居場所を取り戻すために
第二十九章 居場所を取り戻すために
① 否定だけでは届かない
八月が近づき、金沢の夜も少しずつ深くなっていた。
真田家では、この頃になると、圭一も香奈美も一つのことを痛いほどわかり始めていた。
教団を否定するだけでは、栄子は戻らない。
壺がおかしい。
祈祷料がおかしい。
本の値段がおかしい。
教育ローンの目的外利用がおかしい。
それは、全部その通りだ。
だが、正しさだけを突きつけても、栄子の心の中にある
「あそこでは受け止めてもらえた」
という実感までは消えない。
だから圭一は、仕事帰りの車の中でも、そのことをずっと考えていた。
どうやって教団を切るか。
それはもちろん必要だ。
でも同時に、
栄子にとっての“家の中の居場所”をどう取り戻すか
を考えなければいけないのではないか。
その夜、圭一は居間で香奈美に言った。
「俺たち、ずっと“向こうがおかしい”って話ばっかりしてきたやろ」
香奈美が顔を上げる。
「だって、おかしいやん」
「おかしい。そこは間違いない」
「でも、それだけ言うても、お母さんは戻ってこんのやろなって思う」
香奈美は黙った。
圭一は続ける。
「向こうには、“ここがあなたの居場所です”って言葉がある」
「じゃあ家には、今、お母さんの居場所があるんかって言われたら……」
「正直、そこは俺も胸張れん」
その言葉は、香奈美にも重かった。
家族みんなが栄子を止めようとしてきた。
それは間違っていない。
でも、その結果として、家の中が“責める側”ばかりになっていたのも事実だった。
② 教団の新しいささやき
一方、《真光の輪》側も手を緩めてはいなかった。
藤代美和から届くメッセージは、以前よりさらに踏み込んでいた。
家の中が苦しいなら、少し離れる選択肢もあります
真田さんの心が潰れるくらいなら、守られる場所へ来ることも必要です
本当に真理に生きる方は、時に古い環境を離れる決断をされます
“家を出る”とは、まだはっきり書かない。
だが、十分に匂わせている。
栄子はその文面を見て、息が苦しくなった。
家を出る。
そんなこと、本当にできるのか。
圭一も、香奈美も、茂之もいる。
この家を捨てるなんて、普通なら考えられない。
でも同時に、教団側の言葉は、
家を出ること=家族を捨てること
ではなく、
“自分を守るための必要な距離”
のように言い換えてくる。
その言い換えが、じわじわ効く。
もしこの家にいて、毎日責められて、自分が壊れていくなら。
少し離れるのも“試練を越えるため”なのかもしれない。
そう思わせるだけの材料が、今の栄子の中にはもう揃ってしまっていた。
③ 香奈美の夜
そんな中、香奈美は別のことで久しぶりに集中していた。
天文部の観測データだ。
学校の観測会で撮影した夜空の写真を、家の机の上で何枚も並べ、以前のデータと見比べている。
星の位置。
赤経。
赤緯。
微かな光点のズレ。
母のこと、家のこと、宗教のこと。
全部頭から離れるわけではない。
でも、空を見ている時だけは、少しだけ息ができる。
その夜も、香奈美はこの前観測したところと同じ領域を写した写真を拡大していた。
すると、ある一点が気になった。
「……あれ?」
ほんの小さな点。
前回の画像と比べると、わずかに位置がずれている。
ノイズかもしれない。
撮影条件の違いかもしれない。
でも、そう思って片づけるには動きがきれいすぎた。
香奈美は赤経と赤緯を洗い直した。
天文アプリで、その時刻、その位置にある既知の小惑星や天体を照合する。
何度確認しても、出てこない。
「載ってない……」
鼓動が速くなる。
天文部で学んだ通り、未知天体の可能性がある場合は、観測データをきちんと整理して送る必要がある。
香奈美は、時間、位置、比較画像、測定値をまとめ、国立天文台へデータを送った。
送信したあと、しばらくは半信半疑だった。
偶然のノイズかもしれない。
既知天体のデータ更新前かもしれない。
期待しすぎるほうが危ない。
それでも、胸の奥では小さな火がついていた。
④ 届いた通知
数日後の夕方。
家の中が相変わらず重たい空気に包まれている中で、香奈美のスマホが震えた。
差出人は、国立天文台の担当部署だった。
香奈美は、一瞬、呼吸を止めた。
指先が震える。
メールを開く。
そこには、簡潔だがはっきりと書かれていた。
送付いただいた観測データを確認した結果、既知の小惑星・既知天体との一致は認められませんでした。
追加確認の結果、新たな小惑星である可能性が高く、発見報告の一次記録に記載いたします。
真田香奈美さんは、当該天体の発見者として記録されます。
香奈美は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
新しい小惑星。
発見者。
自分の名前が、そこにある。
「……え」
声にならない声が漏れる。
何度も読み返す。
読み間違いじゃない。
夢でもない。
天文部での地道な観測。
写真の比較。
