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国家を超える個人  作者: 福鳥シン
第2章:お披露目編
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第16話:4500円の味

人生における初めての経験というものは、仮にそれがごくありふれたものであっても、通常は一定の覚悟が要求される。


人生で初めて水中で目を開ける時、一切の恐怖を感じない人はまずいないだろう。大人のマネをして初めてのコーヒーを飲もうと思ったら、未知の苦味に対して腹を括る必要がある。初恋のような心の動きですら、ひとたびその自覚が芽生えれば、相手に話しかけることにさえ覚悟が要求されるようになるのだ。


斯様の経験則があればこそ、シュウジはアイの言葉に仰天した。


「さて、次はどこに行こうかしら?せっかくのデートなのに、お買い物だけで終わりじゃ寂しいわよね」

「デ、デート!?」

「あら、デートじゃないの?」


無事にスーツを買い、店を出て再び寒空の下に戻ってきた直後のことである。

アイは口角をあげて微笑むと、悪戯っぽい目をシュウジに向けてきた。


――これが、デートってやつなのか?


人生初のデートは、何の覚悟も実感もないままに始まってしまっていたらしい。衝撃の事実に驚いて固まっていると、それでもアイはお構いなしに言葉を続けた。


「ちょうどおやつの時間よね。シュウジくんはお腹減ってる?近くに馴染みのカフェがあるから、そこに行きましょう」

「お腹は、今はあんまり……」

「そう?若いんだからちゃんと食べなきゃダメよ?キミ、ただでさえ細いんだから」


アイは子を窘める保護者のような顔を見せてから、「こっち」と歩道を横切るように足を向けた。


案内されたのは、大通りから一本入ったところにある、地下のカフェだった。

天井から吊るされたシャンデリア、その下に据えられている大きなフラワーアレンジメント、四方の壁に掛けられた西洋絵画。

客層は初老の紳士や上品なマダムが主で、外の歩行者天国を歩いていたような観光客や若者の姿は見られない。

店内には静かにクラシック音楽が流れていて、隣のテーブルの会話をうまい具合に掻き消していた。


「ここならゆっくりお話しできるかなと思ったの。わたしたち、いろいろ摺り合せが必要みたいだし」


重厚なベルベットの椅子に腰掛け、メニューを持って来た店員が踵を返すのを待ってからアイが口火を切った。


「席が離れてるから大丈夫だと思うけど、一応、個人を特定できるような情報はシー、ね」

「はい」


口の前に人差し指を当てるその仕草を見て、思わずシュウジの頬が緩んだ。


「じゃあ、まずは飲み物を選んでしまいましょう。シュウジくんはコーヒー派?それとも紅茶派?」


その問いに対する正解は、「どちらでもない」だった。

これまで住んでいたあすなろ黎明園。

その食堂では煮出し麦茶の入ったポットが常備されていて、シュウジは毎日のようにそれを飲んでいた。その意味で言えば「麦茶派」になるのだが、そんな派閥の選択肢は与えられていない。


右も左もわからないシュウジは、結局アイと同じ「マーガレッツホープ農園のチャイナムスク」という、香水みたいな名前の紅茶をオーダーすることにした。

メニューによればポット1つで4500円。その金額には、驚き以上に呆れてしまう。


「どうしたの?」

「いや、ここのお金って」

「気にしないで。大人の特権ってやつよ」


アイは事も無げに言い、続けて質問を投げ掛けてきた。


「シュウジくんはわたしについて、『あの人』から何か聞いてる?」

「秘書で、ぼくと同い年の娘さんがいて、あと、ぼくの身元引受人になってくれる人って聞いてます」


現在は亜空間庁の施設で軟禁されているシュウジだが、タカシの養子となった以上、早急に日本国民としての生活に戻る必要がある。

そうなると、生活を始めるに際しての住む場所と、未成年なので保護者が必要になる。普通に考えれば、今出川の家に住むことになるのだが、養父となるはずのタカシは難色を示していた。

