第31話:今ここに在る
旅行と旅。
この2つの言葉はどう違うのだろうか?
辞書的な意味で言えば、旅行は「ある目的地へ行って帰ってくる行為」であり、旅はその行為を情緒的に表現した言葉に過ぎない。
故に、両者の間に意味的な違いは無いと主張する向きもある。
一方で、両者の実際の用法には差異が見られるため、そこから意味を見出そうとする人々もいる。
曰く、旅行は予定が決まっているもの、旅は計画がないもの。
また曰く、旅行は目指すこと、旅は経験すること。
ロマンチストたちのメタファーにはキリがないが、その中でも島津ヨリコには昔からお気に入りの表現があった。
「旅行は日常の外を発見する行為。旅は日常の外から自分を見つめる行為」
そしてその言葉の定義に従えば、ヨリコは地元、京都市北部の山裾にて旅の最中にあった。
師走も残り半分となったある日の朝、人里離れた古刹でのことである。
まだ薄い朝靄に包まれている山寺にて、ヨリコは薄目を開けたまま座禅を組んでいた。
眼前に広がる枯山水の庭では、白砂の上に描かれた波紋が淡く霞み、その向こうに立つ老松だけが濃い緑を保っている。
風は無い。
時折、竹筒が石を打つ乾いた音だけが静寂を破る。
――コーン
鹿威しの響きが山肌に吸い込まれるように消える。
後に残った静寂の中、ヨリコはゆっくりと息を吐き己の内側へ意識を向けた。
「まずは呼吸に集中なされよ。雑念が浮かんできたら、それに囚われず雲のように流しなされ」
住職にそう助言されたのは、ヨリコがこの寺を初めて訪れた時に遡る。
衆議院に初出馬する直前のことだったから、もう何十年も前のことだ。
以来、日々の悩みや喧騒から距離を置きたくなった時は、足が自然とこの場所に向かうようになっていた。
寺を管理している住職、幻庵和尚は古希をとうに過ぎているが、矍鑠とした穏やかな人物である。
厳密に言えば、座禅には姿勢から座る場所まで決まりがあるのだが、和尚はあえて細かいことは言わない。
今日も「自分が一番落ち着ける方法でやっておくれ」と、快く場所を貸してくれた。
本堂の縁側に置かれた座布団の上、ヨリコの脳裏には次々と雑念が浮かぶ。
先月の大災害を境にガクンと下がった支持率は、その後も調査が行われる度に過去最低を更新し続けている。
有効な手を打てないまま無為に時間が過ぎるのを看過できなくなったのか、幹事長の柿内ショウブが直談判に押し掛けたのは2日前のことだった。
「若手議員を中心に執行部刷新を求める声が出ている」
総理官邸を訪れた柿内は、執務室に入るなり感情の見えない声で言った。
「ダンジョンへの対応が後手に回っていることで、野党に攻撃の材料を与えてしまっている。マスコミ連中も、今回の問題を『カネか命か』と極論に落として論じるものだから、ダンジョン政策を推し進めてきた我々への風当たりが益々強まっている」
「騒いでいるのは若手だけかしら?それとも柿内さん、あなたも同じ考えなのかしら?」
「……ぼくをあんなハナタレ共と一緒にしないでくれ。アイツらが分かってるのは『何かを変えなきゃいけない』ってことだけで、『どう変えるか』までは考えてないんだ」
柿内の発言は、ヨリコからすれば「後任さえ決まれば総理を辞めてもらう」と言っているようにも、「後任が決まらないから、もう少しその椅子に座っていてくれ」と言ってるようにも取れた。
「もしわたしが党首の座を降りるとなったら、後任は鷹司財務大臣かしら?彼、ここまで大きな失点も無いし、現役閣僚の中では比較的クリーンでしょう?」
この問い掛けは当然「フリ」。
鷹司は利害調整能力が高く、平時であればソツなく課題に対処できる。しかし、100人以上の死者を出した後の逆風下において、先頭に立って党を導く人物としては不適格だろう。
