かがやきの朝
第二十四章 かがやきの朝
① 出発の朝
東京へ向かう当日の朝、金沢駅へ向かう空はまだ薄い青のままだった。
夏の朝は早い。
真田家のまわりも、新聞配達のバイクや、通勤の車が少しずつ動き始めている。
栄子はいつもよりずっと早く起きていた。
洗面所で髪を整え、落ち着いた色の服に着替え、バッグの中身を何度も確かめる。
財布。
ハンカチ。
スマホ。
教団から送られてきた案内メッセージ。
そして、東京本部までの道順が書かれた小さな紙。
家族には、あくまで
「懸賞で当たった東京の日帰り旅行」
として話してある。
だが栄子自身、その嘘が完全に自然なものだとは思えていなかった。
胸のどこかが、落ち着かない。
それでも、もう後には引けない。
(ここで行かんかったら、全部止まる)
(ここまで来て引いたら、また家の中の曇りに戻るだけや)
そんなふうに自分へ言い聞かせながら、栄子は玄関へ向かった。
居間には、もう圭一が起きていた。
香奈美も、制服ではない私服姿で、妙に早起きしている。
茂之は眠そうな顔のまま、父の近くに座っていた。
「早いね」
栄子がそう言うと、香奈美は「暑くて起きた」とだけ答えた。
圭一は、できるだけ平静を装って言う。
「七時のかがやきやったな」
「うん」
「気ぃつけて行けよ」
その言葉に、栄子はほんの少しだけ胸がちくりとした。
責められると思っていた。
もっと止められると思っていた。
なのに、圭一は止めない。
その静かさが、逆に落ち着かない。
だが、今は深く考えないようにする。
考えれば、足が止まるからだ。
「行ってきます」
そう言って、栄子は家を出た。
② 家族の側の朝
玄関のドアが閉まったあと、しばらく誰も動かなかった。
最初に口を開いたのは香奈美だった。
「……ほんとに行った」
当然のことなのに、その言葉には重さがあった。
圭一はすぐにスマホを取り出す。
短くメッセージを送る。
今、家を出た。予定通り。
送り先は沢渡沙織。
すでに金沢駅で待機しているはずだった。
茂之が不安そうに聞く。
「お母さん、ほんとに東京行くんよね……?」
圭一は一拍置いてから答えた。
「行く。でも、どこに行くかをちゃんと確かめる」
香奈美はテーブルの上に広げていた地図アプリをもう一度見た。
金沢駅。
東京駅。
そして中野。
浅草やスカイツリーなら、東京駅から東側へ向かう。
でも中野は西だ。
方向がまるで違う。
香奈美は、理屈としてもはっきりしていた。
(もしお母さんが東京駅で東じゃなく西へ向かったら、もう完全に嘘や)
天文部で観測会に出る時、目的地と移動経路がずれていたら即座におかしいとわかる。
今、母の話もそれと同じだった。
圭一は娘の横で言う。
「沢渡が東京まで追う」
「俺たちはここで、次の手を準備する」
その“次の手”という言葉に、香奈美の顔が固くなる。
もう、ただ見守る段階ではない。
東京で中野へ向かったら、それは決定的な証拠になる。
③ 沢渡、かがやきに乗る
金沢駅のホームには、朝の独特の緊張感があった。
ビジネスマン、観光客、家族連れ。
いろんな人がいる中で、沢渡沙織は目立たないように立っていた。
私服。
小さなバッグ。
ごく普通の女性客にしか見えない。
少し離れた位置に、栄子の姿が見える。
一人で立ち、時折スマホを見ている。
誰かと待ち合わせている様子はない。
だが、その目線や立ち位置には、明らかに“行き慣れていない一人旅のわくわく感”がない。
観光に行く人間というより、
指定された予定をこなすために動いている人間
の姿だった。
かがやきがホームに滑り込む。
栄子は迷いなく指定席の車両へ向かった。
沢渡も、少し間を空けて同じ列車に乗る。
圭一から受け取っていた情報通り、栄子の席は把握済みだった。
沢渡は別車両から乗り込み、車内で位置を確認する。
栄子は窓側の席に座り、バッグを膝に置いていた。
その表情は硬い。
旅行へ行く人の軽さはなく、むしろこれから“何か大事な場”へ向かうような顔つきだった。
沢渡は少し離れた席につき、静かに追跡を始めた。
④ 東京へ向かうあいだ
列車が走り出すと、栄子はすぐにスマホを開いた。
画面には、教団側とのやり取りが並ぶ。
東京駅到着後は、中央線にて中野駅までお越しください
駅からは案内係がおります
本部での修練会は10時30分開始です
今日は真田さんにとって、大切な節目になります
栄子は、その文面を繰り返し読んだ。
家族に嘘をついている。
その後ろめたさはまだ完全には消えない。
でも同時に、
ここへ行けば、また“わかってもらえる場所”に戻れる
という気持ちも強かった。
金沢の家は、今の栄子にとって息苦しい。
何をしても疑われる。
何を言っても否定される。
