第三話 あと二年
大陸歴660年・初夏
縁談というものは、もう少し突然やって来るものだと思っていた。例えば立派な馬車で現れた伯爵家のご令息が結婚を申し込み、本人が驚く間に決まってしまう。前世の物語にはそんな展開が多かった。しかし、現実は少し違うらしい。
「セリー。あなたはジュリアン様のことを、どう思っているの?」
母様が尋ねた。
セリー姉様は少し考えた後、静かに答えた。
「礼儀正しく、誠実な方だと思います」
「そう。それならよかったわ」
「ただ、まだ婚約のお話を直接いただいたわけではありませんので……」
「ええ。もちろんよ。先方からも、まずはお互いの気持ちを確かめたいと書かれているわ」
なるほど。いくら貴族の結婚とはいえ、いきなり決まるわけではないらしい。
「それで、エマ」
母様が私を見た。
「はい?」
「今日、ジュリアン様にお会いしたのでしょう?」
「はい。学院の中庭でご挨拶しました」
「どんな方だった?」
「感じのよい方でした」
「そう」
「それに、私の手帳を褒めてくださいました」
母様は小さく笑った。
「あなたは本当に、それが嬉しかったのね」
「はい」
「セリー姉様とは、親しくお話しされていました」
そう答えると、母様はセリー姉様の方を見た。セリー姉様は、少しだけ頬を赤くした。おや。これは珍しい。私は思わず手帳を取り出しかけた。
「エマ」
母様に名前を呼ばれた。
「……はい」
最近、家族が私の行動を先回りするようになってきた。少々困る。
それから数日、我が家では手紙のやり取りが増えた。父様は書斎で書類を確認し、母様は来客の準備を執事と相談していらっしゃる。私の方はいつもどおり、学院へ通っていた。
「エマ、どうしたの?」
昼食の席でマリーに尋ねられた。
「さっきから、パンを持ったまま考え事をしているから」
私は自分の手を見た。確かに、まだ一口も食べていない。
「ちょっと家のことでね」
「何かあったの?」
リネも顔を上げた。
「大したことではないのよ。まだ決まったお話でもないし」
縁談はセリー姉様のことだ。正式に決まるまで私が勝手に話すのもよくない。
「何か困ったことがあったら、言ってね」
マリーは穏やかに微笑んだ。私は頷いた。家族のことを気にかけてくれる友人がいるのは、ありがたい。
「ところで、昨日の算術なんだけれど」
「エマ。今度はどこを間違えたの?」
リネは少し呆れたように笑った。まったく。縁談があろうとなかろうと、算術の問題は容赦してくれない。
数日後、ヴァルモン伯爵夫人が我が家を訪れた。もちろん、ジュリアン様も一緒である。伯爵夫人は想像していたより気さくな方だった。立ち居振る舞いは優雅で、言葉遣いも丁寧だった。私は母様から、くれぐれも失礼のないようにと注意されていた。何しろ、セリー姉様の大切な縁談に関わるお客様である。余計なことを言ってはいけない。もちろん、分かっている。
「エマリア・ベルナールと申します。本日はようこそお越しくださいました」
伯爵夫人は優しく微笑んだ。
「まあ、セシリアさんの妹さんね。よく似ていらっしゃる」
「ジュリアンからも、お話を聞いていますよ」
伯爵夫人が言った。
「そうなのですか?」
「ええ。とても熱心に勉強なさる妹さんだと」
私はジュリアン様を見た。ジュリアン様は、少し照れたように笑っている。とはいえ、伯爵夫人の前でわざわざ訂正する必要もないだろう。私は、大人しく微笑んでおいた。大人たちの話が始まると、私は早々に席を外すことになった。セリー姉様とジュリアン様は、庭を散歩することになったらしい。もちろん、二人きりというわけではない。少し離れたところにメイドも付いている。
私は窓から庭を眺めた。初夏の明るい庭では、若葉の影が小道に揺れている。セリー姉様とジュリアン様は、そこを並んでゆっくり歩いていた。何を話しているのかまでは分からない。しかし、特に困っている様子もなかった。私はそう思い、自室へ戻ることにした。階段を上がっていると、ルシ兄様と行き会った。
「エマ、どうしたんだい?」
「お客様がいらしているので、邪魔にならないようにと思いまして」
「ああ、ヴァルモン家の」
ルシ兄様は頷いた。
「セリーの縁談だね」
「はい」
