特別な学び
第十二章 特別な学び
① 一段深い場所へ
五月の終わり、金沢の空気は少しずつ初夏の匂いを帯び始めていた。
その日、《真光の輪》の相談会が終わったあと、藤代美和が栄子に静かに声をかけた。
「真田さん、もしよければなんですけど、次の段階のお話も聞いてみませんか」
「次の段階?」
栄子は少し首をかしげた。
藤代は穏やかにうなずく。
「今までは、どちらかというと表の悩みを整理する場でした」
「でも真田さんの場合、感受性も高いし、家族への思いも深い」
「だから、もう少し深い“学び”に触れてもいい時期かもしれません」
“深い学び”。
その響きに、栄子の胸は静かに高鳴った。
自分は選ばれた側なのかもしれない。
そう思い始めていた栄子にとって、その誘いは自然な“次の一歩”に感じられた。
「難しいことなんですか」
「いえ。むしろ、真田さんがこれまで感じてきたことに、もっとはっきりした意味が見えてくると思います」
藤代はそう言って、一枚の案内を差し出した。
そこには、やわらかな字でこう書かれていた。
特別学習会
家系の流れと真理の学び
参加費は、これまでの相談会より少し高く、三千円だった。
栄子は一瞬だけためらった。
だが、その額も“特別な学び”という言葉の前では、大きな壁にはならなかった。
(家族のためやし)
(少しでも意味が見えてくるなら)
そう思うと、三千円は高くなかった。
② 占いではなく“導き”
特別学習会の会場は、いつもの集会室より少し奥まった場所にあった。
畳敷きの落ち着いた部屋。
小さな机。
静かな照明。
人数も少なく、参加者は五人だけだった。
そこで初めて、四柱推命や姓名判断、家系の流れ相談が、より本格的な形で持ち出された。
藤代ではなく、別の幹部女性が前に座っていた。
名は
篠宮礼子。
物静かな声で話す、五十代くらいの女性だった。
「これは単なる占いではありません」
「真理に沿って、その人に与えられた流れを見ていく学びです」
その言い方が絶妙だった。
“占い”と言われると軽く感じる。
けれど“真理に沿った学び”と言われると、急に重みが増す。
篠宮は参加者一人ひとりの名前、生年月日、家族構成を書き留めながら続けた。
「名前には宿るものがあります」
「生まれた時の星の配置にも意味があります」
「そして、その人が置かれた家系には、さらに深い流れがあります」
栄子は、自分の名前が紙に書かれていくのを見ながら、妙な緊張を覚えた。
真田栄子。
真田圭一。
真田香奈美。
真田茂之。
ただの名前の羅列が、ここでは“意味を持つもの”として扱われている。
それだけで、自分たち家族の毎日が、少し違うものに見え始める。
③ 家系の流れという言葉
篠宮は、あくまで断定しすぎない話し方をした。
「たとえば真田さんのように、家庭を整えようと必死になる方は、代々“背負いやすい”流れを受けておられる場合があります」
背負いやすい流れ。
これもまた、都合のいい言葉だった。
具体的ではないが、否定しづらい。
そして栄子には思い当たることが多すぎた。
昔から、周りの空気に敏かった。
自分がしっかりしなければと思いがちだった。
家の中がぎくしゃくすると、自分のせいのように感じてしまう。
篠宮は続ける。
「娘さんとの距離、ご主人との温度差、そういったものも、単なる性格の違いだけで片づけられない場合があります」
「家系に流れる課題が、いま表に出てきているのかもしれません」
栄子は、膝の上で手を握った。
まただ。
また、自分の苦しみに“筋道”が与えられる。
これまでバラバラだった不安が、一つの物語のようにつながっていく。
苦しいのに、どこか安心してしまう。
意味がある。
原因がある。
だから自分はただ苦しいだけの人間ではない。
そう思えるからだ。
④ 雨上がりの空
その夜、学びを終えて帰る途中だった。
