風の追想片々録/雨と鼻歌
このまま時が過ぎていくものだと思っていた。
最初は驚かれこそしたが、秘術を扱う者同士、鼓の時の流れ方にも、比較的すぐに理解が示された。
倹は長を担っているだけあって、思慮深く、強い統率力を備えている。
映は里の中に留まり、日々倹の元へ届く報せを一次的に捌くなど、副長のような立場にいる。
「何か手伝おうか」
朝食を済ませた後はいつも畑へ赴いてから事務仕事をしている映が、雨天の今日はせかせかと書類を認めている。
「あらそう? じゃあその紙を束ねてくれる? もう片付いた仕事の雑記だから
あ、でも裏が白紙のがあったら避けといてくれると助かるわ」
指差された壁際には、大量の紙が絶妙な均衡を保ちながら山を成している。
「そっちのは?」
「これはまだ。明日の臨時集会が終わったら少しは片付くけどね」
「すげー量あんなあ」
「頭数は少ないけど、1つの集団をまとめるのは大変なのよ。うちみたいな気性の集まりは特にね」
「なるほどね」
映の指示通り、片手で持てる程度に固まりを作り、紐で結いていく。
雑記と言えど、いずれ燃やすらしい。万が一のことに備え、忍にまつわる記録は徹底的に管理されている。
だからこそ、鼓にとっては疑問だった。
「…………俺がここにいるのは、本当はよくないんじゃないのか」
時を経るにつれて積み重なったもの。
本当は口に出すことも恐れるほどの。
「何言ってんの。とんでもない輩だったらとっくに追い出してるどころか、あの人が声をかける前に亡き者にしてるわ」
「物騒だな」
笑い種に、なるといい。
縋ることすら赦されない身にある己にとって、この場所はあまりにも居心地が良すぎる。
「故郷は蓬莱なんだっけ」
手を動かしながら映が問う。
「まあね」
「どんな所なの?」
言葉に詰まってしまった。
ただひたすらに、「抜け出したい」としか思っていなかったから。
肌に触れる空気にも、目に映る花や木々にも、特別な感情や彩る言葉を抱いたことなど皆無だった。
全て、全て己を縛る鎖でしかなかった。
「……ここに、似てるかもしれない」
「そう」
再び会話が途絶えた。
一定の動きを繰り返しながら、たまに止まりながら、それぞれの仕事をこなしていく。
「この里の方が、ずっといい」
静寂を破るように、ぽつりと言った。
生まれた地から伸びる鎖が枷ならば、ここには錨を下ろしたい。そう思わせてくれる場所だ。
「嬉しいこと言ってくれるねえ」
つくづく不思議な人だ。
いるだけでその場の空気を和ませるような彼女が、かつては死と隣り合わせの場にもいたことが、鼓には信じ難かった。
「うちの息子、いるでしょう」
手を止めずに、映が話し出した。
この夫婦には、すでに忍務に就いている一人息子がおり、鼓にもよく懐いていた。
「本当はね、もう一人いたのよ。生きていれば、来年成人」
にわかには理解できなかった。
「命」も「時間」も、鼓にとっては刹那的なものではない。
「雨季に川への立ち入り禁止にするようになったのは、うちの子が行方不明になったからなの」
約1か月に及ぶ雨季を迎える前、そして過ぎ去るまで、しつこいほどの禁止令が周知され続けていたのを、鼓も幾度か経験してきた。
「あの人は言わないだろうけど、あの場所で鼓に出逢えたのは奇跡みたいなことなのよ。
生まれ変わり、だなんて言ったらあなたには迷惑ね。でもそれくらい、倹にとっても私にとっても、嬉しいことだった」
今、言葉が出ないのは、不勉強ゆえだろうか。
もっと多くを知れば、胸中に生まれたこの感情を、どうにか表現できるのだろうか。
「……俺は、ただ、死ぬことすらできねえから生きてるだけだ。
そんなこと言ってもらえるような奴じゃない」
「なら、あなたは『持ってる』んだよ」
「持ってる? 何を?」
「生きるか死ぬか、選べるなんて、何もない人の贅沢な特権だよ。
どっちかにせざるを得ないなら、その人はそうならざるを得ない何かを持ってる。
鼓が生きることしかできないなら、何か生きる意味を持ってるんだと私は思う。
そんなの無くったっていいとも思うけど、探しながら生きてみるのも、いいんじゃない?」
不思議な人は、不可思議なことを言う。
「よし、こっちは終わり!
おやつでも食べようか。昨日隣のお宅から美味しいお菓子貰ったんだ♪
準備しとくから、適当なところで居間に来てね」
他の二人には内緒ねと言いながら、部屋を出ていった。
一人残された部屋は、鼓に必要な孤独をもたらした。
人は嬉しい時、楽しい時には笑い、悲しい時、寂しい時には泣くのだと、この里で初めて知った。
けれど、今はなんだ?
心を満たしているのは「喜び」のはずなのに。
やがて雨音を割いて、機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてきた。
それが止んだのは、鼓の視界が鮮明さを取り戻した頃だった。
お読みいただきありがとうございました。
偶然にも今の季節と合った流れになりました。
このエピソードについても書きたいことがたくさんあるので、折を見て出していけたらなと思います。




