止めるための条件
第二十六章 止めるための条件
① 感情ではなく、手順で止める
東京から戻った翌々日。
圭一は仕事の合間と昼休みを削って、被害対策弁護団と消費生活相談窓口の担当者から受けた助言を整理していた。
ノートのページは、もう何枚も埋まっている。
契約書類の保全
ローン会社名と契約番号の確認
勧誘経緯の時系列化
メッセージや通話履歴の保存
教団歌の録音保存
教団名が確認できる資料の保全
本人がさらに新規契約しないよう、接触経路の遮断を検討
クレジットやローン枠の確認
本人の教育ローンや各種借入の有無の確認
家に起きていることが、もう単なる家庭不和ではないのは明らかだった。
だから必要なのは、“わかってくれ”という言い争いではなく、被害を拡大させないための条件をそろえることだった。
その夜、圭一は家に戻ると、香奈美を居間に呼んだ。
「弁護士と相談窓口から、やることがかなり具体的に出た」
香奈美はすぐにノートをのぞき込む。
「何から?」
「まずは証拠を消させんことや」
「スマホのメッセージ、契約書類、ローンの痕跡」
「これがなくなったら、あとからかなり厳しくなる」
香奈美は、母のスマホを思い出した。
いつも肌身離さず持っている。
通知が来ればすぐ画面を伏せる。
最近はトイレや風呂の前にまで持っていくことがある。
「お母さんのスマホ……たぶん、いちばん危ない」
圭一はうなずいた。
「それと、家の中にある契約関係の紙や」
「もう見つかったもんだけじゃ足りん。まだ何か隠しとる可能性がある」
② 栄子から何を守るのか
この問題は、奇妙な言い方になるが、
栄子を守るために、栄子の手元からいくつかのものを守らなければならない
という性質のものだった。
それは残酷だった。
本来なら、家族は本人の自由や持ち物を尊重したい。
だが今の栄子は、自分の意思で自分を守れていない。
むしろ、教団のために自分の金と生活と家族を差し出しかねない。
だから圭一は、言いにくそうに言った。
「場合によっては、スマホも一時的に預からんなんかもしれん」
香奈美が顔を上げる。
「でも、それやったらお母さんもっと暴れん?」
「暴れるやろな」
圭一は、正直にそう言った。
「でも、向こうとの連絡を完全に自由にしといたら、また次の契約に行く」
「そこをどうするかが、今いちばん難しい」
香奈美は、黙って考え込む。
お母さんの自由を奪いたいわけじゃない。
でも、その自由の先に教団があるなら、放っておくのも違う。
そのねじれが、あまりにも苦しかった。
③ 父と娘の意見の揺れ
その夜、圭一と香奈美のあいだでも意見は割れた。
「もっと強く止めんとだめやと思う」
香奈美は、はっきり言った。
「スマホも取り上げるべきやし、もう一人で外出させたらあかんやろ」
「東京まで行って、本部入って、まだ向こうのこと信じとるんやよ?」
圭一は腕を組んだまま、すぐには答えなかった。
香奈美は続ける。
「お父さん、慎重すぎる」
「慎重にしとるあいだに、どんどんひどくなっとるやん」
その言葉は、圭一の胸にも刺さった。
実際、その通りの部分もある。
だが圭一は、低く言う。
「強く出すぎたら、逆に完全に向こうへ行く」
「相手はもう、“家族は自分を苦しめる側”って入れられとるんや」
「そこへ力で押さえつけたら、向こうの理屈を証明するだけになる」
香奈美は唇を噛む。
理屈ではわかる。
でも、それで止まってくれるようにも思えない。
「じゃあどうするん」
「止める。けど、証拠と外の力をそろえながらや」
圭一の声は疲れていた。
それでもぶれまいとしているのが、逆に痛々しい。
④ 家の中の栄子
そのころ栄子は、台所で明日の弁当の下ごしらえをしていた。
見た目には、いつもの母親だ。
にんじんを切り、冷蔵庫の残りを確認し、安く済ませる献立を考えている。
だが、その頭の中は別のことでいっぱいだった。
東京本部での修練会の最後に、金沢支部長・野々村千鶴が別室で話した内容だ。
あの部屋は、空気が違った。
本部に来た者だけに許される“さらに深い話”という雰囲気があった。
そこで野々村は、静かに、しかし強い声で言った。
「真田さんのような方には、次の段階の献身をお願いしたいんです」
そして出てきた話は、さらに現実離れしていた。
⑤ 新たな要求
金沢支部では、今後の活動の拡大にあたり、
支部長の移動手段としてロールスロイスの高級リムジンの購入を進めているという。
そのための現金が必要で、
一人あたり二百万円の献金
をお願いしたい――。
最初、栄子は耳を疑った。
壺の百万円でも高かった。
祈祷料の四十万円でも苦しかった。
本の五百万円はさすがにまだ契約前だった。