第一、本人がやりたがるとは思えない。
それが分かっているからなのだろう、柿内はジッと目だけヨリコに向けたまま沈黙を続けた。
「皮肉なものね。私を辞めさせたい人は大勢いるのに、私の代わりをやりたい人はいない」
「……キミには、無理を強いてしまっていると思ってる」
どこまで本心なのか、絞り出すように柿内が言った。
――ま、任期まで間もないし、こんな状況じゃ誰もやりたがらないわね
そう思った直後、ふと今出川タカシの顔が浮かんだ。
未だ「3年生」に過ぎないあの男が自進党総裁になることはあり得ない。そうでなくても、魔素噴火の責任者の一人なのだ。仮に選挙を乗り切ったとしても、タカシが閣僚入りする可能性は限りなくゼロに近い。
それでも、今後も彼を無碍に扱うつもりはない。書類上の息子としてシュウジの身柄を押さえているし、情報を引き出し提供してくれた貢献は小さくない。
ただ、シュウジの情報を直接的に選挙に役立てられるかと言えば、答えはノーだ。
結局、変容石と同じで公表できないのだ。
魔素噴火の原因、新種の変容石、地階のルールや地形、モンスターの種類。
それらはどれも有用だが、有効活用する手立てがない。活用しようとすると、今度はシュウジの存在やこれまでの情報隠蔽が明るみになりかねない。
仮にその問題をクリアしたとしても、変容石の存在が公になれば日本は世界から狙われることとなる。
理想は日本のこれまでの欺瞞工作に勘付かれることなく、変容石の存在だけを世間にリークし、かつダンジョンの主権を握り続けること。少し前までは、とても現実的とは思えなかった。
――情報が揃った今なら、それもやりかた次第なのかしら?いや……
「総理の覚悟次第だと思います」
ふと脳裏に、あの綺麗な顔をした少年の言葉が蘇る。
――パシン!
途端、ヨリコの左肩に衝撃が走った。
驚いて振り返ると、そこにあったのは警策を持って佇む幻庵和尚の姿だった。
「無心になり切れていないようですな」
「面目ない……」
ヨリコはそう言って頭を下げた。
「折角この山奥まで来ようとも、心配事はわたしを逃がしてくれないようです」
「禅には前後裁断という言葉があります」
「……どのような意味で?」
訝しむようなヨリコの様子に、幻庵は笑みを見せて答えた。
「過去も未来も切り捨て、今に集中せよという意味です。過去は記録、未来は予感に過ぎませぬ。心配や悩みは、その分だけ今を見る目を曇らせますぞ」
「それはそうですが……」
「ふむ、お立場があるとなかなかそうもいきませんか。では、どうでしょう。拙僧と一局」
それは幻庵から将棋の誘いだった。
元々ヨリコは父と祖父の影響で、思春期に入るまでは流行りの音楽やファッションより、将棋に興味を持っていた。生まれつきの地頭の良さもあり、小学校卒業時点での棋力は大人顔負け。
一方の幻庵は、地元の将棋指しの中ではちょっとした有名人で、かつては市の大会で優勝した経験もある。
了承すると、幻庵はヨリコを方丈へ招いた。
畳敷きの20畳ほどの空間は、実は以前にも訪れたことがある。
もう10年以上前のことで、その時も座禅の後に一局と誘われた。
部屋の奥に飾られた山と鹿が描かれた掛け軸は、その時から変わっていない。
幻庵がお茶を淹れて出し、ヨリコが啜っている間に脚付きの将棋盤が用意された。
「香車を一本ひいた方がよいですかな?」
双方駒を並べ終える寸前、そんな問いが飛んできた。
あまり覚えていないが、10年前は平手だったはずだし、負けはしたとしても記憶にないくらいだ。とすれば、そこまでの圧倒的な力量差はなかったはず。
「結構です」
「そうですか。なら、先手はお譲りしましょう」
その申し出を無視して、ヨリコは無言で自分の歩を5枚摘まむ。
