家に連れ戻したそのあと
第二十章 家に連れ戻したそのあと
① 戻っただけで、戻っていない
その日、栄子は結局、家族に囲まれるようにして真田家へ戻った。
教団の建物の前では、最後まで
「少しだけ話を聞いてもらえば……」
「今日は大事な学びが……」
と口にしていたが、圭一も両家の親たちも、一歩も引かなかった。
家に着いてからも、栄子はすぐに自室へ入ろうとした。
だが、今日はそれを許してはいけないと、圭一は判断していた。
「逃げるな」
その一言で、栄子の肩がぴくりと揺れる。
「逃げとらん」
「なら、ここで話せ」
居間にはもう、全員が揃っていた。
圭一。
香奈美。
茂之。
栄子の父と母。
圭一の父と母。
そして、少し遅れて圭一に同行してきた沢渡沙織もいた。
沢渡は制服ではなく私服だった。
今日は警察として“介入”するためではない。
圭一から事情を聞き、宗教被害の実態を知る者として同席している。
それでも、その場の空気は重かった。
栄子は戻ってきた。
だが、心までは戻っていない。
そのことを、居間にいる全員が感じていた。
② 鳴り続けるスマホ
栄子のスマホが、テーブルの上で震えた。
画面に表示された名前を見て、香奈美が息をのむ。
藤代美和
栄子はすぐに手を伸ばそうとしたが、圭一が先にスマホを裏返した。
「今日は出んでいい」
「返して」
「今はあかん」
また震える。
今度はメッセージの通知。
大丈夫ですか
今がいちばん大事な時です
家族に揺さぶられても、どうか真理を忘れないでください
香奈美が、その文面を見て顔をしかめた。
「ほら……」
茂之も不安そうにスマホを見る。
さらに、別の名前からも着信が入る。
篠宮礼子
室井聖子
短時間のうちに何件もだ。
圭一の父が、低くつぶやく。
「向こうも、今日は必死やな」
沢渡は静かに言った。
「典型的です」
「引き離されそうになった時ほど、一斉に連絡を入れてきます」
「“今ここで離れたら危ない”って不安を煽るためです」
栄子は、その説明に反発するように顔を上げた。
「違う」
「心配してくれとるだけや」
沢渡は栄子をまっすぐ見た。
「そう思わせるのが、うまいんです」
その言葉に、栄子の表情が一気に険しくなる。
③ 家族会議の始まり
圭一は、深く息を吸ってから言った。
「今日、ここに全員集まってもろうたのは、もう家族だけで抱えられる段階を越えたからや」
栄子の母が、涙をこらえる声で続ける。
「栄子……あんた、何でこんなことに」
「お母さん、まさかあんたがこんなもんに引っかかるなんて思わんかった」
「引っかかっとらん」
栄子は即座に返した。
「うちはちゃんと考えて行っとる」
「家族のために必要やと思ったから――」
「百万円の壺が必要なんか!」
今度は栄子の父が、怒りを押し殺せずに声を荒げた。
「四十万円の祈祷料が必要なんか!」
「五百万の本が必要なんか!」
「そんなもん、どう考えてもおかしいやろ!」
栄子は、視線をそらさなかった。
「高いとか安いとか、そういう話やない」
「家族を救うために――」
「またそれや」
香奈美が、低く言う。
泣き叫ぶのでもなく、怒鳴るのでもなく、むしろ冷えた声だった。
「“家族のため”って言えば、何してもええわけじゃないやろ」
「うちら、誰も頼んでない」
「そんな壺も、祈祷も、本も、いらん」
その言葉は、栄子の胸に刺さったはずだった。
けれど、教団の理屈はそれすら防いでしまう。
(まだわからんだけ)
(救われる側は、最初は自分で気づけんのや)
栄子の中で、そういう声がまた立ち上がる。
④ 栄子は“潰される側”になる
話が進むほど、栄子の中には別の感情が膨らんでいった。
怒られている。
責められている。
囲まれている。
否定されている。
目の前には、夫も、娘も、息子も、両方の親もいる。
全員が自分を見ている。
逃げ場がない。
その圧迫感の中で、栄子はふいに思ってしまう。
(みんなで、うちを潰そうとしとる)
それは理屈ではなく、感情だった。
今までは、教団の人たちだけが
「真田さんは頑張ってる」
「それでいいんです」
と言ってくれた。
家族は、今日に限っては全員でこちらを責める。
その構図が、栄子の中では
“自分一人 対 みんな”
に見えてしまう。
そして、そう感じた瞬間、教団側の言葉がまた力を持ち始める。
理解されないのは、真理に近づいている証拠
近い人ほど、あなたを引き戻そうとする
そこが試練です
圧倒されればされるほど、逆に教団の言葉が本物に思えてしまう。
それが洗脳の恐ろしいところだった。
⑤ 沢渡が見せた現実
そこで圭一は、沢渡に視線を送った。
沢渡は静かにうなずき、持ってきたファイルをテーブルの上に置いた。
「真田さん」
呼ばれても、栄子はすぐには見なかった。
だが沢渡の声は、責めるものではなく、ひどく落ち着いていた。
「私は今日、警察官として来たわけじゃありません」
「でも、実際に相談を受けてきた立場として、あなたに見てほしいものがあります」
栄子が、ゆっくりと顔を上げる。
沢渡はファイルを開いた。
そこには、被害対策弁護団に寄せられた相談事例や、実際の被害概要をまとめた資料があった。
個人情報は伏せられている。
だが、その内容はあまりにも重かった。
