第一話 靴下の行方
大陸歴660年・初夏
子爵令嬢というのは、もう少し偉いものではなかっただろうか。
「エマ姉様、僕の靴下を知りませんか?」
朝食の席に着くなり、弟のテオドール・ベルナールがそう尋ねてきた。十歳になる我が家の末っ子で、現在は家庭教師について勉強している。もっとも、本人の関心は勉強よりも動物、特に虎に向いている。そんなテオが、朝から何を言い出したのかと思えば。靴下である。よりにもよって、朝から靴下の話だ。
「知らないわよ」
「でも、どこにもないんです」
「自分の部屋は探したの?」
「探しました!」
「衣装箱は?」
「もちろんです!」
実に元気のよい返事である。しかし靴下は見つかっていないらしい。
「エマ、昨日あなたに頼まなかったかしら?」
母様、マルグレート・ベルナールが、パンに手を伸ばしながら言った。四十二歳になる母様は、家政と私たちの教育を取り仕切っている。特に私の忘れ物については、実によく覚えていらっしゃる。
「何をですか?」
「テオの靴下よ。洗濯が終わったから、あの子の部屋へ持っていってちょうだいって」
「……私に、ですか?」
「ええ」
はて。そんなことを頼まれただろうか。昨日は学院から帰って、母様のお手伝いをして、それからセリー姉様に算術を教わった。靴下を運んだ記憶はない。私は膝の上の手帳を開いた。学院の授業、手紙の整理、算術の問題、テオが虎の餌について熱弁を振るったこと。靴下については何も書かれていない。
「母様。昨日の覚え書きには、そのようなことは書いておりません」
「だから、頼んでいないと?」
「少なくとも、記録にはございません」
「エマリア」
今度は父様、アルマン・ベルナールが口を開いた。母様と同じ四十二歳で、王国高等法院の判事を務めている。普段は穏やかだが、理屈にはなかなか厳しい。私を正式な名前で呼ぶ時は、たいてい何かを注意される時である。
「お前の手帳には、昨日の出来事がすべて書かれているのか?」
「いえ。必要と思ったことを書いております」
「では、書かれていないこともあるのだな?」
「……はい」
「それなら、記録にないから頼まれていない、ということにはならないだろう」
まったくもって、そのとおりである。さすがは判事だ。娘の靴下一つを巡る主張にも容赦がない。しかし父様。母様が頼んだということも、今のところ母様の記憶に頼っているのではありませんか。そう反論しかけて、やめた。これ以上話を続けると朝食が終わらなくなる。
「それに、食事中に手帳を広げるものではない」
「……はい」
私は素直に手帳を閉じた。向かいの席では、長兄のルシウス・ベルナールが笑いを堪えている。十九歳になるルシ兄様は、王国学院を優秀な成績で卒業し、現在は法務を学んでいる。将来は王国の司法を支える仕事に就くつもりらしい。それなのに、毎朝夜明け前から庭で剣を振っている。
今朝も食堂へ向かう途中で、その姿を見かけた。初夏とはいえ、朝の庭にはまだ涼しさが残っている。若葉の茂る木々の下で、踏み込みと同時に剣が走り、振り切ったところでぴたりと止まる。なかなか様になっているではないか。
「おはよう、エマ。今日は早いね」
「おはようございます。テオが朝から騒いでおりますので」
「また虎の話かい?」
「今日は靴下の話です」
「それは珍しいね」
それだけでルシ兄様は稽古を再開してしまった。我が家は法衣子爵家である。敵を剣で倒す機会より、書類と格闘する機会の方がよほど多いはずなのだが。隣では、長姉のセシリア・ベルナールが微笑んでいた。十六歳になるセリー姉様は、王国学院高等課程二年生。勉強も礼儀作法も優秀で、私の面倒もよく見てくださる。特に、私が上手く結えない髪を整えてくださるありがたい存在だ。
「エマ。まずは朝食をいただきましょう。靴下は後から一緒に探せばよいでしょう?」
「……はい」
なるほど。やはり頼りになる。ただし、朝食の席で誰も靴下を気にしなくなったのは、少々不満だった。何しろ、私だけが母様から疑われたままなのである。
さて、ここで少し、私自身の話をしておこう。私の名前はエマリア・ベルナール。リュセリア王国の王都セレーヌに屋敷を構える、ベルナール法衣子爵家の次女である。今年で十三歳。王国学院の初等課程二年に在籍しており、家族からはエマと呼ばれている。