昼間に降っていた雨はすっかり上がり、金沢の空には澄んだ夜気が広がっていた。
住宅街の灯りの向こう、少し暗い場所に目を向けると、初夏の星座たちが静かに輝いている。
西のほうには明るい星。
頭上には細かな光の点がいくつも散り、春から夏へ移る空をゆっくり描いていた。
栄子は足を止めた。
「……きれいや」
思わず、そうつぶやく。
空は深く、どこまでも遠い。
人の手の届かない場所にありながら、こんなにもはっきりとそこにある。
なんて宇宙は神秘的なんだろう。
なんて不思議なところなんだろう。
仕事と家事と悩みの繰り返しの毎日の中で、そんなふうに空を見上げたのは、いつ以来だっただろう。
その感動は、本物だった。
何かに騙されているわけでもなく、
誰かに強制されたわけでもなく、
ただ純粋に、星空を見て心が動いた。
それだけのことだった。
⑤ 神が人々を喜ばせるために
次の学びの場で、栄子はその話をした。
「この前の帰り、雨上がりの空を見たら、すごく星がきれいで」
「なんて宇宙って神秘的なんやろって思って……」
篠宮礼子は、その話を聞くと、深くうなずいた。
「それはね、真田さん」
静かな声で言う。
「神様が、真理に気がついた人たち、人々を喜ばせるために創造されたものなんですよ」
栄子は目を見開いた。
「宇宙も、星も、偶然そこにあるんじゃないんです」
「人が見上げて、心を正し、美しさに気づき、神を感じるために与えられたものなんです」
その話は、あまりにも美しく聞こえた。
星がただの天体ではなく、
人を喜ばせるために創られたもの。
真理に気づいた人に与えられるしるし。
科学的かどうかではなく、心に響く説明だった。
篠宮はさらに続けた。
「でも、真理に気づいていない人は、それをただの“星”としか見ません」
「そこに込められた神の愛や、創造の意志に気づけないんです」
栄子はその言葉を、少し震えるような気持ちで聞いていた。
あの夜、自分が見た星空は、ただの偶然ではなかったのかもしれない。
神が見せてくれたものだったのかもしれない。
そう考えた瞬間、あの夜空の感動は、いっそう特別なものに変わった。
⑥ 家族の前で語ってしまう
その夜、真田家の夕食後。
いつものように食卓を片づけながら、栄子は何気ない調子で話し始めた。
「この前、雨上がりの空、すごくきれいやったんやよ」
香奈美が顔を上げる。
「星見えたん?」
「うん。ほんと神秘的でね」
「宇宙って、なんて不思議なところなんやろって思って」
それだけなら、まだよかった。
だが栄子は、続けてしまった。
「そしたらね、教えてもろうたんやけど、ああいう星とか宇宙って、神様が真理に気づいた人たちを喜ばせるために創られたものなんやって」
その瞬間、空気が変わった。
圭一は箸を止めた。
茂之は意味がよくわからず、ぽかんとしている。
そして香奈美の目が、はっきりと変わった。
「……は?」
その声には、これまでの戸惑いとは違う、明確な引っかかりがあった。
「何それ」
栄子は、むしろ穏やかな顔で答える。
「いや、だから、宇宙ってただ偶然にあるんじゃなくて――」
「いや、そういう話じゃなくて」
香奈美は思わず立ち上がりかけた。
「星って、恒星とか惑星とか、重力とか核融合とか、そういうので成り立っとるんやろ」
「何で“真理に気づいた人を喜ばせるため”とかになるん」
圭一が、香奈美の勢いに少し驚きながら見る。
香奈美は、学校では天文部に入っている。
科学、特に宇宙や天文分野には強い関心があり、理科の成績もいい。
星空をロマンとして見るだけでなく、そこにある構造や法則を知ることにも喜びを感じるタイプだった。
だからこそ、今の栄子の言葉は、ただの“変わった考え方”では済まなかった。
科学の話を、どこか別の“真理”にすり替えるような言い方。
しかもそれを、誰かから教わった調子で話している。