そこへ来て、今度は二百万円の献金。
しかも、ロールスロイス。
支部長の移動手段。
普通に考えれば、おかしい。
それでもその場では、おかしいと感じる隙がなかった。
野々村は、あまりにも落ち着いた口調で言ったのだ。
「これは贅沢のためではありません」
「真理を運ぶ器を整えるということです」
「真田さんのように選ばれた方なら、その意味がわかるはずです」
さらにこうも続けた。
「教育ローンの枠が使える方は、そちらを活用されることも多いんです」
「学びのための費用ですから、形としても間違っていません」
“教育ローン”
という言葉が、そこで奇妙に現実味を与えてしまった。
勉強のため。
学びのため。
未来のため。
そう言われると、完全な借金という感じが少し薄れる。
そして何より、その場には同じように頷いている人たちがいた。
二百万という額を前にしても、誰も大声で驚かない。
むしろ、真剣な顔で“尊い機会”として受け止めている。
その空気の中で、一人だけ「おかしい」と言うのは、ひどく難しい。
⑥ サインしてしまった紙
野々村は、契約書類を差し出した。
教育ローンの申込用紙。
献金誓約書。
支払い計画書。
「もちろん、簡単な決断ではありません」
「でも、ここで出せる方は、その後の流れが大きく変わるんです」
栄子は、その時点ではまだ完全に我を失っていたわけではない。
本当は、少し怖かった。
二百万。
しかも、教育ローンの枠で。
だが同時に、東京本部まで来た自分が、ここで引いたらどうなるのかという不安もあった。
“ここまで導かれてきたのに、最後に惜しむのか”
“家族を救いたいと言いながら、ここで止まるのか”
その問いを、野々村は口には出さなかった。
でも、空気で感じさせた。
そして栄子は、そこでサインしてしまった。
二百万円の献金。
しかも、教育ローンの枠を使って。
その時は、まだ現実感が薄かった。
本当に重みが出るのは、あとからだ。
しかも最悪なのは、その新たな契約が、
クーリングオフの期間が過ぎてから判明する
という形になることだった。
⑦ まだ知らない家族
その夜の時点で、家族はまだその二百万円の契約を知らない。
圭一が把握しているのは、
壺一〇〇万円
祈祷料四〇万円
本五〇〇万円の契約
東京本部での修練会参加
ここまでだ。
それだけでも十分に重い。
だが実際には、そのさらに奥に、
教育ローンで組まれた二百万円の献金
が潜んでいる。
栄子は台所で包丁を動かしながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
さすがに、今回の二百万円は重い。
今までとは違う。
一歩間違えれば、自分でも“やりすぎた”と認めてしまいそうな金額だ。
だからこそ、今は考えないようにする。
(これも試練や)
(これだけ出したんやから、きっと流れは変わる)
(もう後戻りしたら、全部無駄になる)
そうやって、自分を保つしかない。
⑧ 実務は待ってくれない
翌日、圭一は弁護士側との面談日程を本格的に詰め始めた。
「契約書の確認だけでは足りません」
「追加契約がないか、信用情報や借入状況も視野に入れてください」
「本人が自分から言わない場合、発見が遅れることが非常に多いです」
その説明を聞いた時、圭一の胸に嫌なものが走った。
追加契約。
発見が遅れる。
まさに今の栄子は、その典型かもしれない。
香奈美も、父の横でそのメモを見ていた。
「……まだ何かあるかもしれんってこと?」
圭一は、重くうなずいた。
「その可能性は高い」
それは、二人にとって最悪の想像だった。
だが、現実はたいてい、想像したくない方向から来る。
⑨ 生活を守るための戦い
この時点で、真田家の戦いは二つに分かれていた。
一つは、栄子の心を教団から引きはがす戦い。
もう一つは、金と契約の流れを止めて、生活そのものを守る戦い。
前者は感情と信頼の問題で、
後者は証拠と手続きの問題だ。
そして厄介なのは、この二つが完全には分けられないことだった。
栄子にとって、金を止められることは“信仰を邪魔されること”に見える。
圭一にとっては、生活を守るために金を止めるしかない。
香奈美にとっては、母を傷つけたくはないが、このままでは家が壊れるのが見えている。
誰も望んでいない形で、家族は消耗していく。
その上で、まだ家族が知らない二百万円が、水面下で静かに爆発の時を待っていた。
次はかなり重要な転換として、
第二十七章 遅すぎた発見
で、
教育ローンによる二百万円献金が発覚する
クーリングオフ期間がすでに過ぎているとわかる
圭一と香奈美が強い絶望と怒りを味わう
栄子もさすがに揺れるが、それでも教団の理屈から抜けきれない




