Ⅴ.ヘンゼルとグレーテルの向かう先
「――杏柰!」
不意に名を呼ばれ、現実に引き戻された。倒れかけたオレは中里に抱き抱えられている。
「お前、本当に大丈夫か」
「え、えぇ」
汗と雨の匂い。お姫様抱っこ。ふくよかな胸を押し当てられ、罪悪感と幸福感が混在して胸が詰まる。自重するように、美女の肉体から身体を離してホールドを解く。
「今は一刻も早く、ピオーネ森を抜けるんだ」
勇敢な露払いはそれ以上は言及せず、ふたたび地面を蹴った。
左に折れたロザリオロードを真っ直ぐ突き進むと、ようやくピオーネ森の入り口が見えてくる。今のオレたちにとっては出口だ! 繁茂を穿つ足並みが急加速する。
森を抜けたところで、オレと中里は中腰になって膝小僧に両手をついた。乱れた呼吸を整え、顔を見合わせて安堵の息をつく。雨に打たれ、霹靂と岸頽れに遭い、樹海の中を往復し、体力も精神力も使い果たしていた。
「ところで杏柰は此処へ何しに来たんだ? 何故、林の中で寝ていた」
「葡萄狩りに来たの。ツアーの招待状が届いて」
「葡萄狩りツアーだって?」
中里はポケットから地図を出す。
「葡萄畑はピオーネ森の手前の路地を廻ったところにあるようだが。それにシャベルとスコップは何に使ってたんだ?」
「そ、それは……」
目の前のオレは今、完全に変なキャラクターとして映っているだろう。訝し気に首を傾げる中里を、何とか煙に撒こうと言い訳を考える。
「えっとその、それより中里さん、文子ちゃんは」
ツアー参加者じゃないのか? ずっと疑問に思っていたことだ。
「俺はアルバイトに来たんだよ」
あからさまに話題を挿げ替えられ、出鼻をくじかれた俺っ娘は一瞬、鼻白む。
彼女はこれまでの経緯をザックリ語りはじめた。葡萄村の外れにある別荘地の所有者が、この秋に急死したため、遺族が遺品整理の応援を依頼したらしい。中里は登録制の派遣会社『㈱烏丸very berry 仏蘭西』に所属しており、アルバイトスタッフとして別荘の住人に雇われたとのことだった。山梨駅からはボンネットバスに乗車し、最寄りの停留所――終点か――で下車したようだ。
「別荘地へ向かう途中、木立の中で君が倒れていた」
それで合点がいった。密林を抜ける道を先頭切って誘導できたのも、補正道路の先に休憩所とバス停があることを知っていたのも。彼女にしてみたら、今しがた通ってきた道を引き返しただけに過ぎなかったのだ。とはいえ、オレのせいで無駄に往復させてしまったことになる。
「地図に沿ってロザリオロードを曲がる時に念のため、姫林檎の小枝を折って落としておいたんだ」
赤い実の目印が役に立って良かったよ、と中里は紅く染まった鼻を啜って口角をあげた。
胸が熱い。顔が火照る。オレは本物のグレーテルじゃないか。グリム童話の中を冒険しているよな錯覚に囚われる。謝罪するのも、礼を言うのも照れくさくて。勇敢なヘンゼルを直視できなかった。
自身の目的地とは反対方向なのに。オレのために……。
「ありがとう」
届かないほど小さな声で。俯いたまま囁いた。
「ん」
中里も照れているのか。オレの頭をポンポンと軽く叩くと、そっぽを向いてしまう。
今のはズルいぞ。反則じゃないか。
別荘の遺品整理は泊まりがけでおこなうことになっているそうだ。
予め雇用されている中里はともかく、まったくの部外者であるオレが押しかけていって良いものか。先方に拒否される可能性は極めて高い。
言い条、村を下りない限り他に宿泊施設はなさそうだ。元より日帰りツアーである。
「予期せぬアクシデントだ。事情を話して、何とか頼み込んでやるから」
比喩ではなく文字通りに青天の霹靂なのだ。軒下だけでも借りられるなら。
「それにしてもツアーってことは。他にも参加者がいたことになるよな」
彼らは今、どうしているんだろう。中里は呟き、片耳に小指を捩じ込みながら思案した。
「それならきっと、リフトに乗って帰ったはずだわ」
葡萄村は、葡萄畑の手前側にリフトの乗降場、森の出口にバスの発着所。ピオーネ森を挟んで、それぞれ二つの移動ルートが存在していることになる。終着点はいずれも山梨駅。
「だからリフトなんか通ってないって。事務所から渡された資料にも載ってないし」
中里は頭を掻いた。添付された地図を片手に先導しながら歩きだす。
その時、何者かが背後から近づいてきていることに、オレたちは気づかなかった。
「ところで、その別荘の名前は? アタシたちは何処へ向かっているの」
オレは意を決して訊ねてみる。
中里は半身、振り向いた。
「葡萄館だよ」