それらを手の中で振り、畳の上に投げると表が3枚現れた。
表情を引き締めるヨリコに対して、幻庵は微笑まし気に目を細めるばかり。
「「お願いします」」
発声の直後、ヨリコは初手から角道を通す。
それから両者は黙々と手を進めた。
中盤の難所に差しかかり、ヨリコの手が止まったところで幻庵が口を開いた。
「それにしても、矢倉とは珍しい」
「珍しい?」
意味が分からず訊き返した。
矢倉戦と言えば将棋の花形。
それがヨリコの認識だったからだ。
「左様。近年では矢倉の採用がプロの間でめっきり減りましたから。AIによる分析が進み、あまり有望な戦法と見做されなくなったのが原因ですな」
「知りませんでした。わたしの時は、矢倉は将棋の純文学とか、矢倉の正解に辿り着いた者が名人になるとか言われていたのに」
言葉以上に、ヨリコは驚いていた。
矢倉が消えつつあること。それ以上に、何百年も不変のルールで行われていた競技の根幹が、ものの数年のうちに崩れてしまったことに。
「諸行無常。変わらないものなど何一つありやしませんよ……それより、手番ですぞ」
促されて、ヨリコは駒台に手を伸ばした。
途中までは均衡を保っていた盤面だが、やがて彼我の勢いに明確な差が見え始めた。
劣勢。
それを巻き返そうと、ヨリコは頭を捻る。
第一感は、攻め掛かる手。今なら相手の急所を突けるし、迫力もある。
しかし、よくよく先を読んでみると、正確に対応された場合はあと一手届かない。
――きっとこの人は間違えてくれない
であれば、苦しくても受けに回るしかない。
そう考え、ヨリコは自陣に手を入れた。
しかし、そこからはなかなか攻めの手番が回って来ない。
気付けば、相手の攻めに対応を続けるだけのジリ貧展開。
やがて、
天王山の角――
幻庵が放ったその一手は、飛車取りでありながら詰めろ――つまり、次でヨリコの王将を即詰みに討ち取らんとする手だった。
事実上の「王手飛車」。いや、王手飛車の方がマシだったかも知れない。
悩まず、苦しまず、ただ負けを認めるだけだからだ。
しかし、現状で王手はまだ来ていない。
であれば、どうにかして自玉と飛車、その両方を助けられるのではないか。
その微かな希望が手放せず、気付けばヨリコは長考に沈んでいた。
幻庵は短く息を吐くと腰を浮かせ、襖を開けて方丈を出ていった。
暫くしてから戻ってくると、手にしたお盆には水菓子がのっている。
その水菓子を楊枝で口に運ぶと、やおら幻庵は口を開いた。
「悩ましいですな」
そのひと言が、手詰まりとなったヨリコには降伏勧告のように聞こえた。
「ありません」
頭を下げると、同時に和尚も「ありがとうございました」と礼をした。
「どうですかな。だいぶ、目の前のことに集中していた様子でしたが」
「はい、お陰様で」
そう言って水菓子を口に運ぶと、その甘さに頬の筋肉が僅かに緩んだ。
「先々のことにアレコレと悩むのは必要なことでしょう。しかし、偶には今この瞬間に己を浸すこと。さすれば人生の味わいはより深まるでしょう」
「……何が悪かったんでしょう?」
角に睨まれた自陣と飛車を見つめながら、ヨリコが呟く。
飛車を庇えば、そこからは詰みまでは一本道。
思えば、自分の政権運営は発足から今まで一本道だった。
諸外国から援助を受ける代わりに、予算の自由を制限された状態で発足した島津政権。
ひと昔前の政府が行ってきたような、新政権を祝う打ち上げ花火の如き派手な施策は何もできなかった。
ダンジョン採掘の推進が、その代わりに打ち出せる唯一の目玉政策。
当時はそう思っていたし、今考えてもあの時点では最善の選択をしたと思っている。
しかしその結果が、今の芳しからぬ状況だ。
――仮にわたし以外の誰が首相だったとしても、結果は同じだったんじゃないかしら?
