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葡萄館の殺意   作者: 乾レナ(冷愛)
謎解きは事件の前に
10/28

Ⅴ.ヘンゼルとグレーテルの向かう先


「――杏柰!」

 不意に名を呼ばれ、現実に引き戻された。倒れかけたオレは中里に抱き抱えられている。

「お前、本当に大丈夫か」

「え、えぇ」

 汗と雨の匂い。お姫様抱っこ。ふくよかな胸を押し当てられ、罪悪感と幸福感が混在して胸が詰まる。自重するように、美女の肉体から身体を離してホールドを解く。

「今は一刻も早く、ピオーネ森を抜けるんだ」

 勇敢な露払いはそれ以上は言及せず、ふたたび地面を蹴った。

 左に折れたロザリオロードを真っ直ぐ突き進むと、ようやくピオーネ森の入り口が見えてくる。今のオレたちにとっては出口だ! 繁茂を穿つ足並みが急加速する。


 森を抜けたところで、オレと中里は中腰になって膝小僧に両手をついた。乱れた呼吸を整え、顔を見合わせて安堵の息をつく。雨に打たれ、霹靂と岸頽れに遭い、樹海の中を往復し、体力も精神力も使い果たしていた。

「ところで杏柰は此処へ何しに来たんだ? 何故、林の中で寝ていた」

「葡萄狩りに来たの。ツアーの招待状が届いて」 

「葡萄狩りツアーだって?」

 中里はポケットから地図を出す。

「葡萄畑はピオーネ森の手前の路地を廻ったところにあるようだが。それにシャベルとスコップは何に使ってたんだ?」

「そ、それは……」

 目の前のオレは今、完全に変なキャラクターとして映っているだろう。訝し気に首を傾げる中里を、何とか煙に撒こうと言い訳を考える。

「えっとその、それより中里さん、文子ちゃんは」

 ツアー参加者じゃないのか? ずっと疑問に思っていたことだ。

「俺はアルバイトに来たんだよ」

 あからさまに話題を挿げ替えられ、出鼻をくじかれた俺っ娘は一瞬、鼻白む。

 彼女はこれまでの経緯をザックリ語りはじめた。葡萄村の外れにある別荘地の所有者が、この秋に急死したため、遺族が遺品整理の応援を依頼したらしい。中里は登録制の派遣会社『㈱烏丸(とりまる)very berry 仏蘭西(フランス)』に所属しており、アルバイトスタッフとして別荘の住人に雇われたとのことだった。山梨駅からはボンネットバスに乗車し、最寄りの停留所――終点か――で下車したようだ。

「別荘地へ向かう途中、木立の中で君が倒れていた」

 それで合点がいった。密林を抜ける道を先頭切って誘導できたのも、補正道路の先に休憩所とバス停があることを知っていたのも。彼女にしてみたら、今しがた通ってきた道を引き返しただけに過ぎなかったのだ。とはいえ、オレのせいで無駄に往復させてしまったことになる。

「地図に沿ってロザリオロードを曲がる時に念のため、姫林檎(クラブアップル)の小枝を折って落としておいたんだ」

 赤い実の目印が役に立って良かったよ、と中里は紅く染まった鼻を啜って口角をあげた。

 胸が熱い。顔が火照る。オレは本物のグレーテルじゃないか。グリム童話の中を冒険しているよな錯覚に囚われる。謝罪するのも、礼を言うのも照れくさくて。勇敢なヘンゼルを直視できなかった。

 自身の目的地とは反対方向なのに。オレのために……。

「ありがとう」

 届かないほど小さな声で。俯いたまま囁いた。

「ん」

 中里も照れているのか。オレの頭をポンポンと軽く叩くと、そっぽを向いてしまう。

 今のはズルいぞ。反則じゃないか。

 別荘の遺品整理は泊まりがけでおこなうことになっているそうだ。

 予め雇用されている中里はともかく、まったくの部外者であるオレが押しかけていって良いものか。先方に拒否される可能性は極めて高い。

 言い条、村を下りない限り他に宿泊施設はなさそうだ。元より日帰りツアーである。

「予期せぬアクシデントだ。事情を話して、何とか頼み込んでやるから」

 比喩ではなく文字通りに青天の霹靂なのだ。軒下だけでも借りられるなら。

「それにしてもツアーってことは。他にも参加者がいたことになるよな」

 彼らは今、どうしているんだろう。中里は呟き、片耳に小指を捩じ込みながら思案した。

「それならきっと、リフトに乗って帰ったはずだわ」

 葡萄村は、葡萄畑の手前側にリフトの乗降場、森の出口にバスの発着所。ピオーネ森を挟んで、それぞれ二つの移動ルートが存在していることになる。終着点はいずれも山梨駅。

「だからリフトなんか通ってないって。事務所から渡された資料にも載ってないし」

 中里は頭を掻いた。添付された地図を片手に先導しながら歩きだす。

 その時、何者かが背後から近づいてきていることに、オレたちは気づかなかった。

「ところで、その別荘の名前は? アタシたちは何処へ向かっているの」

 オレは意を決して訊ねてみる。

 中里は半身、振り向いた。

葡萄館(ワインシャトー)だよ」

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