代わりに候補として挙げられたのが、清水谷家だった。


「ああ、その話、もうキミの耳に入っているのね……悪いんだけど、やっぱりウチでキミを引き取るのは、ね。娘もいるし」

「まぁ、そうですよね」


元より、シュウジはタカシの話に無理があるような気がしていた。

「親戚だから大丈夫」と言っていたが、親戚だって養子縁組で急に身内となった人間を受け入れるのに抵抗が無いとは思えない。


ほんの少しだけ、タカシが大丈夫と言うのだから大丈夫なんじゃないかとの期待はあった。しかし、現実的でないと頭で理解していた分、アイのやんわりとした拒絶から受けるショックは大きくなかった。


「勘違いしないでね。キミに問題があるって言ってる訳じゃないの。ただ、どうしても年頃の娘を持つ親として心配なだけで――」

「あ、いや、大丈夫ですよ。土台、無理な話だと思ってたんで」


すまなそうにするアイを、シュウジは慌ててフォローした。


「アイさんは悪くありません。むしろ、こんな無茶な話を計画した『あの人』に問題があると思います」

「ふふっ、ありがと。ちなみにだけど、わたしたちのところじゃなかったら、キミはどこで生活する予定なの?」

「さあ?普通に『あの人』の家じゃないですか?『俺はガキの面倒を見るつもりは無い』とか言ってましたけど」

「そう……」


アイが呟いたタイミングで、ウェイターがトレンチを持って二人の前に現れた。

見事な装飾が施された白磁のティーカップ。それにポットから紅茶が注がれると、テーブルを中心に、まるで花畑に足を踏み入れたような瑞々しい香りが広がった。


「これが4500円の味か」


ひと口飲んでから呟くと、可笑しそうにアイが笑った。


「美味しいけど、流石にこの紅茶にそこまでの価値は無いわ。4500円のほとんどは、都会の真ん中でゆっくり寛げることに対する代金よ」

「なるほど……」


空調の整えられた屋内で、フカフカの椅子に座りながらアンティークカップを傾けるひと時。


――この時間にお金を払えなければ、今頃ぼくたちもホコ天に並べられたチェアに座っていたわけか


そんな空想混じりの感想はさておき、シュウジはひとつ、別の質問を投げることにした。

「ぼくからも訊かせてください。ぼくについて、清水谷さんは『あの人』から何か聞いてますか?」

「聞いているわ――本当はノボルさんの子供じゃないってこと。それと、例の事件の生き残りだってことまで」


一瞬だけ、息が止まった。


「……その話ってどこまで広がってるんですか?」


自然と声のトーンが下がった。


「わたしも正確にはわからないけど、知っている人は限られているはずよ。わたしたち以外だと、一ノ瀬さん含めダン特の一部、あとは島津総理くらいかしら」


――つまりこれからの人生、その人たちには究極の泣き所を握られ続ける訳か


「難しい顔しないで!キミの存在は『あの人』にとっても急所になるから、話しても大丈夫な人にしか話してないはずよ」


大丈夫の基準を他人に任せること自体に不安があるのだが、シュウジには曖昧にでも頷くしかなかった。


「ところでだけど、今の生活はどんな感じなの?」

「朝起きたらメディカルチェックですね。初日にレントゲン撮ったり脳波測定したり、散々体中検査されたはずなんですけど、簡易的なのはまだ続けるみたいです。それが終わったら、お披露目パーティーに向けて座学と実習ですね」


パーティーは3日後に迫っている。

ちなみにであるが、スーツを作ろうと思ったら、納期の短いパターンオーダーでも数週間はかかる。今回はそこまで時間的な猶予が無いため、プレタポルテ、つまり既製服を買って微調整してもらうこととした。その微調整ですら1週間はかかるのが普通だが、今回は今出川の名前を前面に出し、特急対応してもらえることになったのだ。


ガワはそれでいいとして、シュウジにはパーティーでボロを出さないだけの内面の準備も必須だ。「今出川の遠縁の親戚」のはずなのに今出川家のことを理解していないのは論外だし、VIPの顔と名前が一致しないのも不味い。

