第四話 書類にないこと
大陸歴660年・初夏
父様は、書類を読むのが好きなのだろうか。王国高等法院から戻っても書斎で紙を広げ、休日にも何やら書き込んでいる。以前、何を読んでいるのか尋ねたら、『好きで読んでいるわけではない。必要だから読んでいるのだ』とおっしゃった。
なるほど。必要なこととはいえ、毎日あれほど文字を読むのは大変そうである。私なら歴史書を一冊渡していただいた方が嬉しい。
そんな父様が、最近は仕事とは別の書類を熱心に読んでいる。セリー姉様の婚約について、ヴァルモン家と取り交わす書類だそうだ。それは確かに大切なものだろう。ただ、婚約というのは、もっとこう、お互いにお祝いの言葉を述べて終わるものだと思っていた。
どうやら貴族の結婚は、そう簡単ではないらしい。
その日の午後、私は母様から封筒を預かった。
「エマ、これを父様へ届けてちょうだい」
「はい。承知しました」
書斎の扉を叩くと、すぐに返事があった。中では父様が机に向かい、紙の束を一枚ずつ確かめていた。窓から差す初夏の午後の日が、机の端まで届いている。書類の端は綺麗に揃えられていた。こういうところは、父様らしい。
「母様から、お届け物です」
「ありがとう。そこへ置いておいてくれ」
私は封筒を置いた。これで仕事は終わりである。忘れないうちに手帳へ書こうとしたところで、父様が顔を上げた。
「エマ。セリーは最近、どうしている?」
「どう、とおっしゃいますと?」
「普段と変わりはないか、ということだ」
何とも漠然とした質問である。父様にしては珍しい。
「学院へ行き、勉強をして、帰ってきたら母様のお手伝いをしています。いつもどおりかと」
「そうか」
父様は頷いたが、何か物足りなさそうな顔をしている。私は机の上の書類へ目を向けた。一番上には、セシリア・ベルナールという正式な名前が書かれていた。
「それは婚約のお話ですか?」
「ああ。両家で確認しておくことを整理している」
「ずいぶんたくさんあるのですね」
父様は、紙の束から一枚を抜き出した。
「まず、セリーもジュリアン殿も、学院を卒業するまでは今のまま学業を続ける。これは先方も了承している」
「はい」
「それから、持参財産の扱いだ。結婚後もセリー自身の財産がどう管理されるのか、曖昧にはできない」
なるほど。私の財産といえば、お小遣いと、少しずつ買い集めた本くらいである。だから、婚姻の取り決めがそんなところにまで及ぶとは、考えもしなかった。
「住まいについても確認している。将来、ジュリアン殿が伯爵領で務めを持つなら、セリーも領地で暮らすことになるだろう。ただし、王都の屋敷を利用できるようにする話は進んでいる」
「……それなら、セリー姉様は時々こちらへ戻れるのですね」
「もちろんだ。手紙や帰省のことも含めて、無理のない形を話し合っている」
私は、少し安心した。伯爵領へ行くからといって、この家と縁が切れるわけではない。頭では分かっていたが、父様が実際に確認してくださっていると聞くと、心強い。
「セリー姉様も喜ばれると思います」
「そうか。ほかに心配していることはないだろうか?」
私は答えを探した。セリー姉様は、ジュリアン様のお話になると嬉しそうにしている。けれど、お茶に砂糖を入れ忘れた日もあった。伯爵領へ行くのは楽しみでも、家族と離れるのは寂しいとおっしゃっていた。
「セリー姉様は、結婚するのが嫌なわけではないと思います。ただ……」
「ただ?」
「家を離れることは、やはり寂しいのではないでしょうか」
父様は少し黙った。
「帰省については、できる限り配慮するつもりだ」
「はい。そこは、とてもありがたいです」
話が少し違う方向へ進んだ気がする。しかし、父様は真面目に答えてくださっている。違うとも言いにくい。
「それに、セリー姉様がいなくなったら、私も困ります」
「身の回りのことなら、母様やメイドに相談すればよいだろう」
……。父様の考えた『困ること』には、どうやら髪を結う人が減る問題まで含まれているらしい。確かに、それも重大である。重大ではあるのだが。
「そういうことだけでは、ないのですけれど」
「そうか。では、ほかに何がある?」
そう聞かれると難しい。学院の帰りに一緒の馬車に乗ることも、お茶を飲むことも、ふとした時に話しかけることも、これからは当たり前ではなくなる。ただ寂しいと言えばよいのに、いざ父様を前にすると、なぜか説明したくなってしまう。
「……うまく言えません」
「分かった。話したくなったら聞かせてくれ」