その瞬間、香奈美の中で一つの線がつながった。
(お母さん、やっぱり何か宗教みたいなもんに関わっとる)
それは、ほとんど確信だった。
⑦ 圭一もまた、つながり始める
圭一はその場では強く口を出さなかった。
ただ、低い声で言った。
「栄子、それは誰に聞いた話や」
栄子は一瞬だけ詰まったが、すぐに言い直す。
「ちょっと、学びの場みたいなとこで」
“学びの場”。
またその言い方だ。
圭一の脳裏に、職場で沢渡沙織から聞いた話がよみがえった。
最初は相談会。
占い。
開運。
心の勉強。
そういう形で入ってくる宗教団体。
そこへ今日の
* 真理
* 神様
* 創られた宇宙
* 家計の曖昧な減り
* 栄子の変わった言葉づかい
が、ゆっくりと結びつき始める。
まだ断定はできない。
だが、もう“ただの気のせい”では片づけられない段階に入りつつあった。
香奈美はそれ以上何も言わず、無言で皿を流しに運んだ。
けれどその背中には、明らかな怒りと警戒がにじんでいた。
⑧ 夜、そっと父に話す
その夜。
家の灯りが落ち、茂之も寝静まり、栄子もようやく寝息を立て始めたころ。
香奈美はそっと自室を出た。
廊下を忍ぶように歩き、まだ起きていた圭一の部屋の前で小さく声をかける。
「お父さん」
圭一が振り向く。
「どうした」
香奈美はドアを閉め、声をひそめた。
「お母さん、やっぱり変や」
圭一は黙って椅子を引き、座るように促した。
香奈美は座るなり、昼間から抑えていた言葉を吐き出した。
「今日の星の話、絶対おかしい」
「宇宙を神様が真理に気づいた人のために作ったとか、そんなの科学でも何でもないし」
「誰かに教えられたこと、そのまま信じとる感じやった」
圭一は、じっと娘の話を聞いている。
「うち、最初はなんか変わったなって思うだけやった」
「でも今日ので、もうわかった」
「お母さん、たぶん、何か宗教みたいなとこ行っとる」
その言葉を、圭一はすぐには否定しなかった。
沈黙が数秒続く。
そして、低い声で言った。
「……俺も、そうかもしれんと思い始めとる」
香奈美は目を見開いた。
「やっぱり?」
「職場でもな、最近、宗教団体の被害の話が出とる」
「最初は相談会とか、開運とか、そういう顔して入ってくるとこもあるらしい」
その言葉に、香奈美の背筋が寒くなる。
まさか、が、まさかではなくなり始める瞬間だった。
「どうするん」
香奈美の問いに、圭一はすぐには答えなかった。
警察官として動くには、まだ家の中のことすぎる。
父親としては、もう放っておけない。
そのあいだで、圭一は静かに考える。
「まずは、慌てんことや」
「はっきり確かめる」
「お母さんを頭ごなしに責めたら、逆に向こうに行くかもしれん」
香奈美は唇をかんだ。
それはわかる。
でも、もう十分に危うい気もする。
「うち、気持ち悪い」
「お母さんが、お母さんの言葉でしゃべっとる感じせん」
その小さな声に、圭一の表情がわずかに曇る。
「……わかる」
父もまた、同じ違和感を抱いていた。
⑨ 決定的な夜
その夜、真田家の中には、見えない線がさらに濃く引かれた。
栄子は、いまも眠りながら、自分が家族を救うための道に近づいていると思っている。
香奈美は、母が宗教に取り込まれ始めていると確信した。
圭一は、職場で聞いた被害の話と、家庭の違和感が現実に結びつき始めているのを感じていた。
もう“なんとなく変”の段階ではない。
家の中に入り込んでいるものの正体が、
ようやく輪郭を持ち始めたのだ。
だが、輪郭が見えたからといって、すぐに取り除けるわけではない。
むしろ、本当に厄介なのはここからだった。
宗教の怖さは、
外から見て異様だから怖いのではない。
中にいる本人にとっては、
それが“善意”であり、“学び”であり、“家族を救う道”に見えてしまうことだ。
そして、真田家はついにその入口を越えてしまった。




