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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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壊れていく日常

第二十二章 壊れていく日常


① 小さな嘘は、息をするみたいに


七月の金沢は、朝から湿気が重たかった。


台所の窓を開けても、入ってくる風はぬるく、どこか息苦しい。


真田家の中も、同じように空気が重くなっていた。


栄子はこの頃、嘘をつく時の顔を覚え始めていた。


大きな嘘ではない。


むしろ、取るに足らないような、日常のすき間に紛れる小さな嘘だ。


「仕事がちょっと長引いて」


「スーパーの人と少し話しとって」


「帰りに寄るとこあって」


全部、完全な作り話ではない。


仕事はしているし、誰かと話している時もある。


けれど、その“誰と”“どこで”“何を”の核心だけを、きれいに抜いてある。


だから嘘をついている感覚が、どんどん薄れていく。


栄子の中では、


家族に隠している


のではなく、


まだ理解できない家族を無駄に刺激しないようにしている


だけだった。


だが、そうやって嘘に理由を与え続けるうちに、本当のことを言わないのが当たり前になる。


それはもう、かなり危険なところまで来ていた。


② 会話が減っていく家


家の中の会話は、前よりずっと少なくなった。


以前の真田家は、派手ではなくても、ちゃんと生活の話があった。


今日は仕事が忙しかったとか。


学校でこんなことがあったとか。


スーパーで特売が出ていたとか。


茂之がまた忘れ物をしたとか。


香奈美の天文部の活動がどうだったとか。


そういう小さな話が、家族を家族にしていた。


けれど今は違う。


圭一は必要なことしか聞かない。


聞いても、栄子の返事が曖昧だからだ。


香奈美は母に対して、なるべく余計なことを話さなくなった。


何を言っても“心の乱れ”だの“流れ”だのに変換される気がして、疲れるからだ。


茂之も、最近では家で学校の話をあまりしない。


以前の母なら「それでどうしたん?」と続きを聞いてくれたのに、今はどこか上の空だったり、逆に妙に説教くさくなったりする。


結果として、食卓は静かになる。


箸の音。


味噌汁をすする音。


時々流れるテレビのニュース。


それだけで、一食が終わる日が増えていった。


家の中に人は四人いる。


それなのに、誰もちゃんとつながっていない。


③ 茂之の学校にも影が落ちる


最初に表に出たのは、茂之だった。


小学校から帰ってきた茂之は、以前より口数が減っていた。


ランドセルを置いても、すぐに自分の部屋へ行ってしまう。


リビングにいても、ぼんやりテレビを見ているだけの時間が増えた。


ある日、圭一が何気なく聞いた。


「今日、学校どうやった」


茂之は少し考えてから、ぽつりと言う。


「……別に」


その返事に、圭一は内心ではっとした。


それは、少し前まで香奈美がしていた返事そのものだった。


「何かあったんか」


茂之は、しばらく黙っていた。


そして、やがて小さく言った。


「給食の時、お腹すいて、なんかしんどくなった」


圭一の表情が変わる。


「ちゃんと食べとるやろ」


「食べとるけど……最近、夜ごはん少ないし」


その言葉は、あまりにもまっすぐだった。


しかも茂之は、続けてこう言った。


「あと、友達んちの話とか聞くと、なんか……うち、最近へんやなって思う」


圭一は返す言葉を失った。


小学生の子どもにまで、家の異常さが伝わり始めている。


それは、宗教被害がもう“思想”の問題だけではなく、生活そのものを壊している証拠だった。


④ 香奈美の学校生活にも響く


香奈美のほうも、表には出さなくても確実に削られていた。


授業中、集中が続かない。


先生の話を聞いていても、ふと家のことが頭をよぎる。


母は今ごろ何をしているのだろう。


また教団の人と連絡を取っているのではないか。


そんな考えが浮かぶたび、意識が授業から離れていく。