父様は、それ以上は尋ねなかった。私は礼をして書斎を出た。書類のことなら、父様は何でも答えを持っているように見える。けれど、家族のこととなると、そうでもないらしい。
それは、少し意外だった。
夕方、居間でセリー姉様とお茶を飲んでいると、母様がやって来た。窓の外はまだ明るい。初夏は日が長いので、帰宅してからもこうしてゆっくりお茶を飲める。今日は砂糖も忘れずに入っていた。私が自分で入れたので、当然なのだが。
「二人とも、少しよろしいかしら」
「はい、母様」
母様は向かいに腰を下ろし、セリー姉様を見た。
「ヴァルモン家との話は順調よ。学院のことも、結婚後の暮らしのことも、アルが熱心に確認しているわ」
「父様には、お手数をお掛けしています」
「親なのだから当然よ。でも、あなた自身が気になっていることはない?」
セリー姉様は茶器に目を落とした。
「ジュリアン様から領地のお話は伺っています。ただ、実際に暮らすとなれば、分からないことも多いと思います」
「そうね。気になることは遠慮なく聞きなさい。婚約の話が進んでいるからといって、何もかも先方に合わせる必要はないのよ」
「はい」
母様はそこで私を見た。
「エマ。今日は父様とお話ししたのでしょう?」
「はい。書類がたくさんありました」
「あの人らしいわね」
母様は笑った。
「でも、どんなに細かく書き出しても、それだけでは分からないことがあるでしょう?」
私は首を傾げた。書けば記録に残る。忘れても後から読み返せる。ずいぶん便利な仕組みではないか。
「例えば、誰かと離れるのが寂しいという気持ちよ」
「それなら、書けますよ。『セリー姉様が家を離れると寂しい』と」
母様は一瞬黙り、それから声を立てて笑った。セリー姉様まで笑っている。何だろう。何か間違えただろうか。
「そうね、エマなら書くわね」
母様はそう言って、少し真面目な顔になった。
「ただ、書いたからといって、相手に伝わるとは限らないのよ」
「……そうなのですか?」
私は手帳を思い浮かべた。確かに、父様もセリー姉様も、勝手に私の手帳を読んだりはしない。書くだけでは、相手が知るはずもない。
なるほど。
記録することと、伝えることは、別の仕事らしい。
その日の夕食後、父様がセリー姉様を居間に呼んだ。母様と私も同席する。ルシ兄様は自室で勉強中、テオは明日の軍用獣の見学について飼育係へ渡す質問を書いているらしい。あの子も、必要なことは書いておいた方がよいと気づいたのだろうか。それなら結構なことである。
父様は、机に書類を並べた。
「セリー。婚約について、先方と確認した内容を伝えておきたい」
「はい、父様」
学院は卒業まで続け、婚礼は卒業後の夏を目途に準備すること。結婚後の住まいは伯爵領になる見込みであること。王都へ戻る機会も確保すること。そして、セリー姉様自身の財産の扱い。父様は、私にも分かるように一つずつ説明した。
難しい話もあったが、どれもセリー姉様が困らないように考えられている。父様らしい、丁寧な仕事である。
「ここまでで、何か質問はあるか?」
「いいえ。十分に考えてくださっていることが、よく分かりました」
「そうか」
父様は書類を揃えた。これで話は終わりらしい。ところが、母様が口を開いた。
「アル。まだ聞いていないことがあるでしょう?」
「何か確認が抜けていたか?」
「書類の項目ではなくて」
母様は、セリー姉様に視線を向けた。
「セリーが、今どんな気持ちでいるのかよ」
父様は、手にしていた紙を机へ戻した。
「前向きに考えているとは聞いているが……」
「ええ。でも、それだけではないでしょう?」
しばらく、誰も話さなかった。父様は一度セリー姉様を見て、それから私を見た。書斎での話を思い出したのかもしれない。
「セリー。ジュリアン殿との婚約について、お前はどう思っている?」
セリー姉様は背筋を伸ばした。
「嬉しく思っています。ジュリアン様は誠実な方ですし、私もこのお話を大切にしたいです」
「そうか。それなら……」
父様は言葉を切った。いつもなら、そこで話をまとめてしまう方である。
「ほかにも、思っていることがあれば聞かせてほしい」
セリー姉様は驚いたように父様を見た。そして、少し間を置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「結婚したら、今のように家族と過ごすことはできなくなります。分かっているつもりでしたし、ジュリアン様と過ごす将来も楽しみです。でも……」
セリー姉様の声が、少し小さくなった。