「これは、数千万円を搾取された家族の事例です」
「最初はやはり、相談会や学びの場から始まっています」
「家族を救いたいという思いにつけこまれて、気づいた時には家も預金も失っていた」
栄子の目が、資料の文字を追う。
沢渡は次のページをめくる。
「これは、お金が払いきれなくなって、自殺に至った方の事例です」
「本人は最後まで、“家族のためだった”と言い続けていたと記録にあります」
居間の空気が、さらに重くなる。
茂之は意味を全部理解していないかもしれない。
でも、“自殺”という言葉の重さは伝わったようで、父の腕にしがみついた。
沢渡はさらに続ける。
「これは、一家が離散してしまった家族です」
「夫婦が離婚し、子どもたちも親族に引き取られました」
「こちらは、洗脳が解けずに、今も苦しんでいる元信者の証言です」
ページをめくるたび、そこには全国各地の深刻な被害が並んでいた。
数千万円の献金。
家の売却。
借金。
離婚。
家庭崩壊。
自殺未遂。
親族との絶縁。
教団から抜けた後も残る強い罪悪感と依存。
沢渡は、栄子から目を離さず言った。
「日本全国で、こういう深刻な被害が起きています」
「“自分だけは違う”と思っていた人たちが、みんな同じように引き込まれていったんです」
⑥ 栄子の中の揺れ
資料を見せられた栄子の顔には、はっきりと動揺が出ていた。
数千万円。
自殺。
離婚。
一家離散。
さすがに、そこまでひどい話になると、無視できない。
壺や祈祷、本の契約をした自分の行動が、その線の上にあるように見えてしまう瞬間が、たしかにあった。
「……でも」
栄子は、乾いた声で言った。
「でも、うちが行っとるところは、そんなのと違う」
沢渡は即座に返さなかった。
その沈黙が、かえって重かった。
栄子は続ける。
「みんな優しいし」
「無理やりじゃないし」
「うちは自分で考えて決めたし」
「家族を救うために必要やって……」
その“でも”は、栄子がまだ完全には現実を受け止めきれていない証拠だった。
資料は見た。
怖さも感じた。
でも、その瞬間に今まで信じていたものを全部捨てるほどには、まだ心が戻っていない。
むしろ逆に、ここまでのめり込んだ自分を守るために、
「自分のケースは違う」
と思わなければ立っていられない。
人は、自分が大きく間違っていたと認めるより、
“自分だけは例外だ”
と信じるほうが楽な時がある。
栄子は、まさにその境目にいた。
⑦ 両親たちの言葉
栄子の母が、声を震わせながら言った。
「栄子……お願いやけん、もうやめて」
「そんなもんに、これ以上お金も心も持ってかれたらだめや」
圭一の母も、涙ぐみながら続ける。
「家族を救いたいって気持ちはわかる」
「でも、救うどころか、家族がもう壊れかけとるやろ」
栄子の父は、目を赤くしながらも厳しい声で言う。
「お前、親にも黙って、夫にも黙って、こんな契約して」
「それのどこが正しい道や」
「ほんとに救いなら、家族に隠す必要なんかないやろうが」
その言葉に、栄子は口を閉ざした。
“家族に隠す必要なんかない”
その一点は、どこかで自分も感じていた。
だからこそ苦しかった。
圭一の父も、低く言った。
「優しい顔した相手ほど、よう見んなん」
「本気で人を救う相手は、家族から引き離したりせん」
居間の中に、沈黙が落ちた。
⑧ それでも折れない母
だが、最後の最後で、栄子は首を振った。
小さく。
けれど、はっきりと。
「……うちは、まだ全部間違いやとは思えん」
香奈美が、息を詰める。
栄子は涙をこぼしながら続けた。
「確かに、ひどい被害があるのかもしれん」
「でも、うちが感じたものまで全部嘘やったとは、まだ思えん」
「星を見た時のことも、あそこで救われた気持ちになったことも、みんなが優しくしてくれたことも……」
その言葉は、本音だった。
だから厄介だった。
騙されていたとしても、
そこで感じた“救われた気持ち”までが偽物だったとは、本人にはすぐ言えない。
そこには本物の感情があったからだ。
その感情に寄生する形で、教団は入り込んでいた。
栄子は涙をぬぐいながら、弱く言った。
「みんなで、うちを否定せんでよ……」
そのひと言に、香奈美は胸を押さえた。
否定したいわけじゃない。
取り戻したいだけなのに。
でも、今の母にはその違いが届かない。
⑨ 長い戦いの始まり
その日の家族会議で、栄子は完全には折れなかった。
だが、一つだけ変わったことがある。
もう家族は、
「なんとなく変だ」
という段階には戻れない。
目の前にあるのは、はっきりした宗教被害の構図だった。
高額契約。
家計破綻の兆し。
教団からの執拗な連絡。
教団歌。
そして、被害対策弁護団に寄せられた日本全国の深刻な実例。
沢渡が見せた資料は、少なくとも圭一と香奈美にとって、戦うべき相手の正体を完全に示した。
一方で栄子は、まだ揺れている。
完全に目覚めてもいない。
完全に教団を捨ててもいない。
それはつまり、
ここからが本当の戦い
だということだった。
家に連れ戻した。
証拠も見せた。
被害の実態も突きつけた。
それでも、まだ母の心の中には《真光の輪》が居座っている。
真田家の戦いは、この夜からようやく始まったのだった。