「ジュリアン殿には、もう会った?」
「学院でもお会いしましたし、先ほどご挨拶しました」
「そうか。どんな人だった?」
……。
「礼儀正しい方でした」
「うん」
「セリー姉様とも、親しくお話しされていました」
「そうか」
「それから、私の手帳を褒めてくださいました」
ルシ兄様は笑った。
「それが一番大事なんだね」
「ルシ兄様は、ジュリアン様をご存じなのですか?」
「名前は知っているよ。剣術にも熱心だと聞いたことがある」
なるほど。やはり、ルシ兄様は剣の話になるのか。
「ルシ兄様は、法学の勉強と剣の稽古を両方なさって、疲れませんか?」
「疲れるよ」
あっさりした返事だった。
「それなら、どうして毎朝続けていらっしゃるのです?」
「好きだからかな」
なるほど。実に分かりやすい。テオが虎に夢中なのと、似たようなものだろうか。
「エマだって、毎日手帳を書いているじゃないか」
「それは、忘れないためです」
「それだけ?」
「……それだけですが」
ルシ兄様は、なぜか少し笑った。
「そういうことにしておこう」
妙に含みのある言い方である。けれど、詳しく尋ねればまたからかわれそうなので、私は黙っておいた。
「セリー姉様は、ご結婚されたら伯爵領へ行かれるのでしょうか?」
ルシ兄様は窓の向こうへ目を向けた。
「そうなるかもしれないね。でも、まだ先の話だよ。二人とも学院を卒業してからだろうし」
「……そうですね」
まだ二年もある。そう考えると、少し安心した。
ヴァルモン伯爵夫人が帰られた後、我が家では夕食の席でも縁談の話になった。父様によれば、先方は正式な婚約に向けて話を進めたいと考えているそうだ。ただし、結婚するのは学院を卒業してからになる。セリー姉様もジュリアン様も、まだ十六歳である。高等課程の勉強を途中でやめる必要はないし、両家としても卒業までは学院生活を続けさせたいらしい。
「セリーは、どう思っている?」
父様が尋ねた。セリー姉様は少し姿勢を正した。
「ジュリアン様は、誠実な方だと思います。私も、このお話を前向きに考えたいと思っています」
「ただ、まだ決定ではない。両家で確認しなければならないことも多い」
「はい」
「特に、結婚後の生活については、先方と十分に話し合っておきたい」
「それで、セリー」
母様がセリー姉様に向き直った。
「ジュリアン様と結婚することになれば、伯爵領で暮らすことになるわ。分かっているわね?」
「はい」
「王都とは、いろいろ勝手が違うでしょうから、今のうちに覚えておくことも増えるわよ」
「承知しています」
セリー姉様は静かに頷いた。母様は付け加えた。
「私だって、お嫁に来た頃は覚えることがたくさんあったのよ。セリーも、今のうちに少しずつ準備しましょうね」
「はい、母様」
「伯爵領……。伯爵領?」
つまり、セリー姉様は、この家からいなくなるのだろうか。
それでも、毎日顔を合わせることはなくなる。これは。少々困る。何しろ、私の髪を結ってくれる人が一人減ってしまう。……いや。もちろん、困るのは髪のことだけではない。セリー姉様と一緒に学院へ通うことも、分からない問題を教えていただくことも、お茶を飲みながら何でもない話をすることも。今のようには、できなくなるのだ。
「エマ?」
セリー姉様が私を見た。
「どうしたの?」
「……いえ、何でもありません」
もっとも、何を考えていたのかと尋ねられても、今は少々困る。私は大人しく夕食を続けた。
翌日の午後、セリー姉様と二人でお茶を飲んでいた。学院から戻って、夕食までの少しの時間である。開けた窓から初夏の風が入り、庭の葉をさらさらと鳴らしていた。私はいつもの席に座り、セリー姉様が注いでくれたお茶を一口飲んだ。苦い。いや、お茶なのだから苦味があるのは当然だ。しかし、いつもとは少し違う。私は茶器を見た。砂糖が入っていなかった。セリー姉様は、いつも私のお茶に砂糖を一つ入れてくださる。私が言わなくても、そうしてくださるのだ。
それなのに、今日は忘れているらしい。珍しいこともあるものである。私は自分で砂糖を一つ入れた。
「エマ、どうかした?」
セリー姉様が尋ねた。
「いえ。少しお茶が苦かったので」
「あら」
セリー姉様は私の茶器を見て、少し驚いた顔をした。