赤経と赤緯の確認。
アプリとの照合。
その全部が、一つの結果につながった。
香奈美は、自分の手で確かめ、自分の頭で考え、自分たちの観測でつかんだのだ。
その瞬間だけは、胸の奥に久しぶりの光が差した。
⑤ 家族へ告げる
香奈美は、居間へ駆け下りた。
その勢いに、圭一も茂之も顔を上げる。
栄子も、台所から振り向いた。
「お父さん! 茂之! 見て!」
息を切らしながら、スマホを差し出す。
「この前の観測で見つけたやつ、やっぱり新しい小惑星やった!」
「うち、発見者として記録されるって!」
圭一の顔が、久しぶりにはっきりと明るくなる。
「ほんまか!」
茂之も目を丸くする。
「すごいやん、お姉ちゃん!」
その瞬間、家の中に本当に久しぶりの“普通の喜び”が生まれた。
香奈美は、少し涙ぐみながら笑った。
「みんなで観測して、前のデータと比べて、位置ちゃんと出して……」
「載ってない天体やってわかって、それで送ったんや」
「ほんとに見つかったんやよ!」
それは、教団の言葉ではなく、科学の積み重ねだった。
観測して、比較して、確認して、検証してたどり着いた現実だった。
だが、その喜びに、栄子は別の言葉を差し込んでしまう。
⑥ 栄子のひと言
栄子は、少し驚いた顔のあと、やわらかく笑った。
「……そうなんやね」
「神様が見つけてくださったんやね」
その一言で、空気が凍った。
圭一の顔から笑みが消える。
茂之も、きょとんとしたまま固まる。
そして香奈美は、数秒間、本当に言葉を失った。
今、自分は何を話したのか。
どれだけ時間をかけて見つけたのか。
どれだけ慎重に確認したのか。
それを全部無視して、
「神様が見つけてくださった」
で済まされた。
その瞬間、香奈美の中で何かが切れた。
⑦ 科学を奪うな
「違う」
最初は、低い声だった。
栄子が目を瞬かせる。
香奈美は、一歩前へ出る。
「違う」
「これは、私たちがみんなで協力して発見したんや」
声が、はっきり強くなる。
「写真撮って、前のデータと比べて、赤経と赤緯調べて、天文アプリで既知天体と照らして、国立天文台に送って、それで確認されたんや」
「神様とか、そんなもんが関与するわけないやろ」
栄子が何か言い返そうとした。
だが、その前に香奈美の怒りが一気に噴き出した。
「何でもかんでも神様にするな!」
「うちらがやったことやろ!」
「みんなでちゃんと観測して、ちゃんと考えて、ちゃんと確かめた結果やろ!」
「お母さん、今のひと言で、うちがどんだけ頑張ったか全部消したんやよ!」
その声は、家中に響いた。
あまりの怒りに、茂之は息をのむ。
圭一も、すぐには口を挟めない。
香奈美の目には、涙がにじんでいた。
ただ怒っているのではない。
自分の現実を、母の宗教の言葉で奪われたことへの、深い悲しみが混ざっていた。
「うちは、空が好きなんよ」
「宇宙が好きなんよ」
「だから見つけたかったし、見つけたんや」
「それを、何でお母さんの変な宗教の言葉で上書きされんなんの!」
その一言一言が、栄子に真正面からぶつかった。
⑧ 何も言えない母
栄子は、そこで初めて何も言えなくなった。
今までなら、
「真理に気づいてないだけ」
「神の導きが見えてないだけ」
そういう言葉で返せたかもしれない。
でも今の香奈美の怒りは、そういう理屈を挟む余地がないほど、生身だった。
自分の手で見つけたもの。
仲間と確かめたもの。
科学として積み上げたもの。
それを“神様が見つけた”と言ってしまったことが、どれほどひどい奪い方だったか。
その重さが、さすがの栄子にも伝わってしまった。
口を開きかける。
でも、言葉が出ない。
教団の理屈を出せば出すほど、いま目の前で泣きそうになっている娘を、さらに傷つけるだけだと、さすがにわかったからだ。
栄子は、何も言えずに立ち尽くした。
⑨ 家の中の居場所を取り戻せるか
その夜、香奈美は部屋で一人、何度も通知メールを見返した。
新しい小惑星の発見者。
本来なら、飛び上がるほど嬉しいはずの出来事だった。
でも今は、嬉しさと悔しさがごちゃ混ぜになっている。
一方、圭一は居間で深く考えていた。
今の出来事は、はっきりしていた。
栄子はまだ教団の言葉に支配されている。
でも同時に、香奈美の怒りに何も返せなかった。
それは、宗教の理屈が初めて“現実そのもの”に打ち負けた瞬間だったのかもしれない。
教団を否定するだけでは足りない。
でも、家の中にある本物の努力や、本物の喜びや、本物の関係を取り戻していけば、
栄子を引き戻す糸になるかもしれない。
その可能性を、圭一は初めて少しだけ感じた。
だが、教団もまた黙ってはいない。
栄子の揺らぎを察したなら、次はもっと強く囲い込みに来るだろう。
場合によっては、家を出る選択肢をさらに具体的に迫ってくるかもしれない。
真田家の戦いは、まだ終わらない。
だがこの夜、香奈美の怒りは一つの楔を打ち込んだ。
現実を、教団の言葉で奪うな。
その叫びは、栄子の中に確かに残った。




