東京から帰ってきた母
第二十五章 東京から帰ってきた母
① 帰ってきた顔
その日の夜、十九時ごろ。
金沢駅に着く新幹線から降りた栄子は、朝よりもむしろ落ち着いた顔をしていた。
疲れていないわけではない。
だが、表情の奥に妙な“整い”があった。
何か大事なものを受け取ってきた人間のような、静かで固い満足感。
東京本部での修練会は、栄子にとって決定的な時間だった。
そこで語られたこと。
教祖の言葉。
同じように“家族に理解されない苦しみ”を抱えた人たちの証言。
「あなたはここまで来られたのだから、もう後戻りしてはいけません」という励まし。
その全部が、栄子の中に“正しさ”として積み重ねられていた。
家に戻れば、また責められるかもしれない。
疑われるかもしれない。
でも、それすら
真理に近づいた者への試し
だと思えるだけの言葉を、もう十分に受け取ってきてしまっていた。
駅の改札を抜ける足取りは、むしろ以前より迷いがなかった。
だが、その背後には沢渡沙織がいた。
距離を保ったまま、金沢に戻るところまで確認している。
そして家では、圭一と香奈美が待っていた。
② 家の中で待つもの
真田家の居間には、夜なのに妙な明るさがあった。
照明のせいではない。
待っている人間たちの緊張が、空気を白く張らせているのだ。
圭一は、机の上に資料を並べていた。
* 壺の契約書
* 四柱推命・姓名判断の祈祷料契約書
* 本の契約書
* 教団歌の検索結果
* 東京本部への移動確認のメモ
* 沢渡からの報告内容
* 消費生活相談窓口と被害対策弁護団の連絡先メモ
香奈美は、それらを一枚ずつ見ながら、母が帰ってくるのを待っていた。
もう、あいまいな疑いではない。
事実がそろっている。
だからこそ、逆に苦しい。
茂之は今日は祖父母の家に預けられていた。
これ以上、あの子に見せてはいけないと圭一が判断したからだ。
そして玄関の鍵が回る音がした。
香奈美の肩が、びくりと揺れる。
圭一は、表情を動かさなかった。
「帰ってきた」
それだけを言う。
③ “整った”母
「ただいま」
栄子は、少しだけ晴れたような顔で居間へ入ってきた。
その顔を見た瞬間、香奈美はぞくりとした。
朝よりも、むしろ落ち着いている。
責められることを覚悟して荒れているわけでもない。
泣きそうでも、怯えてもいない。
何かを確信して帰ってきた顔だった。
圭一が、低く言う。
「楽しかったか」
その言葉には、皮肉も怒りも混ざっていた。
だが栄子は、それを正面から受けようとはしない。
「……気持ちは少し落ち着いた」
香奈美は、思わず言ってしまう。
「浅草で?」
栄子の目が、ぴたりと止まる。
そこで初めて、居間の空気が一段冷えた。
④ もう逃がさない
圭一は、机の上のスマホを手に取った。
そこには沢渡からのメッセージ履歴が残っている。
東京駅。中央線へ移動中。東ではなく西。
中野の建物に入った。真光の輪東京本部で間違いない。
圭一は、その画面を栄子の前に置いた。
「浅草でもスカイツリーでもなかったな」
栄子の顔色が変わる。
「……」
「東京駅から中央線に乗って、中野へ行った」
「そして《真光の輪》東京本部に入った」
「全部、確認済みや」
香奈美も、震える声で続ける。
「お母さん、うちらに嘘ついたやん」
栄子は、一瞬だけ言葉を失った。
だが次の瞬間、予想外の方向に感情が跳ねた。
「……見張っとったん?」
声が低くなる。
「そこまで、するん?」
圭一の眉が動く。
栄子は、怒りと傷つきが入り混じった顔で言う。
「家族やのに、そこまで見張るん?」
「後つけさせて、どこ行くか調べて、そんなことまでして……」
その言い方は、まるで被害者だった。
だが、まさにそこが洗脳の深いところだった。
真実を確かめるための行動すら、
“自分を追い詰める攻撃”
に見えてしまう。
香奈美は、目を見開いた。
「見張ったんじゃないやろ!」
「お母さんが嘘ついたからやん!」
「嘘なんかじゃない!」
栄子が即座に言い返す。
「うちは、ただ……」
「ただ、今の家の空気から少し離れて、心を整えたかっただけで――」
「そのために中野の教団本部か?」
圭一の声が、さらに低く落ちる。
「もう言い逃れは無理や」
⑤ 修練会で何を受け取ったのか
だが、栄子はそこで折れなかった。
むしろ、東京から戻ってきたことで、以前より“理屈”を手に入れていた。
「東京で聞いた」
「真理に近づいた人ほど、身近な人から強く引き戻されるんやって」
「理解されないのも、見張られるのも、全部それやって」
その言葉に、香奈美の背筋が寒くなる。
やはりだ。
