最初の大きな嘘
第十五章 最初の大きな嘘
① 隠しているのではなく、守っているつもり
六月に入った金沢は、雨の気配をまといながら、街全体が少し重たく見える季節に入っていた。
真田栄子は、勤め先のスーパーでその月の給料明細を受け取った時、いつもより長く封筒を見つめていた。
働いたぶんの金。
朝から惣菜を作り、油の匂いにまみれ、立ちっぱなしで動き続けて得た給料。
そのほとんどが、もう行き先を決められていた。
《真光の輪》で契約した壺のローン。
四柱推命と姓名判断の祈祷料のローン。
それに、小口の献金。
一つひとつは“意味のある支払い”だった。
浪費ではない。
無駄遣いでもない。
家族を救うための、必要な行い。
少なくとも、栄子はそう信じていた。
だから、圭一に言わないことも、
“隠し事”
ではなく、
“まだ理解できない家族を無駄に混乱させないため”
だと思っていた。
それが、最初の大きな嘘だった。
自分は嘘をついていない、と信じながらつく嘘。
それがいちばん深く家庭を傷つける。
② 給料の行き先
給料日から数日後。
栄子は仕事帰りにATMの前へ立っていた。
機械の前にいるのは、どこにでもいる普通のパート帰りの女性にしか見えない。
画面に表示される残高。
引き落とされる予定額。
手元に残す生活費。
壺のローン。
祈祷料のローン。
そして、今月も少しだけでもと決めた献金。
指先は迷いなく動いた。
一件ずつ支払いを済ませていくたび、通帳の数字は減っていく。
スーパーで汗を流して得た給料のほとんどが、静かに消えていく。
それでも、栄子は苦にならなかった。
むしろ、少し安心するような気持ちすらあった。
(これでいい)
(ちゃんと家族のためにできとる)
(ここで惜しんだら、せっかくの流れが止まる)
苦しいとは思わない。
怖いとも、なるべく考えない。
不安がよぎるたび、教団側の言葉がそれを上書きする。
「家族を救うには、まず形にして献身すること」
「神様は、心だけでなく行いも見ておられます」
「ここで出し惜しみすると、流れがまた滞ります」
そう思えば、給料が消えていくことすら“正しいこと”に変わる。
③ じわじわ削られる食卓
だが、家の暮らしは正直だった。
給料のほとんどがローンと献金に消えるようになれば、当然、どこかを削らなければならない。
最初に削られたのは、食費だった。
栄子はスーパーの特売品を今まで以上に細かく見るようになった。
見切り品。
値引きシール。
安い食材。
かさ増ししやすいもの。
それ自体は、節約上手な主婦の工夫にも見える。
だから最初のうちは、家族もそこまで深くは気にしなかった。
だが、少しずつ変化ははっきりしていく。
夕食の品数が減る。
以前なら、煮物に焼き魚、味噌汁、和え物、小皿の漬物くらいは当たり前だったのに、
今はメインが一品と汁物だけ、という日が増える。
量も減る。
茂之が「もうちょっと食べたい」と言っても、
「今日はこれで終わり」
と返されることが増えた。
唐揚げは数が少なくなり、
サラダはきゅうりともやしばかりになり、
肉料理はひき肉でかさ増しされ、
果物はほとんど食卓に乗らなくなった。
じわじわと。
でも確実に。
暮らしの豊かさが削られていった。
④ 圭一、数字を見る
最初に強く気づいたのは、やはり圭一だった。
ある夜、食卓に並んだ夕飯を見て、圭一はほんの一瞬だけ黙った。
焼いた厚揚げ。
薄い味噌汁。
少量のきんぴら。
ご飯。
決して食べられないわけではない。
だが、以前の栄子なら、これだけで終わらせることはまずなかった。
「最近、節約しとるんか」
圭一が何気なく聞くと、栄子はすぐに答えた。
「物価も上がっとるしね」
「今のうちに少し締めとかんなんやろ」
言い方は自然だ。
それだけなら、おかしくない。
だが圭一の中では、すでに別の線が引かれ始めている。
家計の読みにくい減り。
栄子の妙な外出。
相談会めいたもの。
宗教被害の相談記録。
そして今、目に見える形で減っていく食卓。
圭一は、その夜遅く、一人で家計用の封筒と通帳の流れを改めて見始めた。
今までは“ざっくり”だった。
だがもう、本気で洗い出す必要がある。
どこで、何に、いくら動いているのか。
レシート。
引き出し額。
残高の推移。
警察官としてではなく、まず一家の大黒柱として。
しかしその視線には、職業柄の冷静さも混ざっていた。
⑤ ごまかしが日常になる
栄子もまた、圭一の目が変わってきたことに気づき始めていた。
だから説明の仕方も、少しずつ変わる。
「今月は日用品が重なって」
「学校関係もなんだかんだ要るし」