「この家を離れるのは、寂しいです」
父様は頷かなかった。何かを確かめるように、ただセリー姉様を見ていた。私は思わず口を開いた。
「私も困ります。セリー姉様がいなくなると、髪を結ってくださる方が一人減りますので」
母様が吹き出し、セリー姉様まで笑った。父様だけが、少し困った顔をしている。
「それは、メイドに頼めばよいのでは……」
「アル」
母様が、静かに父様を止めた。
「そういうことではないのよ」
父様は私を見た。今度は、すぐに答えを出さなかった。
「エマは、セリーと一緒に過ごせなくなることが寂しいのだな」
「……はい。もちろん、髪のことだけではありません」
父様は小さく笑った。
「分かったよ」
改めて言われると、少々恥ずかしい。しかし、事実である。家族の前では、証拠を揃えて反論する必要もないのだろう。父様は、セリー姉様へ向き直った。
「私は、お前が困らないように、できる限りのことをしておきたい。卒業のことも、財産のことも、帰省のことも、そのために確認している」
「はい」
「だが、それでお前の気持ちが全部分かるわけではないのだな」
セリー姉様は、静かに頷いた。父様は書類へ目を落とした。少しだけ言葉を探しているようだった。法律の説明なら、いくらでも続けられる方なのに。
「……私も、お前が家を離れるのは寂しい」
私は顔を上げた。父様がそんなことを口にするのは、初めて聞いた気がする。何かが起きれば事情を確かめ、順番に考える。父様は、いつもそうやって家族を支えてくださっている。
けれども、父様だって家族なのだ。セリー姉様が嫁ぐことを嬉しく思い、同時に寂しく思う。その二つが、どちらも本当であってよいらしい。
「セリー。結婚した後も、ここはお前の家だ。帰りたくなった時には、遠慮なく帰ってきなさい。先方の事情もあるだろうが、私たちはいつでも歓迎する」
「……ありがとうございます、父様」
セリー姉様の声が、ほんの少し震えた。母様は何も言わず、優しく頷いている。私も、しばらく黙っていた。
こういう時に何を書くべきか、手帳を開かなくても分かる気がしたからだ。
話が終わり、母様とセリー姉様が部屋を出た後、父様は私を呼び止めた。
「エマ。先ほどはありがとう」
「何がですか?」
「セリーが家を離れることを、お前がどう感じているか聞けたことだ。書斎では、うまく尋ねられなかったからな」
私は首を傾げた。別に立派なことを言った覚えはない。髪のことを話して、母様とセリー姉様に笑われただけである。
「私は、本当のことを言っただけです」
「それがよかったのだと思う」
父様は、机の書類をまとめながら続けた。
「お前もいつか、自分の将来について考えることになる。その時は、書類を整えるだけでなく、お前の話も聞こう」
「……そのお話は、もう少し先でもよろしいでしょうか?」
父様は笑った。
「もちろんだ」
私は安心した。まだ十三歳なのである。自分の婚約についてまで考え始めたら、手帳の頁がいくらあっても足りなくなってしまう。ふと机に目をやると、父様の書類の一番上に、小さな余白があった。そこには、今夜の話を聞く前にはなかった文字が書き足されている。
『本人の意向を再確認すること』
……。父様も、やはり書き留めるのか。私は何となく嬉しくなった。私の手帳とは違うけれど、父様も大切なことを忘れないようにしているのだ。
もっとも、今夜のお話の中で大切だったのは、その一行だけではない。父様が『私も寂しい』とおっしゃった時、セリー姉様の表情が少し和らいだこと。母様が何も言わずに見守っていたこと。そして、父様がすぐに説明を始めなかったこと。
そういうことも、覚えておきたい。
その夜、私は手帳を開いた。明日には、ヴァルモン家へ正式な返事を送ることになるらしい。婚約の話は、また一歩進むのだろう。セリー姉様が伯爵領へ行くのは、あと二年。まだ先の話である。それでも、今夜は一つ分かったことがあった。
父様の書類は、セリー姉様を守るためのものだ。そして、書類に書かれていない気持ちも、やはり大切なものなのだ。どちらか一つで済めば、話は簡単なのだけれど。
どうやら、家族というものは、そう簡単にはできていないらしい。
――エマの手帳より
『父様は、婚約の条件をとても細かく確認している。心強いことだ』
『セリー姉様は、結婚を喜んでいる。それと家族を離れる寂しさは、別の話』
『父様も寂しいらしい。これは今夜、本人から直接聞いた』
『書いておけば忘れにくい。でも、書くだけでは相手に伝わらないこともある』