母は修練会で、さらに強く“家族は自分を妨げる存在だ”という考えを植え込まれて帰ってきた。
圭一は、奥歯を噛みしめたまま聞いている。
栄子は続ける。
「向こうでは、うちみたいに家族に責められとる人もいっぱいおった」
「でも、みんな言うとった」
『そこで折れたら、また元の苦しみに戻るだけや』って」
その“みんな”は、真田家の誰よりも栄子の心に入り込んでいる。
そこが、いちばん苦しい。
現実の家族より、“同じように苦しんでいるとされる仲間”の言葉のほうが、今の栄子には本物に感じられてしまうのだ。
⑥ 圭一、実務へ動く
その夜、圭一はとうとう次の段階へ入った。
感情論ではなく、手続きの戦いだ。
栄子が自室へ閉じこもったあと、圭一は居間で電話をかけ始めた。
まず、消費生活相談窓口。
続いて、被害対策弁護団。
そして、ローン会社の問い合わせ先。
事情を一つずつ説明する。
「家族が宗教団体の勧誘で高額契約をしています」
「本人は被害と認識していません」
「壺のローンが百万円、祈祷料が四十万円、本の契約が五百万円規模です」
「東京本部への参加も確認済みです」
「支払い停止と契約取消の可能性を至急検討したい」
電話口の相手は、すぐに重要性を理解した。
返ってくる指示は具体的だった。
* 契約書と支払い明細の保全
* 勧誘経緯の記録
* 教団歌やメッセージの保存
* 本人が不在時に勝手な解約は難しいが、支払い先と契約内容の精査は急ぐこと
* 書面通知の準備
* 弁護士との面談日程調整
圭一は、ノートにひたすら書き込んでいく。
もう、家庭内で“わかってくれ”と言い合っている段階は終わった。
ここからは、金の流れを止めることと、法的にほどける糸をほどくことが必要になる。
⑦ 香奈美が見た母の目
そのあいだ、香奈美は階段の途中から、母の部屋の前を見ていた。
ドアは閉まっている。
でも、その向こうから、時折スマホの通知音が聞こえる。
母はまだ、向こうとつながっている。
そして何より、東京から戻ってきたあとの母の目が、香奈美には忘れられなかった。
以前のような迷いが少ない。
責められて揺れる目ではなく、
“自分は試されているだけだ”
と信じている人間の目だった。
そこには、静かな怖さがあった。
「お父さん」
香奈美が小さく呼ぶ。
圭一が電話を終え、顔を上げる。
「なんや」
「お母さん、前よりひどくなっとる」
「今日、戻ってきた顔見て思った」
「行く前より、向こうのこと信じてる」
圭一は、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く答える。
「俺もそう思う」
東京本部へ行かせてしまったことの重さが、ここで現れていた。
⑧ 被害者意識はさらに深まる
その夜、栄子は部屋の中で、教団側からのメッセージを見ていた。
今日は本当によく来られました
あれほどの妨げの中で来られたこと自体、真田さんが本物である証です
家族に見張られ、傷つけられても、それでも真理を選んだあなたは強い
その文章を読んで、栄子は涙を流した。
悲しいからではない。
理解されたと感じたからだ。
家族は、自分を信用せず、見張り、追い詰めた。
でも教団は、それを
「あなたが本物だからこそ起きたこと」
として受け止めてくれる。
被害者意識は、ここでさらに深まる。
“自分が悪いのではない”
“自分は苦しめられている側だ”
そう思えるほど、教団との結びつきは強くなる。
家族にとっては悪夢だった。
取り戻そうとした行動そのものが、母の中では
「家族から潰されかけた経験」
へと変換されてしまうのだから。
⑨ 逃がさない夜
真田家のその夜は、誰にとっても長かった。
圭一は、もう後戻りできないと理解していた。
支払い停止、契約取消、専門家介入。
これらを一つずつ進めるしかない。
香奈美は、自室の窓から夜空を見た。
星はかすんでいた。
天文部で好きだったはずの空が、今は少し遠い。
でも、科学はぶれない。
軌道も、光も、重力も、誰かの都合で意味を変えたりはしない。
だからこそ香奈美は思う。
母も、あの曖昧な“真理”ではなく、ちゃんと確かめられる現実に戻ってきてほしいと。
一方、栄子は部屋の中でスマホを握りしめたまま眠りにつけない。
家族は自分を止めようとしている。
でも向こうには居場所がある。
その二つの力に引き裂かれながら、なお栄子の心は教団側へ傾いていた。
そして圭一は、最後に居間の灯りを落とす前、机の上の書類を見て小さくつぶやいた。
「もう逃がさん」
それは、栄子に向けた言葉であり、教団に向けた言葉でもあった。