「ごめんなさい。砂糖を入れるのを忘れていたわ」
「大丈夫です。自分で入れましたから」
「そう」
セリー姉様は、小さく笑った。しかし、何となく元気がないように見えた。優秀なセリー姉様でも、考えることが多ければ、砂糖くらい忘れるのかもしれない。
「セリー姉様」
「なあに?」
「伯爵領へ行くのは、学院を卒業してからなのですよね?」
「そうよ。まだ先のお話だけれど」
「あと二年ですね」
「ええ」
セリー姉様は頷いた。
「長いようで、短いわね」
二年。前世の感覚では、案外すぐに過ぎてしまう時間だ。しかし、今の私は十三歳である。二年後には十五歳になっている。そう考えると、ずいぶん先のことのようにも思える。
「セリー姉様は、伯爵領へ行くのが楽しみですか?」
「そうね。楽しみなこともあるわ」
「そうですか」
「ジュリアン様も、領地のことをいろいろ教えてくださるし」
「それは結構なことですね」
「ええ」
セリー姉様は微笑んだ。ただ、何となく言葉が続かなかった。しばらくして、セリー姉様が口を開いた。
「でも、エマ」
「はい?」
「少し、寂しくなるかもしれないわね」
「伯爵領へ行くと、今のようには家族に会えなくなるでしょう?」
「……そうですね」
「ルシ兄様は、きっと相変わらず剣を振っているのでしょうね」
「そうだと思います」
「テオも、虎の世話ばかりしているのかしら」
「恐らく」
セリー姉様は笑った。
「父様も、書類を読んでばかりいそうね」
「母様に片付けるよう注意されるところまで、変わらないと思います」
「ふふ。そうね」
私も、少し笑った。何だか、いつもの会話である。しかし、セリー姉様はその後、少し黙ってしまった。
「セリー姉様」
「なあに?」
「伯爵領へ行かれたら、手紙を書いてくださいね」
セリー姉様は、少し驚いたようだった。それから、優しく笑った。
「もちろんよ」
「私も書きます」
「ええ。楽しみにしているわ」
「学院のことや、家のことなど、いろいろと」
「そうね」
何しろ、私には手帳がある。毎日の出来事は、ほとんど書き留めている。セリー姉様に手紙を書く時にも、困ることはないだろう。
「ルシ兄様が剣のお稽古をなさった回数や、テオが虎の世話に出掛けた日なども、お知らせできます」
セリー姉様は、声を立てて笑った。
「そこまで詳しくなくてもいいのよ」
「そうですか?」
「ええ。でも、ありがとう」
セリー姉様は、また笑った。今度は、いつものセリー姉様の笑顔だった。私は、少し安心した。
「それから、エマ」
「はい?」
「髪を結う練習も、ちゃんと続けないとね」
「……はい。二年もあれば上手になれるでしょうか?」
「ええ。私も教えてあげるから」
私は大人しく頷いた。どうやら私にも、二年間で覚えなければならないことがあるらしい。
その夜、私は手帳を開いた。学院では王国史の課題が出た。リネは算術の試験を心配し、マリーは母様からの手紙について話していた。ルシ兄様は相変わらず剣の稽古、テオは虎の話。実にいつもどおりである。それでも、セリー姉様の縁談は少しずつ進んでいる。私は今日の出来事を書き留めた。
『セリー姉様は、今日はお茶に砂糖を入れ忘れた』
『伯爵領へ行くことを、少し寂しく思っているらしい』
二年。まだ二年もある。そう思った。二年後の夏にも、きっと庭の木々は同じように茂っているのだろう。しかし、一緒に学院へ通い、帰ってきたらお茶を飲む。そんな毎日がいつまでも続くわけではない。
それは、少し寂しい。けれども、セリー姉様が幸せになるのなら、よいことではないか。そう思う。思うのだけれど。私は手帳を閉じた。明日もセリー姉様と一緒に学院へ行き、帰ってきたらまたお茶を飲めるだろう。いつもどおりである。
少なくとも、明日は。
――エマの手帳より ― 夜のまとめ
『セリー姉様と、伯爵領へ行ってからも手紙を書く約束をした。学院や家のことを書く。ルシ兄様の剣の稽古の回数までは要らないらしい。残念』
『婚約はまだ正式に決まったわけではない。ここは間違えないこと』
『髪結いの練習は続ける。あと二年。長いようで、案外短いかもしれない』
『明日も姉様と一緒に学院へ行く。いつものことである』




