父が追う影
第十四章 父が追う影
① 仕事として見る、家として見る
五月の終わり、金沢の朝は明るいのに、圭一の胸の中には重いものが沈んでいた。
出勤してすぐ、真田圭一は机に座る前に深く息をついた。
市民の安全を守る部署では、今日も相談案件のファイルが積まれている。
高齢者の詐欺被害、近隣トラブル、家庭内のもめごと、聞き取り記録、引き継ぎメモ。
これまでは“仕事”として見てきた紙の束が、今は少し違って見える。
もしかしたら、この中に、栄子が関わり始めているものと同じ種類の影があるかもしれない。
圭一はそう思いながら、最近の相談記録を静かにめくり始めた。
もちろん、最初から
《真光の輪》
という名前が出るわけではない。
むしろ、そういう団体ほど最初は名前を出さない。
相談会。
学び。
開運。
家系。
流れ。
そういった、いくらでも別の顔に見せられる言葉で近づいてくる。
圭一はそこを探した。
② 記録の中にある共通点
午前のあいだ、圭一は宗教や霊感商法、開運商法に関する相談記録をいくつも洗った。
被害届まで至っていないものも多い。
家族からの相談。
高齢者見守りの中で拾われた違和感。
離婚相談に付随して出てきた金銭問題。
「本人は信じ込んでいて話にならない」という記述。
何件か読んだところで、共通点が見えてきた。
最初は小さな相談会。
そこから個別面談。
“あなたは特別に敏い”
“家系に流れる苦しみがある”
“今の不調は浄化の過程”
そういった言葉で不安を意味づける。
次に、開運グッズや祈祷。
印鑑、財布、数珠、壺、絵、祈祷札。
そして最後に、高額な献金やローン契約。
圭一は資料をめくる手を止めた。
あまりにも流れが似ていたからだ。
栄子に起きていることは、まだ序盤かもしれない。
だが、形はすでにこの記録の中の事例と重なり始めている。
③ 金沢でも起きている
昼休み前、同僚の沢渡沙織が書類を持って近づいてきた。
「真田さん、この前の宗教絡みの件、追加で相談来てましたよ」
圭一は顔を上げた。
「またか」
「ええ。今度は高齢者じゃなくて、四十代の女性です」
「最初は“心の勉強会”みたいなとこに通い始めて、家族との関係がぎくしゃくしてきたって」
沢渡は机にメモを置きながら続ける。
「ご主人が相談に来られてて、最近やたらと“家系の流れ”とか“浄化”とか言い出したらしいです」
「それで、開運印鑑と祈祷料でかなりお金を動かしてるみたいで」
圭一の表情が固くなる。
「団体名は?」
「はっきり言わんかったですね。本人が隠してるのか、家族がまだ掴みきれてないのか」
「でも、話の入り方はかなり典型的でした」
沢渡は少し声を落とした。
「金沢でも増えてるみたいです。表向きは普通の相談会とか占いっぽい顔してるから、周りも気づくの遅れるんですよね」
圭一は無言でうなずいた。
金沢でも似た相談が出ている。
それも一件や二件ではない。
つまり、自分の家だけの偶然ではない可能性が、どんどん高くなる。
④ 父の中で線になる
午後、圭一は席に戻ってからも、しばらく書類を見つめていた。
相談会。
浄化。
家系。
開運。
祈祷料。
家族との亀裂。
金の流れ。
点だったものが、一本の線になり始めている。
あとは、その線の先に栄子が本当にいるのかを確かめるだけだ。
だが、その“だけ”が難しい。
本人は善意でやっている。
家族を救いたいと思っている。
その段階で頭から否定すれば、たいてい逆効果になる。
資料の中にも、そんな記述がいくつもあった。
「家族に反対され、ますます団体へ依存を深めた」
「本人は“理解されないのは真実に近づいた証拠”と受け止めていた」
圭一はそこを何度も読み返した。
まるで今の栄子そのものだった。
⑤ 栄子、さらに踏み込む
そのころ栄子は、《真光の輪》の特別学習会で、いつもより奥の部屋へ通されていた。
畳の部屋に、低い机。
藤代美和のほかに、篠宮礼子と、もう一人、金沢支部の実務を取り仕切る幹部女性が座っている。
その女性は名を
室井聖子
と名乗った。
室井は書類を整えながら、落ち着いた声で言った。
「真田さんの流れ、かなり深いですね」
「やはり家系に重たい滞りがあります」
栄子は緊張しながら、うなずく。
四柱推命、姓名判断、家系の流れ相談。
ここ数回で聞かされてきた話は、すべて自分の中の不安とつながるように作られていた。
気にしすぎる性格。
娘との距離。
夫との温度差。
家の中の重たい空気。
それらが“たまたま”ではなく、“家系に宿る滞り”だと言われると、怖い反面、妙に納得してしまう。
室井は静かに続けた。
「こういう流れの場合、祈りだけでは弱いんです」
「形あるものを置いて、家の流れを受け止め、変えていく必要があります」
そして、白い布の上に一つの壺の写真を置いた。
艶のある深い色味の壺。