自分だけが間違っているような目で見られる。
教団側は、その弱った心にぴたりとはまる言葉をくれる。
ここがあなたの居場所です。
その一言が、今も栄子を前へ進ませていた。
⑤ 金沢側での準備
一方、金沢では圭一と香奈美が家で待機しながら、次の段取りを確認していた。
圭一の前には、契約書の控え、壺のローン明細、祈祷料の書類、本の契約書コピー、教団歌の検索結果が並んでいる。
香奈美はその横で、東京駅から中野までの経路を何度も見ていた。
「東京駅から浅草行くなら、普通は銀座線とか東側の移動やろ」
「スカイツリーも押上やし」
「でも中野なら、中央線」
圭一がうなずく。
「沢渡から動きが入れば、もう言い逃れできん」
香奈美は、画面を見つめたまま言う。
「……お母さん、自分でもわかってるんかな」
圭一は答えなかった。
わかっていてやっている部分もある。
でも、わからなくされている部分もある。
その両方が絡み合っているから、簡単には戻れない。
だからこそ、今日の確認は重要だった。
家族が感情で疑っているのではなく、
事実として教団本部へ向かっている
と確定させること。
それが、次の手を打つ土台になる。
⑥ 東京駅、そして西へ
午前、かがやきは東京駅に到着した。
人波が一気に動き出す。
観光客も、ビジネスマンも、外国人旅行者も入り混じり、駅構内は慌ただしい。
沢渡は距離を取りながら栄子を追う。
栄子は一瞬、構内の案内表示を見上げた。
その時、沢渡は観察する。
もし本当に浅草やスカイツリーへ向かうなら、東方面の路線を探すはずだ。
だが栄子は迷いなく、中央線方面へ足を向けた。
そこで、もう勝負はついた。
沢渡はすぐに圭一へ短いメッセージを送る。
東京駅。中央線へ移動中。東ではなく西。
金沢の居間で、その通知を見た香奈美は、ぎゅっとスマホを握りしめた。
「やっぱり……」
圭一の表情も、さらに固くなる。
浅草ではない。
スカイツリーでもない。
東京観光という話は、この時点で完全に崩れた。
⑦ 中野へ向かう母
中央線の車内で、栄子は座ることなくつり革を握っていた。
東京駅から中野へ。
観光客が乗るには、どこか事務的すぎる移動だ。
だが栄子はその違和感をなるべく考えないようにしていた。
(これは必要なこと)
(今日の修練会は、家族を救うための節目)
(ここで引いたら、また全部戻ってしまう)
中野駅で降りると、教団側が送ってきた案内通り、北口方面へ向かう。
駅前の雑踏を抜け、少し歩いた先。
住宅街と雑居ビルが混ざる一角に、目立たない建物がある。
看板は控えめ。
だが入口には、どこか“迎える準備”を感じさせる空気があった。
そこに向かって、栄子はためらいながらも歩いていく。
少し離れたところから、沢渡がその背中を追っている。
⑧ 決定的証拠
栄子は、建物の前で一度だけ立ち止まった。
東京まで来た。
嘘を重ねて来た。
ここに入れば、もう“ただの気分転換”では済まない。
それでも、教団側からのメッセージがスマホに届く。
ようこそ。お待ちしていました。
その一文が、最後の迷いを押した。
栄子は建物へ入っていく。
沢渡は、その建物名と入口、そして栄子が中へ入る瞬間を、距離を保ちながらしっかり確認した。
東京本部。
中野。
修練会。
もう、疑いではない。
沢渡はすぐに圭一へ連絡する。
中野の建物に入った。真光の輪東京本部で間違いない。
そのメッセージを見た圭一は、しばらく動かなかった。
そして、目を閉じて短く息を吐く。
香奈美も、画面をのぞき込みながら立ち尽くす。
決定的だった。
母は、懸賞旅行に行ったのではない。
教団の東京本部での修練会に、自分の意志で足を踏み入れた。
もう言い逃れの余地はない。
⑨ 次の手へ
金沢の家の中は、妙に静かだった。
茂之は意味がわからないながらも、父と姉の顔色を見て、何か大きなことが起きたと察している。
香奈美は、悔しさと怒りで目が熱くなっていた。
圭一は、スマホを置くと、机の上の書類を見た。
これでそろった。
* 壺の契約
* 祈祷料の契約
* 本の契約
* 教団歌
* 家族への虚偽説明
* そして、東京本部への実際の移動
家族が感情的に騒いでいるだけではない。
事実として、ここまで来ている。
圭一は低く言った。
「もう、次に行く」
香奈美が顔を上げる。
「次って?」
「支払いを止める手続きや、契約の取消を本格的に動く」
「それと、お母さんを一人で動かさん方法も考えんなん」
その声には、もう迷いがなかった。
東京へ行かせてしまった。
それは痛い。
けれど、決定的な証拠を取った以上、ここからは守りではなく攻めに転じるしかない。
真田家の戦いは、また次の段階に入っていく。




