風の追想片々録/開祖
休講の日。朝から三人揃って常若の外へ見回りに出掛ける。
「鼓にも緘楽聚からの笛の音が聴こえたら場所を辿れるのになあ」
まだ会えないという親の言いつけであっても、やはり会いたい気持ちはどうしても抑えが利かない。
「でも『容易じゃない』ってことは、できるにはできるんだろ?」
「できるけど、数日で掴めりゃいい方だ。その間俺は他のことはほぼ何もできなくなるし、分かったって力の使いすぎでしばらく動けない可能性だってある」
「鼓でもそんなに──」
「相手は忍の知力だぞ? お前らもよく知ってるだろ。
紡いだ歴史は俺の生きた時間よりも遥かに長い」
悠久の大河の中に落ちた水滴の如く、鼓も溶け込み流れゆくはずだった。
──彼がただの人間として放浪していたのであれば。
*
「お前さん、見ない顔だな」
川辺で休んでいたところ、壮健な男性に話しかけられた。
黒い衣服を纏い、捲った袖から見える太い腕には古傷が刻まれている。
人気のないことを十分に確認したはずだったが、疲れているのか、感覚が鈍っているのか。
──否、男が気配もなく現れたのだ。
只者ではないと感じ、咄嗟に身構える。
「そんな警戒しなさんな。こっちは魚を釣りに来ただけだ。ここらが穴場なもんでね」
せり出した巨岩の上にドカッと座り、器用に枝を避けて釣り竿を振る。
着水し、水面に波紋を作った浮きが小さく上下を繰り返す。
一瞬沈んだかと思えば、片手で竿を引き上げると既に魚がかかっており、針から外して魚籠に入れる。
見事な手捌きに目を見開く鼓を気にもせず、淡々と魚を釣っていく男。
3匹目を釣り上げてから、「じゃ、お先に」と言って元来た道を戻っていった。
「魚か──」
蓬莱を出て以来、まともな食事を摂っていない。
ただ、この身体は飲まず食わずでも生きられるらしい。いっそ痩せ細って潰えたって構いはしないのに。
かつて暮らした蓬莱で、兄のようだった存在から一度、釣りを教わったことがある。
懐かしさを覚え、暇潰しにやってみるかと思い立つ。
いい具合に撓る枝を探し、糸は解れた衣服から幾分か調達した。
水流の感覚とは異なる、小さな振動が竿を伝って手に届いた。
勢い任せに引くと、糸の先に結びつけていた餌が消えている。
「──へえ」
修行を始めて間もなく仙術を身につけた自負が、道具を使った漁に苦戦するという事実を認めはしなかった。
翌日、また男がやって来た。
「おう、まだいたのか──って、何だそりゃ!?」
数多の魚が泳いでいる。川の中ではなく、陸地に座す、型枠も何も無い、寒天の如き「水の箱」の中で。
「やっとコツが掴めたんだ。気づいたら朝になってた」
「夜通し釣ってたんか」
「昼と夜じゃ釣れる魚も違うんだな。おもしれえもんだと思って」
楽しそうに話しながら尚も竿を振っては魚を釣り上げ、水の箱の中で泳がせるに至る。
「その水の箱みてえなのは何だ?」
「作ってみた。あんたがまた来たらやろうと思ってさ」
「答えになってねえな……」
「好きなだけ持ってってくれ」
「お前さんは食わんのか」
「旨そうじゃねえしなあ」
「この時期はまだ脂乗ってねえから、生よりは火を通した方がいいな」
「あぶら?」
「食ってみるか?」
「いや、いい」
「食わず嫌いは損だぞ。
して、どっから来たんだ?」
「……遠い所」
「家出か」
「そんなところ。帰る場所はもうない」
水の箱の中を泳ぐ魚を眺めながら口にした鼓の言葉が、思案の間を生んだ。
「そんなら、ちょっとうち来てみるか」
「行かねえよ」
「どうせ暇なんだろ? 魚の礼だ。4匹貰ってく。他は川に放してやれ」
「全部持ってきゃいいのに」
「必要な分だけありゃいいんだ。ありがとな」
ふうんと返してから、手を少し動かし、4匹減った水の箱を一気に川へ戻した。切り取られた水が川の一部に戻るまで、風が二人の間を吹き抜けた。
「不思議な術だな」
「……いけね。見せねえようにしてたんだった」
「言いふらすつもりはないさ。俺は倹と言う。お前さんの名前は?」
「……………鼓」
「一文字違いか! いい偶然だなあ! 俺の住んでる所は退屈しないと思うぞ。さあ行こう」
「まだ行くって決めたわけじゃ──」
「もうじき雨季に入る。そうするとこの川は水嵩が増して暴れるんだ。
ここで死別は俺としても惜しいからな!」
悪い冗談を口にして屈託なく豪快に笑った男に興味を持ち、着いて行ってみることにした。
何より、“師”が警鐘を鳴らしていた、己の術に対して拒絶や恐怖を見せなかったことが最大の理由だった。
錦の曽祖父であり、希の高祖父にあたる、後に“緘楽聚”と名づけられることになる、“始まりの里”の開祖となった男との邂逅の時、長い縁の始端が結ばれた日だった。
お読みいただきありがとうございました。
鼓と彼らの過去をこうして明文化することができ、感慨深いです。




