第二話 学院の一日
大陸歴660年・初夏
王国学院へ向かう馬車の中で、私は今朝の出来事を思い返していた。テオの靴下は、本人の長靴の中にあった。しかも、昨日それを届けたのは私だったらしい。父様のおっしゃることは正しかった。しかし、だからこそ記録は大切なのである。私は手帳を開き、今朝の出来事をもう少し詳しく書こうとした。
「エマ。また靴下のことを書いているの?」
「はい。今後の参考になりますので」
「ふふ。テオもきっと次からは気をつけるわよ」
「そうでしょうか?」
テオは虎に会いに行くことで頭がいっぱいだった。次から気をつけると約束したかどうかは、少々怪しい。
「それより、今日は算術の授業があるのでしょう?」
「……はい」
それは、あまり思い出したくないことである。私は大人しく手帳を閉じた。
「セリー姉様は、今日は何の授業ですか?」
「午前中は王国法と語学、午後は政治史よ」
「政治史ですか。面白そうですね」
セリー姉様は高等課程二年生である。私のいる初等課程より専門的な授業が多い。
「来年になれば、エマも少しずつ詳しく学べるわよ」
来年。それは楽しみである。一つ歴史を知ると、また別のことが気になる。困ったものである。いや、別に困ってはいない。むしろ楽しい。
「エマ。着いたわよ」
窓の向こうに、王国学院の正門が見えていた。
王国学院は、王都セレーヌの貴族街からほど近い場所にある。十二歳から十八歳までの六年間、初等課程と高等課程に分かれて学ぶ、王国でも有数の教育機関だ。初等課程には家格などに応じた学級の区分もあり、全員が同じ教室で学ぶわけではない。王都に屋敷を持つ貴族はそこから通学し、地方から来た生徒は寄宿舎に入ることもある。貴族の子女が多いが、成績を認められた平民の生徒も学んでいる。男女は同じ学院に通う。
「では、エマ。また帰りにね」
「はい、セリー姉様」
セリー姉様は高等課程の校舎へ歩いていった。やはり姿勢がよい。私など、母様から何度も注意されるのに、気を抜くとすぐに背中が丸くなる。
王国学院の正門をくぐると、広い中庭がある。中央には噴水があり、その向こうに大きな講堂が建っている。初夏の日差しを受け、噴水の水面がきらきらと光っていた。初等課程と高等課程の校舎は分かれているが、図書館や中庭などは共通で使うため、朝は多くの生徒で賑わう。
「エマ!」
振り返ると、リネット・モローが手を振っていた。私と同じ十三歳で、初等課程二年の生徒である。父親は法衣男爵で、国防費のうち軍の補給や物資輸送に関わる予算を担当する財務官僚だ。普段はリネと呼んでいる。
「おはよう、リネ」
「おはよう。ねえ、昨日の算術の課題はできた?」
「一応は」
「一応?」
「最後の問題に、少々自信がないのよ」
リネは楽しそうに笑った。
「また途中の計算を飛ばしたんじゃない?」
「そんなことは……」
私は言いかけて、口を閉じた。ない、と言い切れないところが悲しい。リネは算術が得意だ。数字を見ると、頭の中で自然に計算が進むらしい。私にはよく分からない感覚である。
「後で見てあげるわ」
「ありがとう。助かるわ」
「おはよう、二人とも」
今度はマリアナ・ラフォールがやって来た。彼女も十三歳、初等課程二年の生徒で、普段はマリーと呼んでいる。ラフォール家は代々風魔法を受け継ぐ領地子爵家だ。ただ、マリー自身の魔法はまだ発現していない。発現には個人差があり、将来どうなるかは分からない。本人があまり話題にしないので、私たちもわざわざ尋ねたりはしない。
「マリー、おはよう」
「おはよう。何のお話?」
「算術の課題よ。エマが最後の問題に自信がないんですって」
「あら。私も、あの問題は難しかったわ」
「じゃあ、三人で確認しましょう」
リネは当然のように言った。実に頼もしい。我が家は法衣子爵家。リネは法衣男爵家。マリーは風魔法を受け継ぐ領地子爵家。幸い、私たちは同じ学級で学んでいる。学院では同じ学年の生徒である。算術の課題が分からなければ、誰だって困る。爵位が高いからといって、答えが勝手に出てくるわけではない。その点では、まことに公平な世界である。
午前中の算術では、案の定、数字を一つ写し間違えていた。
「ほら、ここよ」
リネが私の答案を指差した。
「この数字を、次の行へ写す時に間違えているの」
「……本当ね」
計算の考え方は間違っていなかったらしい。実に惜しい。いや、答えが違う以上、惜しいも何もないのかもしれない。
「ここを直せば大丈夫よ」
「ありがとう」
「エマは、歴史ならすぐに覚えるのにね」
