崩れ始めた食卓
第十八章 崩れはじめた食卓
① 送られてきた段ボール
七月に入った金沢は、じっとりとした暑さに包まれていた。
その日の午後、真田家の玄関先に大きな段ボール箱が届いた。
送り状には、聞き慣れない発送元の名前。
けれど圭一は、その箱を見た瞬間に嫌な予感がした。
帰宅していた香奈美も、玄関に置かれたそれを見て足を止める。
「……何これ」
箱は一つではなかった。
細長く厚みのあるものが、十冊分とわかるようにきれいに分けられている。
重さもある。
そこへ、買い物袋を提げた栄子が帰ってきた。
段ボールを見た瞬間、その顔にわずかな緊張と、隠しきれない高揚が走る。
圭一はその表情を見逃さなかった。
「これ、何や」
低く問うと、栄子は数秒黙った。
けれど、もう隠し通せないと悟ったのか、小さく言った。
「……本やよ」
香奈美が、すぐに察する。
「まさか」
圭一が一歩前に出た。
「契約したんか」
栄子は答えない。
それが答えだった。
圭一は、その場で箱の送り状をつかんだ。
そこには、はっきりと書かれている。
人生真道全十巻
あの五百万円の本だった。
② 爆発する食卓
その夜、真田家の食卓は、もう食卓の形を保てなかった。
ご飯は並んでいる。
味噌汁もある。
だが、誰もまともに箸を動かせない。
圭一はテーブルの上に契約書の控えと本の納品書を置いた。
「これは何や」
栄子は、まっすぐには見返せなかった。
だが、逃げるようにも見えまいとして、硬い声で言う。
「だから、本やって」
「五百万やぞ」
圭一の声が、低く押し殺される。
「百万円の壺に四十万円の祈祷料の時点で十分おかしいのに、その上これか」
「何考えとるんや」
栄子も負けじと顔を上げた。
「何も考えてないわけやない!」
「ちゃんと必要やと思って決めたんや!」
香奈美が、もう我慢できずに口をはさむ。
「必要って何」
「五百万の本が、何で必要なん」
「お母さん、もうおかしいって!」
その“おかしい”の一言で、栄子の表情が一気にこわばった。
「おかしくない!」
声が、これまででいちばん大きくなる。
「これは救いの道なんやよ!」
「この本を読んで、どれだけの人が救われたか、あんたたち知らんやろ!」
「生き方が変わった人も、家庭が立ち直った人も、ようけおるんや!」
圭一が机を叩きそうになるのを、ぎりぎりでこらえる。
「それを五百万で売りつけるのがまともやと思うんか!」
「高いと思うかどうかは、その人次第やって――」
「そこや!」
圭一がついに声を荒げた。
「その時点で感覚おかしなっとるんや!」
「五百万が高いかどうかは人それぞれ? そんな理屈あるか!」
栄子の肩が震える。
だが、その震えは怯えではなく、むしろ“理解されない者の怒り”に近かった。
「うちは家族を救いたくてやっとるんや!」
「この家、ずっとおかしかったやろ!」
「香奈美は反発して、圭一さんは何もわかってくれんで、空気もずっと重たかった!」
「それを変えるために必要やったんや!」
その言葉に、香奈美は完全に頭に血が上った。
「その“空気”を悪くしとるの、お母さんやん!」
しん、と一瞬静まり返る。
その時だった。
今まで黙っていた茂之が、箸を置いて言った。
「……もうやめてよ」
声は小さい。
でも、はっきり聞こえた。
全員が、茂之を見る。
③ 茂之も理解する
茂之の目は、うっすら赤くなっていた。
「最近、ずっと変やん」
その言葉に、栄子が息をのむ。
「ご飯も少なくなったし」
「お母さん、変なことばっかり言うし」
「お父さんもお姉ちゃんも、ずっと怖い顔しとるし」
茂之は、子どもらしい言葉のまま続けた。
「前みたいに、普通にご飯食べたい」
「なんでこんなことになっとるん」
その言葉は、理屈ではなかった。
だからこそ、まっすぐ刺さった。
栄子の顔に、一瞬だけ迷いがよぎる。
だが、それもすぐに別の言葉で覆われる。
「茂之、これは今だけなんやよ」
「いま試練が出とるだけで――」
「またそれ!」
香奈美が叫ぶ。
「何でも試練、何でも浄化、何でも曇り!」
「うちらの言葉、全然聞いてないやん!」
茂之も、ぽろぽろ泣き始めていた。
圭一はその様子を見て、ついに腹をくくる。
このまま家族だけで話していても、もう埒が明かない。
栄子は、こちらの言葉を全部《真光の輪》の理屈で処理してしまう。
家庭の食卓は、この夜、決定的に壊れた。
ご飯の量が減ったとか、会話が減ったとか、そういう段階ではない。
もう、“同じ現実”を見ていない家族になってしまっていた。
④ 圭一の決断
その夜遅く。
栄子は結局、自室に閉じこもるようにして寝室へ入った。