ということで、シュウジはキョウコの指導の下、立ち居振る舞い実習と並行して情報のインプットも行っていた。覚えることは大量にあり、時間は無い。求められる集中力は中学校の定期テスト以上だ。


「それは大変ね。パーティーにはわたしも出席するし、何かあったらフォローするわ」

「ありがとうございます」

「でも、お勉強はサボっちゃダメよ?」


アイは茶目っ気たっぷりにそう言って、ふふふっと笑った。


「ねぇ、わたしに何かお手伝いできることはない?同居の件を断った埋め合せじゃないけど、できることがあるなら協力させてほしいな!」

「それは助かりますけど……」


――何をお願いしたらいいだろう


「そんなに難しく考えないで。本当に何でもいいのよ?」


挑戦的な微笑みを向けられて、シュウジは思わず目を逸らしてしまった。


「……なら、またこういう風に一緒に出掛けてくれますか?」

「あら、デートのお誘い?キミもけっこうダイタンね」

「あ、いや……そうじゃなくてですね」


一瞬の狼狽を見て、アイは悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべていた。

何度同じ手に引っかかってるんだと、自分で自分に呆れつつも、シュウジは内心の動揺を隠すように早口で捲し立てた。


「座学は独りでも進められますけど、例えば紅茶の銘柄選びとか、服を注文するときのポイントとか、そういうのは実際に経験しないと身に付かないと思うんです。今日も、清水谷さんがいなかったら服一つ買えませんでした。だから、実地訓練というか、必要な教養を身に付ける手伝いをしてもらえると助かります」

「ふぅん……上流階級の人間として生きる術をわたしに教えて欲しいってことね。わたし、こう見えてスパルタだけど、大丈夫?」

「はい」


尻込みしそうになりながらも返事を返すと、アイは紅茶をひと口すすり、薄い笑みを浮かべて目の前の少年を見据えた。


「じゃあ、最初のレッスンは女性の扱いからね」

「女性の扱い、ですか?」


予想外の言葉に、シュウジは思わず聞き返した。


「そ。女の人を誘うのに、実地訓練に付き合ってくれなんて言うのは如何にも野暮よ?相手に恥をかかせることになるじゃない。相手に恥をかかせるくらいなら、自分からかきにいく。それくらいじゃないと、合格点はあげられないわ」

「……すみません」


薄かった笑みが更に薄くなり、ほぼ無表情になったアイの圧に負けて、シュウジは早々に白旗を揚げた。


「謝罪が欲しいんじゃないの。謝るんじゃなくて、どう言うべきかを考えて言って」

「清水谷さ――」

「んー、それはどうだろう?わたしがキミのこと下の名前で呼んでるのに、バランス悪いと思わない?」


アイの目が据わっているのを見て、シュウジは内心震え上がった。

その言葉がレッスンなのか本気なのかすら、女性慣れしていないこの少年には判断が付かないのだ。


「アイさん」

「なぁに?」

「ぼくはアイさんみたいなチャーミングな人に、今までの人生で会ったことがありません。そのせいで緊張もするし、舞い上がってヘンなコト言っちゃってるかもですが……だけど、イヤじゃなかったらまたこうしてデートしてくれませんか?そして、ぼくが知らないことをたくさん教えて欲しいんです。どうか、お願いします」


そう言ってシュウジが頭を下げたが、反応は無い。

チラリと目線を遣ると、そこには肩を震わせ、吹き出すのを必死に堪えているアイの姿があった。


「合格よ……でも、そこまで言えとは言ってないわ」


口に手を当てながら肩を震わせているアイ。

一方のシュウジは、自分が何を口走ったのかをようやく理解し始め、今更のように顔へ熱が集まっていくのを感じていた。

逃げ出したい。 けれど、目の前の女性から視線を逸らすこともできない。


「……あの、今のは、その」

「ふふっ。言い訳は野暮よ?」


紅茶の湯気の向こうで微笑むアイは、どこか楽しそう。

女性の扱いは難しい――

人生初のデートで、シュウジはそのことを骨身に沁みて思い知った。


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