マリーが笑った。
「数字も年号なら覚えられるのだけれど」
「それは、ちょっと違うと思うわ」
リネに言われた。ごもっともである。私は答案の間違えた箇所に印をつけた。今度こそ数字を写す時には確認しよう。
続く王国法の授業では、基礎を学んだ。法律については、父様からも時々教わっているので、比較的理解しやすい。もっとも、父様の説明は長い。一つ質問すると、答えの前にその制度ができた歴史から始まることもある。今日も先生のお話を書き留めていると、ふいに名前を呼ばれた。
「ベルナール嬢」
「はい?」
「先ほどから、ずいぶん熱心に書いていますね」
「はい。忘れないようにと思いまして」
「それは結構ですが、まず話を聞くことも大切ですよ」
「……はい」
私は、大人しく筆を置いた。
昼休み、三人で中庭の木陰にある腰掛けに座った。日向は少し暑くなってきたが、ここなら噴水の水音も聞こえて、なかなか涼しい。
「そういえば、エマ」
マリーが言った。
「昨日、母様からお手紙が届いたの。あなたのお母様にもよろしくお伝えしてほしいって」
「そうなの? 母様にもお伝えしておくわ」
マリーの母様と、私の母様は学院時代からの旧友である。リネの母様も同じ仲間だったそうだ。しかも、マリーの家の第二夫人クラリス様は、私の母様の妹でもある。母親たちの友情に親戚づきあいまで重なるのだから、私たちが幼い頃から顔を合わせていたのも不思議ではない。
「今度、三人でお会いしたいんですって」
「昔の学院のお話も聞けるかしら」
リネが言った。
「私たちが詳しく尋ねると、なぜか話を変えてしまうのよね」
私が答えると、二人とも笑った。一体、どんな学院生活を送っていたのだろう。気になるところである。
「今日の王国史は、また年号を覚えるのよね」
リネがため息をついた。
「でも、面白いわよ。歴史書は、書いた人の立場で同じ出来事の評価が違う場合もあるの」
「エマは、本当に歴史が好きなのね」
マリーが微笑んだ。
「でも、試験には年号も出るのよね」
「……そうね」
歴史の面白さと、試験の面倒さは別の問題である。
昼食を終えて教室へ戻ろうとした時、セリー姉様の姿を見かけた。高等課程の校舎から、何人かの生徒と一緒に出てくるところだった。その時、セリー姉様の隣にいた男子生徒が、こちらに会釈した。
「妹君ですか?」
「ええ。私の妹、エマリア・ベルナールです」
セリー姉様は私に向き直った。
「エマリア。こちらはジュリアン・ヴァルモン様。私と同じ学年の方よ」
私は慌てて姿勢を正した。ヴァルモン伯爵家は、地方に大きな領地を持つ魔法貴族の家である。ジュリアン様は、その次男だという。
「エマリア・ベルナールと申します」
私は教わったとおりに礼をした。
「ジュリアン・ヴァルモンです。セシリア嬢には、いつもお世話になっています」
ジュリアン様も丁寧に挨拶を返してくれた。十六歳。セリー姉様と同じ年齢である。伯爵家のご令息と聞いて少々身構えたが、思っていたよりも話しやすそうな方だった。
「セシリア嬢、先日の講義では助かりました」
ジュリアン様がセリー姉様に言った。
「いえ。私も、ジュリアン様に教えていただいたところがありますから」
「それでも、あの資料は見つけられませんでした」
「図書館の奥の方にありましたものね」
二人は、そんな話をしていた。どうやら学院の授業で、何か調べ物を一緒にしたらしい。セリー姉様は普段、誰に対しても丁寧である。けれども、ジュリアン様と話している時は、いつもより少し気楽そうに見えた。同級生だからだろうか。
「エマリア嬢も、歴史を学んでいらっしゃるのですか?」
ジュリアン様が私に尋ねた。
「はい。まだ初等課程ですが」
「セシリア嬢から、歴史がお得意だと伺いました」
私はセリー姉様を見た。セリー姉様は、何でもないことのように微笑んでいる。
「得意というほどではありません。ただ、好きなだけです」
「それが一番だと思いますよ。私は年号を覚えるのが、どうも苦手で」
なるほど。伯爵家のご令息にも、苦手なことはあるらしい。私は少し親近感を覚えた。
「エマリアは、何でも手帳に書き留めるのです」
セリー姉様が言った。
「セリー姉様」
「ふふ。学院のことだけでなく、家族のことまで書いてしまうのよ」
「それはよい習慣ですね」
ジュリアン様は感心したように言った。私は、思わず頷いた。そのとおりである。今朝は父様に注意されたが、分かる人には分かるのだ。
「ありがとうございます」
