見えてきた請求
第十六章 見えてきた請求
① 生活のほころびは、先に出る
六月半ばの金沢は、蒸し暑さがじわじわと家の中にも入り込む季節だった。
真田家でも、夕方になると窓を少し開け、湿った風を通すようになっていた。
台所には煮物よりも、そうめんや冷ややっこが増える。
けれど、食卓の“軽さ”は季節のせいだけではなかった。
この頃にはもう、香奈美もはっきり感じていた。
食費が削られている。
ただの節約ではない。
何か別のもののために、家の金が流れている。
部活帰りの体には、正直きつい日が増えた。
茂之も、「なんか最近、お腹すく」と何度か口にしている。
それでも栄子は、以前のような“ごめんね、今日は少なくて”という言い方をしない。
むしろ逆に、
「足るを知ることも大事」
「欲に引っぱられたら心が鈍る」
そんな話をするようになった。
食卓の変化は、家計簿より先に、家族の体に出る。
圭一も、そこを見逃さなくなっていた。
② 一枚の紙片
その日の夜、栄子がごみをまとめたあと、圭一は何気ない顔で居間のごみ箱を見た。
覗き込んだわけではない。
ただ、袋の口から細長い紙片が見えていたのだ。
どこかの封筒を破って捨てたらしい切れ端だった。
圭一は、誰も見ていないことを確認して、そっとそれを拾った。
そこに印字されていた文字は断片的だった。
……割賦……
……支払回数……
……申込者 真田栄子……
圭一の喉がひやりと冷える。
割賦。
つまりローンだ。
もう偶然ではなかった。
食費の減り、家計の不自然な動き、栄子の外出、教団じみた言葉、そしてローンの痕跡。
圭一は紙片を握りしめかけて、すぐに力を抜いた。
感情のままに動けば失敗する。
今はまだ“見つけた”ことを知られてはいけない。
紙片を元に戻しながら、圭一の中で何かが固まっていく。
(やっぱり、契約まで行っとる)
③ 香奈美も金の異変に気づく
翌日、香奈美は学校で昼休みに購買へ行こうとして、財布の中を見て足を止めた。
自分の小遣いが減ったわけではない。
だが、最近、家で「今月はちょっと厳しいから」という言葉を聞く回数が明らかに増えている。
文房具を新しくしたいと言えば、
「まだ使えるやろ」
部活用のタオルを買い足したいと言えば、
「今あるので回して」
以前の栄子なら、節約はしても、理由の説明には生活感があった。
“今月はこれが重なったから”
“来月になったら大丈夫”
そういう現実的な話だった。
でも今は違う。
「余計なものは持たんほうがいい」
「物を増やすと流れが重くなる」
「今は整える時期やし」
金の話なのに、理由が生活ではなく“流れ”になる。
香奈美はそこが気味悪かった。
しかも、家の様子を見る限り、単に苦しいだけではない。
お母さんは、何か別の優先順位で金を動かしている。
それが、もう香奈美にもわかり始めていた。
④ 夕食の場で
その晩の夕食も、少し寂しかった。
冷ややっこ。
きゅうりの浅漬け。
少量の炒めもの。
味噌汁。
ご飯。
蒸し暑い日には悪くない献立だ。
だが、圭一の目には、そこに“足りなさ”がはっきり見えていた。
仕事帰りで疲れていたせいか、圭一は珍しく少し気を抜いた声で言った。
「今日はなんか疲れたし、ビールでも飲もうかな」
冷蔵庫のほうへ視線を向ける。
すると、栄子の手がぴたりと止まった。
「やめといたほうがいいよ」
声は静かだったが、妙にはっきりしていた。
圭一が振り向く。
「なんでや」
「アルコールは、体を汚すから」
「そういうの、今はやめたほうがいい」
圭一は一瞬、言葉を失った。
そこへ香奈美も、暑さで喉が渇いていたのもあって、何気なく言った。
「うち、アイスコーヒー飲もうかな」
栄子はすぐに首を振った。
「色のついた飲み物も、あんまり良くないよ」
「は?」
香奈美が思わず眉を上げる。
栄子は真顔で続けた。
「アルコールとか、色のついた飲み物は、体が汚れるからやめたほうがいい」
「そういうのは、自堕落な人間が好む、悪魔の飲み物やし」
「口にしてはいけないんやよ」
食卓の空気が、凍った。
茂之は箸を持ったまま固まり、香奈美は母の顔を見つめる。
圭一の表情も、明らかに変わった。
“悪魔の飲み物”。
それはもう、単なる言い回しの変化ではなかった。
⑤ 家族が見た“別の人”
香奈美は、しばらく何も言えなかった。
目の前にいるのは確かに母親だ。
いつも通りエプロンをつけ、食卓にご飯を並べ、家族の健康を気にしている。
なのに今の言葉は、完全に別の誰かのものだった。
アルコールを控えたほうがいい。
コーヒーを飲みすぎないほうがいい。
そこまではわかる。
だが、
自堕落な人間が好む
