切れない糸
第二十一章 切れない糸
① 「もう関わらない」の軽さと重さ
家族会議のあと、真田家にはしばらく妙な静けさが続いた。
あれだけのことがあったのに、月曜日は来る。
圭一は仕事へ行き、香奈美は学校へ行き、茂之もランドセルを背負って出ていく。
栄子もまた、スーパーの惣菜部門へ向かった。
日常は、何事もなかったような顔で戻ってくる。
だが、それは元に戻ったことと同じではない。
朝の食卓で、圭一が低く言った。
「……《真光の輪》とは、もう関わらんでくれ」
栄子は一瞬だけ箸を止めた。
それから、小さくうなずく。
「……わかった」
香奈美も、茂之も、その返事を聞いていた。
けれど、誰一人として安心できなかった。
“わかった”
その言葉は、表面だけなら従順だった。
だが、圭一には見えていた。
その目の奥に、まだ何かが残っていることが。
それでも、今はその言葉を受け取るしかなかった。
② 表向きは従う母
その日から数日間、栄子は目立った外出を控えた。
教団歌も歌わない。
妙な言い回しも少し減る。
夕食時の空気も、あの夜よりはましになった。
香奈美は、それが逆に不気味だった。
前までなら、もっと反発すると思っていた。
「うちは間違ってない」と言い張って、また教団へ行こうとすると思っていた。
なのに、栄子は意外なほど静かだった。
「お母さん、今日まっすぐ帰ってきたんやね」
そう言うと、
「うん。仕事終わって、そのまま」
とだけ返す。
それだけ聞けば、何も問題はないように見える。
だが香奈美は、母のその静けさに、どこか“閉じた感じ”を覚えた。
怒っていない。
でも、心を開いているわけでもない。
“従っている”のではなく、
“内側へ引っ込んでいる”
ような感覚だった。
③ 教団から届く声
栄子のスマホには、そのあいだも教団側からメッセージが入り続けていた。
最初は控えめだった。
無理なさらないでくださいね
いまは心が揺れて当然です
神様は、真田さんの苦しみもちゃんと見ておられます
それが数日経つと、少しずつ色が変わる。
家族に囲まれて、苦しかったですね
真理に触れた方ほど、身近な人に否定されるものです
でも、あなたは間違っていません
栄子は、仕事の休憩中、バックヤードの隅でその文面を見つめていた。
否定されていない。
責められていない。
むしろ“苦しかったですね”と先に言われる。
それだけで、胸の奥の張りつめたものが少しほどける。
家では、誰もそんなふうには言わなかった。
圭一も、香奈美も、祖父母たちも、正論ばかりだった。
間違っている。
やめなさい。
おかしい。
騙されている。
それは正しいのかもしれない。
でも、今の栄子の心が欲しがっているのは、正しさよりも先に
“わかってもらえる感じ”
だった。
教団はそこを、絶対に外さなかった。
④ 「ここがあなたの居場所なんだから」
ある日の夕方、栄子のスマホに藤代美和から直接電話が入った。
家では出られない。
だから、スーパーからの帰り道、人通りの少ない場所で立ち止まり、栄子はそっと通話ボタンを押した。
「……もしもし」
藤代の声は、相変わらず穏やかだった。
「真田さん、大丈夫ですか」
その一言だけで、栄子は泣きそうになった。
「……大丈夫、やない」
「そうですよね」
「家で、ずっと責められとるみたいで」
「みんな、うちが全部おかしいみたいに言うし」
藤代は、少し間を置いてから言った。
「真田さん」
「ここが、あなたの居場所なんだから」
栄子は足を止めたまま、息をのんだ。
「家には、いま居場所ないでしょう?」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
栄子はすぐには否定できなかった。
たしかに今の家では、どこに座っても気まずい。
食卓にいても視線を感じる。
黙っていれば不自然で、何か言えば警戒される。
圭一は慎重に見ている。
香奈美は明らかに距離を取っている。
茂之は怯えたような目でこちらを見る。
前のような居心地のいい家では、もうない。
その弱ったところに、藤代の声が入り込む。
「真田さんが落ち着いていられる場所は、ちゃんとあります」
「ここでは誰も、あなたを潰そうとしない」
「あなたがどれだけ家族を思って苦しんできたか、みんなわかっています」
“潰そうとしない”
その言葉に、栄子の胸の奥にあった暗い感情が、すっと名前を持った。
ああ、自分は、あの家族会議で潰されそうになったのだ。
そう感じていたのだ。
藤代は続ける。
「今は無理に来なくてもいいです」
「でも、つながりだけは切らないでください」