以前ならすぐに解けた問題も、何度も読み返さなければ頭に入らない。


先生に当てられて、一瞬返事が遅れることも増えた。


友達には気づかれていない。


だが、自分でははっきりわかっていた。


疲れている。


心がずっと休まっていない。


放課後。


香奈美は天文部の部室へ向かった。


もともと星が好きだった。


宇宙の広さを知ることも、天体写真を見ることも、望遠鏡を覗くことも好きだった。


だからこそ、ここは自分にとって落ち着ける場所だった。


はずだった。


「真田、最近少し疲れてないか?」


部活動のあと、顧問の先生が声をかけてきた。


香奈美は反射的に笑う。


「大丈夫です」


そう答える。


だが、その声は自分でも驚くほど軽かった。


先生は少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。


「無理だけはするなよ」


「はい」


香奈美は頭を下げる。


本当は大丈夫ではなかった。


食事の量が足りない。


家に帰っても気が休まらない。


母のスマホが鳴るたびに、また教団かと思ってしまう。


父は父でずっと張りつめている。


茂之も明らかに元気がない。


そんな中で、好きな星のことだけを考えていられるほど器用ではなかった。


ある日の観測会。


校舎の屋上で、部員たちは望遠鏡を準備していた。


夏の夜空は思った以上に澄んでいて、こと座のベガが強く輝いている。


香奈美は望遠鏡の横に立ち、空を見上げた。


いつもなら胸が少し軽くなる景色だった。


だが、その日は違った。


ふいに吐き気のような感覚が込み上げる。


――神様が真理に気づいた人たちを喜ばせるために創られた。


母の言葉が頭によみがえった。


香奈美は目を閉じる。


違う。


星はそんなものじゃない。


ベガも、アルタイルも、天の川も。


人間を試すために存在しているわけでも、誰かを選ぶために存在しているわけでもない。


宇宙はもっと広くて、もっと長い時間の中にある。


それを知るのが好きだった。


なのに今は違う。


好きだったものを見るたび、教団の言葉が入り込んでくる。


星を見ることまで、母の信じる世界と結び付いてしまう。


「……くそ」


思わず小さくつぶやいた。


誰にも聞こえない声だった。


悔しかった。


教団が憎いというより、大好きだったものまで奪われそうになっていることが悔しかった。


星は変わらない。


空も変わらない。


変わってしまったのは家のほうだ。


それが何より苦しかった。


⑤ 圭一、外から崩れを止めようとする


圭一は、家の中で栄子を説得するだけでは足りないと、もうはっきり理解していた。


被害対策弁護団。


消費生活相談窓口。


宗教二世や霊感商法被害を扱う相談先。


契約取消の可能性。


ローンの支払い停止。


不当勧誘の立証。


仕事の合間や夜の時間を使って、圭一はそれらを本格的に調べ始める。


電話で事情を話すたび、返ってくる言葉は一様だった。


「とにかく証拠を残してください」


「契約書、請求書、メッセージ、録音が重要です」


「本人が取り込まれている場合、即時の説得よりも、接触を減らしつつ金の流れを止めることが先です」


「支払い停止や取消が可能かどうかは、勧誘経緯の証拠次第です」


圭一はそれらを、ノートに細かく書き込んでいく。


この戦いは、感情だけでは勝てない。


怒鳴っても、泣いても、理屈だけでも足りない。


相手は、感情と理屈の両方を使ってくる。


ならばこちらも、証拠と段取りで対抗するしかない。


圭一の目つきは、この頃から少し変わっていた。


怒っているというより、“逃がさない”という目になっていく。


⑥ 栄子が持ち出した話


そんなある日の夕食後だった。


珍しく、栄子のほうから少し明るい調子で言い出した。


「そういえばね」


その声に、三人とも反射的に身構える。


栄子は、それに気づいていないふりをして続けた。


「ネットで応募した懸賞、前に出してたのあったやろ」


「あれで、東京への旅行券が当たったみたいなんよ」


圭一の眉が、わずかに動く。


「旅行券?」


「うん」


「急にメール来て、びっくりした」