私は少しだけ得意になった。セリー姉様は、そんな私を見て笑っていた。
「それでは、エマ。また帰りにね」
「はい、セリー姉様」
私は二人に礼をして、その場を離れた。別れ際、リネとマリーもジュリアン様は感じのよい方だと話していた。私もそう思う。少なくとも、手帳を褒めてくださったのだから。
午後の授業は王国史だった。今日の授業では、カラメリア大陸の古い歴史について学んだ。大陸歴元年に、カラメリア朝リュセリア王国が成立した。その後、二十三年間にわたる建国戦争によって、大陸の主要な地域を統一したのだという。もっとも、カラメリア大陸のすべての国を征服したわけではない。王朝の支配を受けなかった国々もあり、現在まで独立を保っている国もある。
やがてカラメリア朝は広大な領土を統治しきれなくなり、内戦がおこり、事実上崩壊した。なにやら第十代大王が大王号を放棄したらしい。その二年後、正統な嫡男の系統を継ぐ王族が東方にリュセリア王国を再興した。そして、西方の勢力がグラディオール帝国を建国する。
その間には山脈や大河があり、昔から大軍の移動を難しくしてきたという。旧カラメリア朝の王都オルヴェーヌは、現在の王国西方、帝国国境に近い。王国は都を東方へ移し、それが現在の王都セレーヌになった。なるほど。国の都を移すとは、相当な大仕事だったはずだ。
「王都が移されたのは、防衛のためなのですか?」
私は尋ねた。
「それも大きな理由の一つです。戦争が続く中で、王宮と中央行政機関をより安全な場所に置く必要がありました」
実際、初代皇帝は、その後旧王朝の領土を再統一するために戦争を起こした。第一次統一戦争である。ただ、長く対立を続けた両国も、結局は講和条約を結んだのだという。先生は大陸の地図を広げた。西にグラディオール帝国、東にリュセリア王国……。
そんな話を聞きながら、私は手帳に書き留めた。
『カラメリア朝リュセリア王国(二十三年戦争)――大陸歴元年』
『カラメリア内戦勃発(二十五年戦争)――大陸歴282年』
『第10代カラメリア大王が大王号を放棄――大陸歴305年』
『リュセリア王国を再興(王都をセレーヌに遷都)――大陸歴307年』
『グラディオール帝国を建国(セレスト会議)――大陸歴321年』
『第一次統一戦争(七年戦争)――大陸歴328年』
ずいぶん増えてしまった。しかし、仕方がない。何しろ、歴史というものは、覚えることが多いのである。
「年号は試験に出るぞ!」
私は地図を見つめた。同じ戦争でも、王国と帝国では教え方が違うのではないだろうか。王国の教本では、帝国の侵攻を防いだと説明されている。ならば帝国の教本には何と書かれているのだろう。機会があれば、読んでみたい。ただし、今はそれより試験である。
学院から戻ると、母様が居間で書簡を読んでいた。私たちの姿を見ると、セリー姉様に声を掛けた。
「セリー。ちょうどよかったわ。今朝お話しした件だけれど、少し進展があったの」
「はい、母様」
私は自室へ戻ろうとした。今日の授業の復習も、手帳の整理もある。
「エマも、こちらへいらっしゃい」
……。私も、であるか。私は大人しく席に着いた。
「ヴァルモン伯爵夫人から、お手紙をいただいたの」
ヴァルモン。今日、学院で会ったジュリアン様のご実家ではないか。
「近いうちに、こちらへお越しになりたいそうよ」
「そうなのですか」
セリー姉様は、静かに答えた。
「まだ正式なお話ではないのだけれど、セリーの縁談について、ご相談があるようなの」
縁談。
……なるほど。伯爵家の次男と法衣子爵家の長女。確かに、悪くない組み合わせなのだろう。しかし、セリー姉様は膝の上の指をそっと動かしていた。
「セリーは、どう思う?」
母様が尋ねた。セリー姉様はすぐには答えなかった。いつもなら、どんな質問にも落ち着いて返事をなさるのに。
「……驚きました」
「そうね。私も少し驚いたわ」
私は二人の顔を交互に見た。どうやら、思っていたより大きな話らしい。今夜の手帳には何と書いておこう。縁談のお話があったことは記録するとして、その下に何を書けばよいのかは、まだ分からなかった。
――エマの手帳より
『算術の課題は、数字の写し間違い。リネのおかげで原因が分かった』
『ジュリアン・ヴァルモン様はセリー姉様と同じ学年。私の手帳を書く癖を褒めてくださった。感じのよい優しい方』
『王国史の年号は試験に出るらしい』
『本日、ヴァルモン家からセリー姉様の縁談についてお手紙が届いた』
『ジュリアン様のことだろうか。まだ確認していない』




