封筒の中身
第十七章 封筒の中身
① 見えてしまった紙
六月の終わり、金沢には重たい雲が低く垂れこめていた。
その夜、栄子は珍しく早めに風呂へ入っていた。
食卓の片づけを終えた居間には、テレビの小さな音と、換気扇の低い回転音だけが残っている。
圭一は、テーブルの上に置かれた栄子のバッグを見た。
いつもなら、意識して見ないようにしていた。
だが、今日はバッグの口から白い大きめの封筒が半分ほどのぞいていた。
隠そうとしているわけではない。
むしろ、疲れと気の緩みで入れっぱなしにしてしまったのだろう。
圭一はしばらく動かなかった。
見れば、もう後戻りはできない。
だが、見なければ家族を守れない。
浴室から水の音が続いているのを確認して、圭一は静かに封筒を引き出した。
中には、何枚もの書類が入っていた。
ローン契約申込書。
分割支払明細。
祈祷料契約書。
商品説明の紙。
一枚目を見た瞬間、圭一の呼吸が止まりかけた。
浄流の壺 契約金額 1,000,000円
その下に、
申込者 真田栄子
という文字があった。
圭一の手がわずかに震える。
さらに別の書類をめくる。
四柱推命祈祷料 200,000円
姓名判断祈祷料 200,000円
合計、四十万円。
圭一はその場で声を上げそうになるのを、かろうじて飲み込んだ。
壺が百万円。
祈祷料が四十万円。
予想はしていた。
だが、現物の数字として目の前に出されると、想像以上に重かった。
② さらに深い底
圭一はそこで終わらなかった。
封筒の中には、まだ別のパンフレットと申込用紙があった。
厚めの上質紙に印刷された、いかにも高級感を演出した案内だった。
タイトルにはこうある。
教祖御著作全集
人生真道全十巻
その下には、丁寧な文体で説明が添えられていた。
総額 5,000,000円
圭一は思わず目を疑った。
五百万。
桁が違う。
パンフレットには、いかにも落ち着いた言葉でこう書かれている。
高額だと思うかどうかは、あなた次第です。
しかし、この本を読んで、多くの方が救われたのです。
人生の生き方の道しるべになった、という声が数多く寄せられています。
その文言の気味悪さに、圭一の背筋が冷たくなる。
値段の感覚を狂わせるための言い回し。
高額であることを認めつつ、それを“悟りの深さ”の問題にすり替えている。
そしてその申込書の欄には、まだ署名はなかった。
だが、紙の端に栄子の筆跡で小さくメモが残っていた。
分割相談可
次回、詳しく聞く
圭一はその文字を見た瞬間、胃の奥が重く沈んだ。
まだ五百万の契約には至っていない。
だが、栄子はもう、その入口に立っている。
③ 父の顔色を見た娘
その時、廊下のきしむ音がした。
圭一は反射的に書類を封筒へ戻そうとしたが、入ってきたのは香奈美だった。
おそらく水を飲みに降りてきたのだろう。
だが、父の顔色を見た瞬間、ただごとではないとわかった。
「お父さん……?」
圭一は数秒迷った。
見せるべきか、まだ伏せるべきか。
だが、ここまで来たらもう一人で抱える段階ではない。
「香奈美、こっち来い」
声は低く、固かった。
香奈美が近づく。
圭一は封筒の中から、壺と祈祷料の契約書だけを抜き出して見せた。
香奈美は最初、意味がわからないような顔をした。
そして数字を追った瞬間、顔色が変わる。
「……え」
もう一度見る。
桁を見直す。
名前を見る。
「百……万?」
「四十万……?」
かすれた声が、そこで止まった。
「お母さんが?」
圭一はうなずくしかなかった。
香奈美の目に、はっきりとショックが走る。
宗教っぽい。
変な言葉を使う。
おかしい。
そこまでは思っていた。
でも、まさか本当に、こんな金額まで動かしているとは思っていなかった。
「うそやろ……」
香奈美は、その場に座り込みそうになるのをこらえてテーブルに手をついた。
「壺って何なん」
「四柱推命とか姓名判断に四十万って、意味わからん」
「こんなん詐欺やん」
圭一は黙っていた。
否定できる要素が、もうなかった。
④ 栄子、見つかる
だが、その時間は長く続かなかった。
浴室の音が止み、栄子がタオルで髪を拭きながら居間へ戻ってきたのだ。
そして、圭一と香奈美の前に広げられた書類を見た瞬間、顔色が変わった。
「……何しとるん」
静かな声だった。
けれど、その静けさの中に、これまでにない緊張があった。
圭一は書類から目を離さず言う。
「こっちが聞きたい」
「これは何や」
栄子はすぐには答えなかった。
濡れた髪のまま、その場に立ち尽くす。
香奈美が先に声を上げた。
「お母さん、百万円って何なん!」
「四十万も払う契約してるやん!」
「壺って何! 祈祷料って何なん!」
その勢いに、栄子は一瞬ひるんだ。
だが次の瞬間には、逆に顔を強ばらせて言った。
「勝手に見たん?」
圭一の眉が動く。
「そこか、今」
「人のもん、勝手に見るなんて」
「そんな話しとる場合か」
圭一の声が低く落ちた。
それでも栄子は、一歩も引かなかった。
⑤ 「家族を救うために必要だった」
数秒の沈黙のあと、栄子は絞り出すように言った。
「……家族を救うために必要だったんやよ」
香奈美が、信じられないものを見る目で母を見た。
「何言っとるん」
「必要やったん」
「この家の流れを整えんなんかった」
「うちら家族には、見えんとこに重たい滞りがあって……そのままにしとったら、もっと悪いことになるって言われたんや」
圭一が、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「誰にや」