「スーパーで買ってても、前より全体に高いしね」
どれも完全な嘘ではない。
日用品も買っている。
学校の出費もある。
物価が上がっているのも本当だ。
だが、核心はそこではない。
壺のローン。
祈祷料のローン。
献金。
その部分だけを抜き取って隠している。
嘘というのは、すべてを作り話にするより、
本当のことに少しだけ別の理由をかぶせるほうが、ずっと自然に見える。
栄子は、まさにそのやり方を身につけ始めていた。
それでも本人は、どこかでこう思っている。
(今はまだ言えんだけや)
(全部が整ったら、きっと家族もわかってくれる)
その“今はまだ”が、家庭を静かに侵していく。
⑥ 香奈美が感じる怖さ
香奈美にとって、しんどかったのは二つあった。
一つは、食卓の変化だ。
最近、ご飯が少ない。
おかずが減っている。
部活で帰ってきた体には、明らかに足りない日が増えた。
「今日、これだけ?」
そう聞きたくなっても、聞けばまた
「足るを知ることも大事」
「欲に流されたらだめ」
みたいな話になりそうで、飲み込むしかない。
もう一つは、栄子の目つきだった。
怒っているわけではない。
むしろ穏やかだ。
でも、その穏やかさの奥に、どこか“見下ろすような静けさ”が混ざる時がある。
自分たち家族を、同じ目線で見ていない感じ。
“まだ気づいていない人たち”を見るような、そんな目。
その目を向けられるたび、香奈美の背中はぞくりとした。
ある日、夕飯の少なさに思わずこう言ってしまった。
「最近、ほんとご飯少ないよね」
栄子は一瞬だけ手を止め、それから静かに言った。
「人は与えられた分に感謝せんなんよ」
「足りない足りないって思う心が、流れを悪くすることもあるし」
香奈美は何も言えなくなった。
まただ。
普通の不満や疑問が、全部“心の問題”にされる。
「……別に、文句言いたいわけじゃないし」
小さくそう返すと、栄子は少しだけ悲しそうな顔をした。
「お母さんは、家のためにやっとるだけなんやよ」
その言葉が出るたび、香奈美のほうが悪い気分にさせられる。
でも、怖かった。
この人は、本当に自分が正しいと思っている。
だから止まらないんだ。
⑦ 父、金の流れを追う
ある晩、栄子が風呂に入り、子どもたちがそれぞれ自室に戻ったあと。
圭一は居間の明かりの下で、通帳と家計メモを並べていた。
ATMの引き出し。
給料日の残高。
月末の残り。
日用品や学校費では説明しきれない減り方。
大きな一括引き落としではない。
だが、毎月のスーパーの給料が、思っていた以上に家の外へ流れている。
しかも、それに見合うだけ生活が楽になっている気配はない。
むしろ逆だ。
食費が削られ、家の空気は悪くなり、栄子の言葉はますます妙になっていく。
圭一は、指先で通帳の数字を追いながら、胸の内で確信を強めていった。
(やっぱり、どこかに金が流れとる)
問題は、その先がどこかだ。
職場の事例では、本人名義のローンや分割払いが使われることも多い。
家族に気づかれにくいよう、少額ずつ、長く引き落とされる形だ。
そう考えた瞬間、圭一の背中に冷たいものが走る。
もし栄子がすでに、そういう契約までしていたら。
その想像は、もう冗談では済まなかった。
⑧ 栄子の中の満足
そのころ栄子は、布団の中で目を閉じながら、今月の支払いを思い返していた。
給料のほとんどが消えた。
正直、楽ではない。
でも、不思議と苦にならなかった。
むしろ少し、満ち足りたような感覚がある。
自分はちゃんと、家族のために献身している。
誰にもわかってもらえなくても、神様は見ておられる。
この行いは、きっといつか家に返ってくる。
そう思えば、夕飯の品数が減っても、
自分の服を新しく買えなくても、
スーパーの惣菜を我慢しても、
耐えられた。
耐えること自体が、意味あるものになっていたからだ。
そして意味がある苦しみは、
人をやめさせにくくする。
⑨ 家が少しずつ痩せていく
六月の真田家は、まだ外から見れば崩壊していなかった。
父は働いている。
母も働いている。
娘は学校へ行き、部活もしている。
息子も元気に学校へ通っている。
だが、暮らしは少しずつ痩せていった。
食卓が痩せる。
会話が痩せる。
笑いが痩せる。
信頼が痩せる。
その原因は、家族の努力不足でも、物価高だけでもない。
家の外にあるはずの宗教が、
いまや家の中の金と空気を確実に食い始めているのだ。
しかも、中心にいる栄子自身は、
それを“家を壊すもの”ではなく、
“家を救うための尊い行い”だと思っている。
そこが、何よりも恐ろしかった。




