Ⅵ.忍び寄る影
「ワインシャトー?」
「館はフランス語でchâteau。葡萄酒の銘柄・シャトーとカケているらしい」
なるほど。いかにも作者が思いつきそうなネーミングだ。
「しかし新たに家を継いだ人間は、葡萄嫌いだそうだけどな」
中里は苦笑した。
「葡萄を愛して止まなかった元の持ち主が亡くなったのを期に、早々に売り払う予定だそうだ。それで遺品整理の手伝いがほしいと」
葡萄嫌い……か。
「何でも禁断の果実だと信じこんでいるようで」
聖書において、禁断の果実と云われているのは林檎である。これを食べたアダムとイヴは神の怒りを買い、エデンの園を追放されたという善悪の知識の実。
神にとって何がそこまで逆鱗に触れたのかは謎である。アダムとイヴに目覚めた恋心に対し、神の野郎は嫉妬したのではあるまいか。二人の男女が幸せになることを疎み、忌避したのだと思えてならない。だとすれば神は度量の狭い、とんだクズジジイではないか。まるで人間と変わりなく、共感できるだけに腹ただしい。オレはキリスト教徒ではないが、一頻り神の心情を斟酌して辟易する。
「ま、詳しい内情は俺も解らないけどな」
中里は肩を竦めて振り向いた。
いずれにせよ『葡萄館』の所有者が葡萄嫌いとは皮肉なものである。
「日給一万円。交通費は全額支給。一泊二日の三食付きの好条件に惹かれたんだ。おまけに勤務終了後は極上のワインが降る舞われるらしい。俺も丁度、二十歳になったし。ついでに山梨の観光旅行もできるとくれば一石二鳥」
何とも羨ましい話だ。
「オレ、いえアタシもやりたかったですっ」
「但し〝烏丸very Berry 仏蘭西〟――略して〝烏丸Berry〟――の社員に念押しされてるんだ。〝くれぐれも気をつけるように〟と」
「気をつけるって何をですの」
「さあな。それが解りゃ物案じする必要もないんだが」
中里はため息と伴に夜空を仰いだ。
美味い話には裏があるということか。
雨上がりの天空は澄んでいて、ギベオン隕石を散りばめたような星屑が、ひときわ強く瞬いていた。砕け散った秘伝の姿見の破片を想わせる。
そうだ、『男』を取り戻さなければいけないのだ。此処に来た真の目的をオレはまだ果たしていない。葡萄狩りも隕石発掘も、まったく成し遂げられないまま、一体何をやっているのか。
ザッ……
「おい。何か聞こえないか」
「え?」
中里が声をひそめた。
愁い事に耽っていたオレは、ハッとして顔をあげた。
ザッ、ザッ……
足音だ。オレと中里の足音に混ざって、砂利を踏む何者かの足音が増えている。
ザッ、ザッ
背後から忍び寄ってくる、オレたち以外の人間の気配。
ツケられている……?
中里とオレは足並みを揃えて歩調を早めた。
ザッザッ
背後の足音も心なしか早まった。
「ひょっとしたら山びこかもしれないわ。この辺りは山間だし、きっと足音が反響しているんだと思いますの」
天然ボケと思われても良い。オレは目の前の恐怖から逃避したくて、敢えて立ち止まってみた。杞憂であってほしい。ワンチャンス、一種の希望的観測でもある。
中里もピタリと止まる。
ザッ、ザッ…… ザクッ……
数秒のタイムラグの後、背後の足音も鳴り止んだ。山びこなんかじゃない。こんなに作為的な木霊し方があるものか。相手は尾行していることをオレたちに悟られまいとしているのだ。
それに足音は一人ぶんではない。重厚な主旋律に続いてもうひとつ、伴奏のような弱い副旋律も聞こえていた。
寒空の下、冷や汗が伝う。
ホウ、ホホゥ……
時折、フクロウの間抜けな鳴き声がして。間の手を打つように場違いなシンフォニーを奏でている。
「走るぞ」
中里が耳元で囁いた。
オレたちは夜の野道をダッシュで駆け出した。
ザッザザッ、ザクザク
背後の足音がスピードをあげて追いかけてくる。
中里とオレは韋駄天走りで畦道を抜けた。
くそっ、ゴスロリドレスは走りにくい。風を切るたびにフリルがぶわりと翻る。幾重にも重なったレースの裾は、ただでさえ生地が重いのに、雨水をたっぷり吸収しているのだ。
しかも中里はグラマーで、ややぽっちゃり体型。
二人揃って不利な状況下、汗だくで全力疾走する。火照った身体に山梨の秋風は心地好い。
視界の先、遠く近くに灯りが見える。数十メートル奥に洋館らしき建物が出現した。
しめた! あれが葡萄館か……?
ガッ
刹那、背後から伸びてきた魔手に肩を鷲掴みされた。
「きゃゃあああ」