悪魔の飲み物
口にしてはいけない
そこまで言い切るのは、もう異常だった。
「……何それ」
香奈美の声は、細くかすれていた。
栄子は逆に、不思議そうな顔をする。
「何それって、体に悪いものを避けるのは当たり前やろ」
「人間は口にするもので、心も体も汚れていくんやし」
圭一が、低い声で言った。
「それ、誰に聞いた」
栄子の目が一瞬揺れた。
だがすぐに持ち直し、少しだけ強い口調になる。
「誰に聞いたとかやなくて、ちゃんと考えたらわかることやよ」
「今の世の中、みんな平気で体を汚して、欲に流されて、それで苦しんどるんやし」
まただ。
“ちゃんと考えたらわかる”
と言いながら、その言葉の根は明らかに栄子自身のものではない。
香奈美は、背筋がぞっとするのを感じた。
⑥ 圭一、確信に近づく
その夜のやりとりは、圭一にとって決定的だった。
宗教団体の相談記録の中には、こういう文言がよく出てきた。
* 口にするものが穢れを呼ぶ
* 色の濃い飲み物は邪気を招く
* 酒は堕落の象徴
* 家族が反発するのは浄化への抵抗
教団ごとに表現は少し違う。
けれど、“生活の細部に善悪を持ち込み、本人に新しい規範を植えつける”という手口はよく似ている。
今の栄子は、まさにその段階にいた。
金を動かし、言葉が変わり、生活のルールまで別の価値観で塗り替え始めている。
圭一は、食後に一人で台所へ立った時、深く息を吐いた。
(もう、かなり進んどる)
まだ証拠の全体像は見えていない。
だが、もう躊躇している場合ではないところまで来ている。
ローンの痕跡。
食費の減り。
栄子の言葉。
家族への押しつけ。
圭一の中では、それらがほとんど一本の線になっていた。
⑦ 栄子の中では試練が深まるだけ
一方、栄子の心の中では、今夜の空気の悪さすら別の意味を持っていた。
(やっぱり、強く出るんや)
ビールやアイスコーヒーを止めたくらいで、家族がこんな空気になる。
それだけ“この家の曇り”が深いのだと、栄子は受け止めてしまう。
もし教団に関わっていなければ、
家族の反応を見て、
“言いすぎたかな”
“ちょっと変なこと言ったかな”
と考えたかもしれない。
けれど今は違う。
《真光の輪》は、あらかじめ答えを与えている。
* 家族の反発は試練
* 強い違和感が出るのは浄化が進んでいる証拠
* 真理に近づくほど、周囲は荒れる
だから栄子は、自分の異変を点検しない。
むしろ“これで合っているのだ”と補強される。
後戻りしにくくなるのは、こういう時だ。
おかしな反応が起きるほど、それを“正しさの証拠”に読み替えられてしまうからだ。
⑧ 夜、父と娘
その夜、栄子が寝静まったあと。
香奈美は again、そっと圭一のもとへ来た。
「お父さん」
「……ああ」
圭一はもう起きて待っていたようだった。
香奈美は声をひそめる。
「さっきの、聞いたやろ」
「もう無理やって。お母さん、完全に変なこと言っとる」
圭一はうなずいた。
「俺もそう思う」
「ビールとかコーヒーが悪魔の飲み物って何なん」
「しかも、普通に本気で言っとるし」
香奈美の声は怒りと恐怖のあいだで揺れていた。
圭一は少し黙ってから言う。
「今日で、かなりはっきりした」
「それと……家計のほうもおかしい」
香奈美が顔を上げる。
「やっぱり」
「まだ全部は掴めとらん。でも、ローンの痕跡みたいなもんがある」
「お母さん、もう金も動かしとる可能性が高い」
その言葉に、香奈美の顔色が変わる。
「……どんだけ」
「それはまだわからん」
圭一は正直にそう言った。
「だから確かめる」
「今度は、もう少し踏み込んで確認する」
香奈美は拳を握ったまま、低く言った。
「早くせんと、ほんとに取り返しつかんくなる気がする」
その言葉を、圭一は否定しなかった。
もう、二人ともわかっていた。
これは“ちょっと変な相談会”ではない。
家の中に、本気で危ないものが入り込んでいる。
⑨ 請求はまだ見えていない
けれど、この時点では、真田家の誰もまだ知らない。
壺のローンが、百万円規模であることを。
四柱推命と姓名判断の祈祷料が、合わせて四十万円に達していることを。
そして、毎月の栄子の給料のほとんどが、すでにそこへ吸い取られ始めていることを。
見えているのは、まだ“痕跡”だけだ。
減っていく食卓。
変わっていく言葉。
増える沈黙。
不自然な節約。
そして、請求の匂い。
だが、本当に恐ろしいのは、
請求書そのものが見えた時ではない。
そのずっと前から、生活そのものがもう削られ始めているという事実だった。
真田家は、まだ全貌を知らないまま、
確実に崩れの中へ足を踏み入れていた。




