


八月の金沢は、朝から蝉の声が濃かった。


真田家の窓を閉めていても、じりじりとした暑さと鳴き声は入り込んでくる。

そんな中、栄子のスマホに藤代美和からメッセージが届いた。


真田さん、かなりお疲れがたまっているように見えます。

しばらく家を離れて、静養されませんか。

こちらで落ち着ける場所を用意することもできます。


栄子は、その文字を見たまま動けなかった。


“家を離れる”。


これまでは、どこか遠回しな匂わせだった。

けれど今回は、はっきりと選択肢として提示されている。


さらに続けて、別の文面が入る。


いまのご家庭の環境は、真田さんの心を削りすぎています。

ご自身を守るために、一時的に距離を取るのは逃げではありません。

真理に向き合う方に必要な静養です。


静養。

守るため。

逃げではない。


言葉が、あまりにもきれいすぎた。


家を出ることの後ろめたさを、全部薄くしてしまうような表現だった。


栄子の胸は激しく揺れた。


もし本当に、少し家を離れたらどうなるだろう。

責められない。

疑われない。

あの重たい食卓に座らなくていい。

「何が足りない」と問われる苦しさからも、一度は離れられる。


そう思った瞬間、心が少しだけそちらへ傾く。


けれど同時に、茂之の顔が浮かぶ。

香奈美の怒った顔も浮かぶ。

圭一の疲れた目も。


それでもなお、

「少しだけなら」

という誘惑が、今の栄子にはあまりにも強かった。


② 栄子の揺れ


スーパーのバックヤードで休憩を取る短い時間、栄子はずっとそのメッセージを見ていた。


しばらく家を離れる。

そんなこと、本当にしてしまっていいのか。


普通なら、即座に“だめだ”と思うはずだ。

でも今の栄子には、完全には否定できない。


なぜなら、家の中にいると、自分がずっと責められている気がするからだ。


もちろん、家族が心配しているのはわかる。

でも、その心配の形が今の自分には鋭すぎる。


何をしても見られている。

スマホを持てば警戒される。

言葉を選べば疑われる。

少し黙れば、また何か隠していると思われる。


その息苦しさに、教団側の

「ここがあなたの居場所です」

という言葉が深くしみ込む。


栄子は、スマホを伏せた。


(少しだけ……ほんの少しだけ離れたら)

(うちも落ち着けるんやろか)


それはもう、“絶対にありえない話”ではなくなっていた。


③ 家の中の作戦


一方そのころ、圭一と香奈美も別のことを考えていた。


教団を否定するだけでは足りない。

では、家の中に“本当にあるもの”を見せるにはどうしたらいいのか。


そのきっかけになったのが、香奈美の発見だった。


新たな天体。

観測。

比較。

検証。

国立天文台からの通知。


そこには、教団の言葉ではなく、

自分たちで見て、考えて、積み上げた現実

があった。


圭一は言った。


「お母さんに、香奈美の世界そのものを見せたほうがいいかもしれん」


香奈美は最初、少し驚いた顔をした。


「天文部を?」


「そうや」

「お前がどんな顔して空見とるか」

「みんながどんな気持ちで観測しとるか」

「それを、お母さんはちゃんと見たことないやろ」


香奈美は黙って考えた。


たしかにそうだった。

母は、天文部に入っていることは知っている。

でも、実際の観測会や、部員たちの目の色や、夜空を前にした空気を見たことはない。


今の母には、星も宇宙も“神様のしるし”みたいな言葉で上書きされている。

でも、現場にはそんな曖昧なものはない。


観測機材を準備する手。

位置を確認する目。

ノイズか本物かを見分ける緊張。

そういうものがある。


香奈美は、ゆっくりとうなずいた。


「……見に来てって言ってみる」


④ 誘い


その晩、食卓のあと。


香奈美は、いつもより少しだけ意識して声を整えた。


「お母さん」


栄子が振り向く。


香奈美は、まっすぐ言った。


「今度、うちらの活動、見にきてほしい」


栄子が目を瞬く。


「活動って……天文部の?」


「うん」


香奈美は続けた。


「みんな、星を見るのが好きで、宇宙のことが好きで、ひょっとしたら何か新しい発見があるかもしれんって思って、頑張っとるんや」

「ただぼーっと空見とるわけじゃない」

「ちゃんと考えて、比べて、確かめて、何があるか見ようとしとる」


その言葉は、これまでの怒りとは違った。

責めるでもなく、説教するでもなく、

自分の大事な世界を見てほしい

という、静かな願いだった。


栄子はすぐには答えなかった。


香奈美はさらに言う。


「お母さん、うちのことずっと見てるようで、たぶん本当のとこは知らん」

「だから一回、見てほしい」


それは、香奈美なりの

“家に戻ってきて”