口は細く、胴はふくらみ、いかにも“意味ありげ”な形をしている。
「これは、浄流の壺です」
室井の声はよく通った。
「家系にたまった滞りを受け止め、流れを整えるためのものです」
「真田さんのように、家族の重みを背負いやすい方には、とても相性がいい」
栄子は写真を見つめたまま、息をのむ。
⑥ 百万円の意味づけ
「お値段だけ聞くと驚かれるかもしれませんが」
室井は、あくまで冷静に言った。
「これは百万円相当の価値があるものです」
「ただの壺ではありません。家の流れを受け止める器です」
百万円。
その数字が出た瞬間、さすがの栄子も目を見開いた。
「ひゃ、百万円……」
「もちろん、一括で払えという話ではありません」
「真田さんのように、本気で家族を救いたいと思う方には、無理のない形もあります」
“無理のない形”。
その言葉とともに、室井はローンの契約書をそっと差し出した。
「月々なら、現実的な範囲で続けられます」
「家族のために払うお金って、浪費とは違いますからね」
「これは消える出費じゃない。未来を整えるための行いです」
栄子の頭の中で、百万円という大きな数字と、
“家族を救うため”
という言葉がぶつかり合う。
怖い。
高すぎる。
でも、もしこれで家の流れが変わるなら。
香奈美の反発がやわらぐなら。
圭一との距離が戻るなら。
そして何より、ここで立ち止まれば、自分は“家族を救えるかもしれない機会”を捨てることになるのではないか。
そう思わせるように、室井はやさしく言った。
「真田さん、こういうご縁は、いつでも来るものじゃないんです」
「本当に必要な方にしか、ここまでの話はしません」
また、“特別”だった。
また、“選ばれた”の延長線上にいる。
栄子の手が震える。
それでも最後には、ペンを取っていた。
ローン契約書に、
真田栄子
と署名する。
その瞬間、もう一線を越えていた。
⑦ 四十万円の祈祷料
だが、そこで終わりではなかった。
篠宮礼子が、もう一枚の書類を差し出した。
「それから、真田さんの流れを本格的に見るには、四柱推命と姓名判断をきちんと祈祷を通して受けたほうがいいです」
「単なる鑑定ではなく、家系に触れるものですから」
書類には、きれいな字でこう書かれていた。
* 四柱推命祈祷料 二十万円
* 姓名判断祈祷料 二十万円
合計、四十万円。
「これも、いま受けておいたほうが流れは早いです」
「後になるほど、曇りが固まって見えにくくなる方もおられますから」
室井の口調は、あくまで“提案”の形を保っていた。
強引ではない。
だが、ここで断ることが、“せっかく開いた道を閉じること”のように感じられる空気が、すでにできあがっていた。
栄子は書類を見つめた。
百万円の壺。
四十万円の祈祷料。
ほんの数か月前の自分なら、絶対に席を立っていたはずの話だ。
だが今は違う。
もう何度も「あなたは選ばれた方です」と言われてきた。
家族の苦しさに意味を与えられてきた。
違和感は“試練”に変えられ、反発は“浄化の抵抗”に変えられてきた。
だからこの高額も、単なる金額ではなくなる。
救済のための代価
に見えてしまう。
栄子は、震える手でそこにも署名した。
四柱推命と姓名判断の祈祷料、合わせて四十万円。
支払いの契約書にも、しっかりと自分の名前を書いた。
⑧ 家に帰る途中で
帰り道、栄子の足元は少しふわついていた。
百万円。
四十万円。
合わせれば、とんでもない額だ。
それなのに、完全な恐怖だけではない。
むしろどこか、やり遂げたような感覚すらあった。
(これで家が良くなるなら)
(これで香奈美も、圭一さんも救われるなら)
そう思うことで、自分を支える。
むしろ、ここで怖がるのは“俗な感覚”なのかもしれない。
真理に近づく人間は、目先の損得ではなく、もっと大きな流れを見るべきなのだ。
そんなふうにまで考え始めていた。
教団側が与えた理屈は、もう栄子の中で自動的に働くようになっていた。
⑨ 父はさらに確信へ
同じ夜、圭一は職場で拾った情報と家の違和感を、頭の中で何度も組み立てていた。
宗教団体。
相談会。
開運。
祈祷。
家系。
金の動き。
まだ契約書は見ていない。
壺の話も知らない。
祈祷料の額も知らない。
だが、圭一の中ではもう、
“ただの相談会ではない”
というところまでは、かなり固まっていた。
帰宅すると、栄子はいつも通りに「おかえり」と言った。
味噌汁の湯気も、炊きたての米の匂いも、家庭そのものだった。
その“いつも通り”の中に、
百万円の壺の契約と、四十万円の祈祷料のサインが、もう隠れている。
圭一はまだ、それを知らない。
だからこそ、この夜の静けさは恐ろしかった。
家庭を壊すものは、最初から家の形を壊してはくれない。
形はそのままにして、まず中身だけを少しずつ奪っていく。
真田家も、いままさにそのただ中にいた。