泣いていたのか、怒っていたのか、もう圭一にも判別がつかなかった。
香奈美と茂之は、居間に残ったままだった。
茂之はまだ鼻をすすっている。
香奈美も目が赤い。
圭一は二人の前で、静かに言った。
「もう家族だけじゃ無理や」
香奈美が顔を上げる。
「どうするん」
「まず、両方の親に来てもらう」
「おじいちゃんたち?」
「そうや」
「もう俺一人の判断や、香奈美と二人だけで抱える話やない」
「家族みんなで止めんなん段階に来とる」
香奈美は強くうなずいた。
茂之は不安そうに父を見る。
「お母さん、戻るんよね……?」
その問いに、圭一は即答できなかった。
だが、最後にははっきり言った。
「戻す」
「絶対に、ここで終わらせん」
その言葉は、自分自身にも言い聞かせるようだった。
⑤ 両親たちへの連絡
翌日から圭一は動いた。
まず、栄子の両親へ。
そして自分の両親へ。
電話口で、圭一はできるだけ冷静に事情を伝えた。
「今度の日曜日、来てもらえませんか」
「栄子のことで、どうしても話さなあかんことがあります」
相手は最初、ただごとではない声色に驚いた。
だが、詳しく聞くうちに、言葉を失っていった。
宗教団体。
高額契約。
食費が削られる家。
家族との断絶。
栄子の父は、電話の向こうで長く黙ったあと、低い声で言った。
「……行く」
「そんなもん、放っとけるわけない」
圭一の父も、静かに答えた。
「わかった」
「日曜、朝から行く」
電話を切ったあと、圭一はしばらく机に手をついていた。
家のことを親たちに頼るのは、悔しさもある。
だがもう、そういう感情を優先している場合ではなかった。
⑥ 先回りの計画
同時に、圭一はもう一つ、別の動きを準備していた。
日曜。
栄子が《真光の輪》へ向かう時間を見計らって、家族と両親たちを先に合流させる。
そして、そのあいだに栄子が教団の建物へ入るのを少しでも止める。
そのために、圭一は勤務先で沢渡沙織に声をかけた。
「沢渡、ちょっと頼みたいことがある」
沢渡は、圭一の顔を見てすぐにただごとではないと察した。
圭一は、周囲に聞かれないように声を落とした。
「日曜、俺の家内が《真光の輪》の建物に入る前に、少しの間だけ呼び止めてほしい」
沢渡が目を細める。
「直接止めるんじゃなくて?」
「今はまだ、警察として動ける段階やない」
「でも、時間が欲しい」
「家族を集めるあいだ、数分でも、建物の中に入らせたくない」
沢渡はすぐに理解したようだった。
「わかりました」
「じゃあ、道に迷った女性を演じます」
圭一がうなずく。
沢渡は、少し考えてからシナリオを口にした。
「“金沢駅に向かうには、どう行ったらいいですか”って聞きます」
“「不慣れなものですから、一緒に案内してもらえたら助かります」って”
「それなら、少なくとも数分は引き止められる」
圭一は短く「頼む」と言った。
その一言に、父としての切迫と、警察官としての限界がにじんでいた。
⑦ 日曜を待つ家
日曜までの数日、真田家の空気はさらに重くなった。
栄子は、家族が自分を止めようとしている気配を感じていた。
だからこそ、逆に教団への思いを強くした。
(ここでぶれたらあかん)
(試練が強くなっとるだけや)
(もう少しで流れが変わるのに)
圭一は、平静を装いながら日曜の準備を進める。
香奈美は、母がまた教団歌を口ずさむたびに、気持ち悪さを押し殺す。
茂之は、その歌が流れると黙って自分の部屋へ逃げるようになった。
外から見れば、ただの家族の不和かもしれない。
だがその実態は、もっと深い。
教団が持ち込んだ言葉と金と価値観が、
家族の真ん中を静かに引き裂いていた。
そして日曜。
真田家はついに、正面から《真光の輪》に向き合わざるを得ないところまで来ていた。
⑧ 静かな決戦の前夜
その前夜。
圭一は居間で一人、薄暗い明かりの中に座っていた。
机の上には、
* 壺の契約書
* 四柱推命・姓名判断の祈祷料契約書
* 本の契約書
* 教団歌を示す検索結果のメモ
が並んでいる。
ここまでそろっても、まだ苦しい。
証拠があるほど、栄子が深く入り込んでいる現実もまた、はっきりするからだ。
香奈美がそっと近づいてきて言う。
「明日……止められるかな」
圭一はしばらく黙っていた。
それから、静かに答える。
「止める」
「ここで止めんと、もっと取り返しつかんくなる」
香奈美は、父の横顔を見ながらうなずいた。
その目には、怒りも悲しみもあった。
でもいちばん強いのは、母をこのまま奪われたくないという気持ちだった。
日曜の朝が、すぐそこまで来ていた。