「ここは、真田さんが戻ってこれる場所ですから」
そのやさしさが、何より危険だった。
⑤ 口では切る、心では切れない
その夜、栄子は家に帰ってきても、何事もなかったような顔をしていた。
「今日、遅かったな」
圭一が言うと、
「仕事がちょっと長引いて」
と答える。
それも嘘ではない。
仕事のあと、少しだけ電話をしただけだ。
だが、その“少しだけ”が、すでに大きな裏切りだった。
口ではもう関わらないと言いながら、
裏では関わり続けている。
しかも栄子の中では、それは“裏切り”ではなかった。
本当に苦しい時に支えてくれる相手と、
完全に関係を断てるわけがない。
そう思っていたからだ。
家族はわかってくれない。
教団はわかってくれる。
そういう構図を一度受け入れてしまうと、
関係を断つことは、自分の居場所を失うことと同じになってしまう。
だから栄子は切れない。
切りたいのではなく、そもそも切るべき関係だと思えていないのだ。
⑥ 圭一、外に助けを求める
一方で圭一は、もう家の中だけで対処する段階ではないと見切っていた。
勤務の合間を縫って、宗教被害や霊感商法の相談を受けている窓口を調べ、被害対策弁護団にも連絡を入れ始める。
電話口で事情を説明するたび、圭一は何度も同じ言葉を口にした。
「本人はまだ、自分が被害に遭っている自覚がありません」
「むしろ、家族を救うためだと信じています」
「高額な契約もしていて、すでに家計に影響が出ています」
返ってくる答えは、どれも重かった。
「その段階は典型的です」
「今すぐ説得で変わるとは限りません」
「孤立させないことが大事です」
「教団との接触をどう減らすか、支払いをどう止めるか、並行して考える必要があります」
圭一はメモを取りながら、唇を引き結ぶ。
典型的。
典型的であることが、逆に恐ろしかった。
つまり、自分の家に起きていることは、特別な不幸ではなく、
すでに何度も繰り返されてきた“被害の型”なのだ。
それでも、型だとわかったから救えるほど簡単ではない。
そこがいちばんきつかった。
⑦ 香奈美は見抜く
香奈美もまた、母の変化を細かく見ていた。
表向きは落ち着いている。
でも、スマホを握る時間が増えた。
通知が来るたび、画面を伏せる。
家族の前では何も言わないくせに、一人になると表情がふっと変わる。
ある夜、居間で向かい合ってテレビを見ていた時だった。
栄子のスマホが震えた。
画面が一瞬だけ見える。
ここはあなたの居場所です
その文字を、香奈美は見逃さなかった。
背中がぞくりとした。
もう関わっていないなんて、嘘だ。
お母さんはまだ、向こうとつながっている。
その瞬間、香奈美の中で、母への怒りと哀しみがまた膨らんだ。
でも今は、すぐに言わない。
圭一に伝える。
そう決めていた。
⑧ 家の中に残る断絶
その夜、香奈美は父に伝えた。
「やっぱり、まだ切れてない」
「スマホに“ここはあなたの居場所です”って来とった」
圭一は目を閉じ、数秒黙った。
「そうか」
驚きはなかった。
むしろ、やはりそうだったかという確認に近い。
香奈美は、悔しそうに言う。
「何で切れんのやろ」
「うちら、こんだけ言ってるのに」
圭一はすぐには答えなかった。
やがて、低く言う。
「向こうは、ただ金取るだけやない」
「“わかってくれる場所”として入り込んどる」
「そこを奪われたままやと、簡単には切れん」
香奈美は唇をかんだ。
それがいちばん厄介だった。
お母さんは、騙されているだけじゃない。
本当に“救われた気がした”のだ。
だからこそ、家族の正論だけでは引き戻せない。
⑨ 長くなる戦い
表向き、栄子は従っている。
教団にはもう行かない。
そう言っている。
家でも大人しくしている。
少なくとも外から見れば、問題は少し落ち着いたように見えるかもしれない。
だが実際には違う。
心の中では、まだ教団とつながっている。
スマホの向こうで、優しい言葉が栄子を引き留め続ける。
「家には居場所ないでしょう」
「ここがあなたの居場所なんです」
そう言われるたびに、切れかけた糸がまた結び直される。
圭一は、外の専門家とつながり始めた。
香奈美は、母の動きを見逃さないようにしている。
茂之はまだ全部は理解しきれないまま、それでも家の空気の悪さに小さくなっている。
誰ももう、“少し変だ”とは思っていない。
完全に異常事態だとわかっている。
それでも、すぐには終わらない。
宗教被害の本当の恐ろしさは、
証拠を突きつけても、
数字を見せても、
本人の心の中の“居場所”まで一緒には消えないことだった。
真田家の戦いは、まだ始まったばかりだった。