香奈美は黙って母を見ていた。


“急にメール来て”。


最近、その手の言葉にはどうしても身構える。


栄子は、わざと何でもない話のように続ける。


「一人で行ってきてもいいかなと思って」


その瞬間、食卓の空気がまた固まった。


「一人で?」


圭一が低く聞き返す。


「うん。せっかくやし」


「家のこともあるし、ちょっと気分変えたほうがええかなって」


栄子の言い方は、もっともらしかった。


疲れている主婦が、たまたま当たった旅行券で一人旅。


それ自体は、ありえない話ではない。


けれど今の真田家で、その話がそのまま通るわけがない。


香奈美は、すぐに直感した。


東京。


絶対に、何かある。


教団の本部か。


特別な集まりか。


もっと深い学びか。


とにかく、ただの旅行ではない。


⑦ 嘘が増えるたび


圭一は、表情を変えずに聞いた。


「その応募、いつ出したんや」


栄子の目が、ほんのわずかに泳ぐ。


「えっと……だいぶ前やよ」


「何の懸賞や」


「……旅行サイトのやつ」


曖昧だ。


説明が薄い。


質問が増えるほど、答えが弱くなる。


香奈美はそれを見て、もうほとんど確信していた。


また嘘だ。


また、小さな嘘を重ねている。


しかも今回の嘘は、これまでより一段大きい。


家を離れる口実。


東京へ行く口実。


誰にもついて来られないようにする口実。


圭一はしばらく黙ってから言った。


「そのメール、見せてみ」


栄子の顔がこわばる。


「なんで」


「当たったんなら、確認するだけや」


「消した」


その返事が、あまりに早かった。


圭一と香奈美は、そこでほぼ同時に同じことを思う。


嘘や。


だがここで頭から嘘だと決めつければ、また栄子は殻を閉じる。


圭一はそれをわかっているから、ぐっとこらえた。


「そうか」


それだけ言って、話を切る。


けれど、その胸の内では、新しい警戒が一気に強まっていた。


⑧ 居場所を求める母


その夜、栄子は自室でスマホを握りしめながら、教団側からのメッセージを見ていた。


東京での特別学習は、真田さんにとって大きな節目になります。


いまの苦しみを越えた方だけが見える景色があります。


どうか、ここで迷わないでください。


東京への旅行券。


もちろん、本当に懸賞で当たったものではない。


教団側が“特別学習参加者向け”として手配した移動支援だった。


それでも栄子は、それを完全な嘘とは感じていない。


自分は選ばれたからこそ、その機会を与えられた。


そう思っている。


そして何より、今の家には息が詰まる。


視線。


疑い。


沈黙。


誰も自分を肯定してくれない空気。


それに比べて、教団は言う。


ここがあなたの居場所なんです。


家には居場所ないでしょう?


真理に近づく人ほど、孤独になるものです。


その言葉にすがるように、栄子はスマホを胸に抱いた。


家族が自分を取り戻そうとすればするほど、教団は“居場所”としての顔を強める。


その構図が、栄子をますます離れにくくしていた。


⑨ 壊れていく日常の先で


真田家の日常は、もう完全に壊れ始めていた。


派手な暴力もない。


家出もしていない。


警察沙汰にも、まだなっていない。


けれど、壊れている。


母は小さな嘘を重ねる。


父は証拠を集める。


娘は疲れきる。


息子は家での会話を避ける。


そこへさらに、


東京への一人旅


という新しい嘘が差し込まれた。


それは単なる旅行ではない。


家族に見えない場所で、教団とさらに深く結びつくための一歩だ。


圭一は、その危険をほとんど確信していた。


香奈美も同じだった。


そして二人は、このままでは次の段階へ行かせてしまうと、強い焦りを覚え始めていた。


観測会の帰り道。


香奈美は一人、夜空を見上げた。


星は今日も変わらず輝いている。


けれど真田家の日常は、少しずつ、確実に壊れていた。


そしてその崩れは、学校生活や天文部という香奈美の小さな世界にまで、静かに影を落とし始めていた。

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