「それは……」
「《真光の輪》か」
その団体名が出た瞬間、栄子の目が揺れた。
香奈美も息をのむ。
やはり、だった。
栄子は数秒黙り込んでから、諦めたように口を開いた。
「……そうやよ」
それが、初めて栄子の口から教団名がはっきり出た瞬間だった。
「でも、変なとこじゃない」
「みんな真剣に、人を救いたいと思ってる」
「うちも、家族を救うために――」
「壺で?」
香奈美の声が震える。
「姓名判断で?」
「四柱推命で?」
「そんなもんで、うちら救われるって本気で思っとるん?」
栄子は真正面から娘を見た。
その目は、悲しみと、怒りと、しかしどこか“教えを守る硬さ”が入り混じっていた。
「本気で思っとる」
「今の家の空気、普通やないやろ」
「香奈美も、お父さんも、ずっと荒れとる」
「これを変えるには、必要なことやったんや」
その言葉に、香奈美は一歩下がった。
もう、話が通じない。
本気でそう信じている。
⑥ 五百万の本
圭一は、まだ見せていなかったパンフレットをゆっくりと持ち上げた。
「これは何や」
栄子の顔色がまた変わる。
そこには
教祖御著作全集 全十巻 総額五百万円
の案内がある。
香奈美がそれをのぞき込み、目を見開いた。
「……五百万?」
圭一の声は、怒鳴る一歩手前で抑えられていた。
「これも買う気やったんか」
栄子はすぐに否定しなかった。
それが答えだった。
「まだ契約はしてない」
「でも、あの本を読んで、多くの人が救われたって……」
「人生の生き方の道しるべになった人もたくさん――」
「五百万やぞ!」
圭一の声がついに上がった。
茂之が二階で物音を立てる。
起きてしまったのかもしれない。
だがもう、圭一は抑えきれなかった。
「百万円の壺に四十万円の祈祷料でもう十分おかしいのに、その上五百万の本て何や!」
「それを“道しるべ”で済ますんか!」
栄子も負けじと声を強くする。
「高額だと思うかどうかは、その人次第やって言われた!」
「でも、その本で救われた人がいっぱいおるんやよ!」
圭一は、一瞬言葉を失った。
もう、値段の感覚そのものが狂わされている。
五百万を高いと思うかどうかは人それぞれ。
そんな理屈を、本気で受け入れ始めている。
そこまで来ているのだと、はっきりわかった。
⑦ 教団の歌
その場は、結局それ以上まとまらなかった。
圭一は怒りを押し殺し、
香奈美は半ば泣きそうな顔で黙り、
栄子は「まだわかってもらえん」と言いたげに口を閉ざした。
だが翌日、さらに決定的なことが起きる。
栄子は、学びの場から渡された一枚のCDを持ち帰っていた。
透明なケースに、簡素なラベル。
そこには手書きでこう書かれていた。
光の道 讃歌
栄子は、それを居間のラジカセで流し始めた。
単調なリズム。
覚えやすい旋律。
同じ言葉を何度も繰り返す歌詞。
光の道に帰りましょう
真理の門を開きましょう
乱れた心を浄めましょう
神の恵みに包まれましょう
その歌を、栄子は小さく口ずさんでいた。
しかも、だんだん声に出して歌うようになった。
香奈美はその場で凍りついた。
ただのBGMではない。
明らかに“教団の歌”だ。
しかも母は、それを家の中でごく自然に流し、ごく自然に歌っている。
⑧ 録音する娘
香奈美は、その場では何も言わなかった。
ただ、自分のスマホをそっと起動し、居間の隅でその歌を録音した。
母に気づかれないように。
歌詞がはっきり入るように。
数十秒で十分だった。
部屋へ戻ると、すぐにイヤホンで聞き直す。
やはり、さっきの歌だ。
そして、その一節を検索エンジンに打ち込む。
「光の道に帰りましょう 真理の門を開きましょう」
検索結果が表示されるまでの数秒が、異様に長く感じた。
そして出てきた答えを見て、香奈美の手が震えた。
真光の輪 教団歌「光の道 讃歌」
ほかにも断片的な記録や、被害を訴える書き込み、元信者らしき人の記述が並んでいる。
そこには、はっきりとこう書かれていた。
学習会や相談会で配布される
単調な旋律で覚えやすく、集団唱和に用いられる
家庭内で口ずさむようになると依存が深まっている兆候
香奈美は、喉がからからになった。
もう間違いではない。
完全に宗教団体だ。
しかも、かなり深いところまで入っている。
⑨ 父に知らせる
その夜、栄子が寝静まったあと。
香奈美はまた、そっと圭一のところへ行った。
「お父さん」
圭一はすぐに顔を上げる。
もうその声だけで、ただごとではないとわかるようになっていた。
香奈美はスマホを差し出した。
「これ聞いて」
録音した歌を再生する。
単調な旋律が、静かな部屋に流れる。
圭一の顔が険しくなる。
「……今日、お母さんが家で歌っとったやつか」
「うん」
「それで、検索した」
香奈美は画面を見せた。
検索結果。
真光の輪 教団歌
という文字。
圭一は、しばらく何も言わなかった。
スマホの画面を見つめたまま、表情が固まっている。
やがて、低い声で言った。
「ここまで来とるんか……」
香奈美は、小さくうなずいた。
「もう確実やろ」
「相談会とか占いとか、そういうレベルじゃない」
「お母さん、完全に取り込まれとる」
圭一は深く息を吐いた。
ローン。
壺。
祈祷料。
五百万の本。
教団歌。
もう、証拠は十分すぎるほどそろっていた。
問題はここからだ。
どうやって栄子を取り戻すのか。
そして、これ以上被害を広げずに止めるのか。
父と娘は、静かな部屋の中で、同じ現実の重さに押しつぶされそうになっていた。