という呼びかけでもあった。


栄子は、その真剣な目を前にして、小さく言った。


「……考えとく」


その返事は曖昧だった。

でも、前ならそこで宗教の理屈を差し込んでいたかもしれない。

それをしなかっただけでも、圭一にはわずかな変化に見えた。


⑤ 観測会の夜


数日後、天文部の観測会の日。


夜の学校は昼間とは別の顔をしていた。

校庭の端に設置された望遠鏡。

赤いライト。

ノートパソコンの画面。

静かに交わされる確認の声。


栄子は、少し迷った末にやってきた。


来る直前まで、本当に行くべきか揺れていた。

教団側からの

「いまは心が揺れやすいので、世俗の刺激は避けたほうがいいかもしれません」

というメッセージも届いていたからだ。


それでも、香奈美の

「見にきてほしい」

という言葉が残っていた。


だから栄子は来た。


そして、そこで目にしたものは、教団が語るような“神秘”とはまるで違う種類のまなざしだった。


天文部員たちは、誰もふざけていない。

空を見上げる目は真剣で、数値を確認する手も、記録を取る声も、静かに熱を帯びている。


「あ、赤経もう一回合わせて」

「比較画像、前回のやつ出る?」

「この光点、ノイズじゃなさそう」

「露出条件揃えよう」


そのやりとりを聞きながら、栄子は思った。


(こんな顔、しとるんや……)


香奈美も、家で怒っている時とは全然違う。

夜空を見上げる目が、まっすぐで、迷いがない。

感情的になっているのではなく、ちゃんと見よう、確かめようとしている目だ。


それを見た時、栄子の中に、初めて小さな疑問が浮かんだ。


(……うち、何か間違えとったんやろか)


⑥ 国立天文台からの続報


その観測会から数日後、香奈美のスマホに再び通知が届いた。


国立天文台からだった。


今回の文面は、前回よりさらに詳しかった。

香奈美は、画面を見たまま息をのむ。


国立天文台で詳しいデータ解析が行われた結果、

それは小惑星ではなく、土星の軌道よりさらに外側で発見された彗星であることがわかったという。


そして、発見者名に基づき、仮称として

KANAMI COMET

の名が付されると記されていた。


香奈美は、声にならない声を漏らした。


彗星。

しかも、自分の名前を冠した仮称。


心臓がどくどく鳴る。

目の前が少し熱くなる。


「……うそ」


圭一が隣からのぞき込み、言葉を失う。


「ほんまか……」


茂之は意味を全部わかっていなくても、姉の顔を見てただごとではないと察した。


「お姉ちゃん、すごいん?」


香奈美は、今度こそ涙をこぼしながら笑った。


「……すごいかもしれん」


⑦ 再び差し込まれる言葉


その知らせを聞いて、家の中には一瞬、本当に久しぶりの明るさが戻った。


圭一は心から驚き、茂之は飛び跳ねるように喜ぶ。

その空気の中で、栄子も驚いた顔で香奈美を見ていた。


彗星。

KANAMI COMET。


その響きには、教団の作りものではない、本物の重みがある。

努力と観測と検証の末にしか得られない現実だ。


だが、それでもなお、栄子の口から出かかった言葉があった。


「それも……」


神様が。


そこまで出かけて、止まる。


香奈美のあの怒りが、まだ鮮明に残っていたからだ。


それでも、栄子の中ではまだ教団の理屈が完全には消えていない。

“美しいもの”や“特別なこと”に出会うたび、そこへ神様の意味づけを差し込みたくなる癖が残っている。


だが今度は、はっきり止まった。


それだけでも、圭一は見逃さなかった。


⑧ 香奈美の怒りと願い


それでも香奈美は、母の表情を見て、まだ危うさを感じた。


だからこそ、あえて強く言った。


「お母さん」


栄子が顔を上げる。


香奈美は、前回ほど怒鳴らず、でもはっきりと言った。


「これは、私らが観測して、比べて、確認して、見つけたんや」

「誰かが与えたもんじゃない」

「ちゃんと見たら、ちゃんと見つかることがあるんやよ」


その言葉は、彗星のことだけではなかった。


宗教の曖昧な意味づけじゃなく、

自分で見て、確かめて、現実を積み上げること。

それが今、母にいちばん伝えたいことだった。


栄子は、何も言えずに娘を見ていた。


⑨ 家を出る誘惑と、家に残る光


その夜も、教団側からはメッセージが届く。


いまは家の中に惑わしが強く出ています

必要であれば、静養のためにこちらで受け入れ可能です

家を離れることは、真理から逃げることではありません


家を出る誘惑は、ますます具体的になっていた。


けれど同時に、真田家の中にも、ほんの小さな光が戻り始めていた。


それは教団の言葉のように大げさなものではない。

救済でも、真理でもない。


夜空を見上げる天文部員たちの、あの真剣な目。

彗星の発見を一緒に喜んだ、短いけれど本物の時間。

自分の言葉を飲み込み、立ち止まった栄子の一瞬。


居場所は、まだ完全には戻っていない。

でも、家の中に“本物のつながり”を作り直す余地が、ほんの少しだけ見えた。


そしてその小さな余地を、教団もまた見逃さない。


次は、もっと強く栄子を家の外へ引きずり出そうとするだろう。


真田家の戦いは、まだ続く。

けれどこの夜、KANAMI COMET の名は、

教団の曖昧な“真理”とは別の場所にある、本当の光として家の中に残った。



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