「最善を尽くすことが、必ずしも最良の結果に繋がるわけではありゃせん」
禅問答の如き台詞が、和尚の口をついて出た。
「最善の一本道が敗北に繋がっているなら、最善を尽くさねばよい。そなたはちと、生真面目に盤面を見すぎなのです」
「しかし――」
反論しようとするヨリコを、和尚は手で制した。
「正解を選ぼうとしてもキリがない。と言うより、人間は必ず間違える。だからこそ、この盤上競技は今でも残っておるのでしょう」
「……そういうものですか」
終局より十数手前、ヨリコは無理と見て敵陣への攻撃を見送った。
思えば、そこが格上である幻庵に圧を掛ける最後のチャンスだった。
相手はきっと間違えない。絶対に最善手で返される。
信頼していると言えば聞こえはいいが、その思い込みこそが罠だったのかもしれない。
ヨリコの前に座っているのはAIでもなければ、一人の生身の人間なのだ。
攻め込んでもやはり負けたかもしれない。
だが、相手に考えさせることはできた。
――わたしの相手は、いつだって人間なのよね
――コーン
暫しの静寂を破り、方丈の外で鹿威しが鳴った。
「正解が選べないとしたら、わたしはどのような手を選べばいいですか?人間は間違える。それは仰る通りですが、どうせなら意味のある間違え方をしたいです」
「ほっほっほっ。間違えてもそこに意味を求めるとは、何とも欲深いですな」
幻庵は一度目を細め、しばしの間、思案気に指先で顎を撫でていた。
「迷った時は、目の前の安全を一度疑ってみることです」
「安全ですか?」
意外な言葉に、思わずヨリコは訊き返していた。
「左様。人は安全を選んでいるつもりでも、実際には危険を先送りにしているだけのことがある」
幻庵は湯飲みに口を付けてから続けた。
「これは、かつて将棋の名人を取った人物が語ったことです。曰く、どうせ取らねばならぬリスクなら、出来る限り早く取った方がよい。譬え同じリスクであっても、後から取ろうとするとその代償は過ぎた時間の分だけ膨らむものだから、と」
なるほど、そういう考えもあるのかとヨリコは内心で独り言ちる。
同時に、如何にも勝負の世界に身を置く人間らしい言葉だなとも思った。ほとんどの人間にとって、リスクは取るものではなく避けるものだからだ。
ふと、視線が目の前の盤の上に落ちる。そこには安全を優先し、攻めを見送った末の一方的な終局図が広がっていた。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。自分が負けても何が悪かったかも分からないということは、思うにリスクをちゃんと取れておらんのでしょう。だから勝負所さえ作れないまま、ずるずると劣勢になった」
「……勝ちの流れに乗れていないのに、その流れに身を任せてしまったことがそもそもの敗因みたいですね」
「左様。まずは流れを感じること。その流れが悪いなら、リスクを取ってでも流れを引き寄せに行くことが勝負の肝」
そこまで言ってから、幻庵はニヤリと笑みを見せた。
「確かにそなたの腕は中々のもんじゃ。とは言え、ワシ相手に危険を冒さず安全勝ちしようというのは、少々虫が良過ぎるのでは?」
その言葉に、ヨリコは俯きながら膝の上で拳を握りしめた。
――リスク、か
これまで避けようとしてきたものを、敢えて取る前提で考える。
それだけで、ヨリコは自分の視野が一段広がったように思えた。
――総理の覚悟次第だと思います
あの日の言葉が、もう一度脳裏を掠めた。