そして、前世の記憶がある。
前世の私は、日本という国で暮らしていた、ごく平凡な会社員である。特別な成功を収めたわけでもない。むしろ、頼まれたことを忘れて、先輩から注意されることもしばしばだった。ある時など、会議で配るはずの資料を別の引き出しへしまい込み、開始直前まで見つけられなかった。結局、同僚に手伝ってもらい、何とか間に合わせたのだが、あの時は本当に困った。
『覚えられないなら、メモを取りなさい』
その時、先輩から教わった言葉である。実にありがたい助言だった。以来、頼まれたことや気づいたことは、できるだけ手帳へ書き留めるようになった。一度聞いたことでも忘れることはある。しかし、書いておけば後から確かめられる。習慣というものは恐ろしい。気がつけば仕事以外のことまで記すようになり、それは今世でも変わらなかった。
おかげで、私の手帳には、どうでもいいことがたくさん書かれている。父様は、もう少し要点を整理した方がよいとおっしゃる。それも正論である。しかし、何が大切なことなのかは、後にならないと分からない場合もあるではないか。少なくとも、私はそう思っている。
さて。そんな私が異世界に転生し、それも貴族の娘に生まれたのだから、少しは期待した。豪華な屋敷。綺麗なドレス。優雅なお茶会。使用人たちに囲まれた、何不自由ない暮らし。
しかも、こちらの世界には魔法まである。王国には、水や火、風などの魔法を代々受け継ぐ貴族家が存在する。実に異世界らしい話である。もっとも、我がベルナール家には、そのような力はない。我が家は司法や行政に携わる法衣貴族で、国庫からの家禄と父様の判事としての職俸で暮らしている。父様は王国高等法院の判事であり、法衣貴族の中でも、それなりの地位にある。そのため、生活に困ることはない。
そういうわけで、今世の私にも、特別な才能はなかった。魔法は使えない。勉強も、歴史は好きだが、すべてが得意というわけではない。運動は少々苦手である。結局、こちらでも平凡だった。前世の記憶はあっても、この家で十三年間暮らした時間まで借り物になるわけではない。私はこの家族が好きだし、できれば平穏に過ごしたい。
魔法で敵を倒すより、温かいお茶を飲みながら歴史書を読んでいる方が、ずっと性に合っている。ただ、せっかく子爵令嬢に生まれたというのに、弟の靴下を探さなければならないというのは、いかがなものだろうか。
「エマ姉様ー!」
廊下からテオの声が聞こえた。
「早く探しましょう!」
……。どうやら、優雅な暮らしについて考えている時間もないらしい。
朝食を終え、私はテオの部屋へ向かった。セリー姉様も、約束どおり一緒に来てくださった。テオの部屋には動物の絵が何枚も飾られている。虎、狼、馬、熊、それから見たことのない鳥まで。王都には軍用獣を飼育・調教する施設があり、テオはそこの飼育係と親しくなっている。
本人は将来、軍用獣に関わる仕事がしたいらしい。父様は法務の道へ進んでほしいと考えているようだが、今のところ希望が叶う気配はない。
「それで、どこまで探したの?」
「衣装箱と、寝台の下と、机の中です!」
「机の中?」
靴下を机に入れる人間がいるのだろうか。いや、テオならあるかもしれない。
「昨日の夜は、何をしていたの?」
セリー姉様が尋ねた。
「今日の準備をしていました」
「何を準備したの?」
「上着と、帽子と、それから長靴です!」
私は部屋の隅を見た。そこには、泥を落として綺麗にした長靴が置かれていた。
「長靴?」
近づいて、片方を持ち上げる。妙に重い。
……。まさか。
私は長靴の中へ手を入れた。指先に柔らかいものが触れる。引っ張り出す。靴下である。しかも、二足分。
「……テオ」
「はい?」
「これは、何かしら?」
私は靴下を掲げた。テオは目を丸くした。
「あっ!」
どうやら、思い出したらしい。
「昨日の夜、朝の支度が早くできるように入れておいたんです!」
……。それなら、覚えておいてほしい。セリー姉様は隣で楽しそうに笑っている。
「見つかってよかったわね」
「はい! エマ姉様、ありがとうございました!」
私は何とも言えない気分になった。朝食の席では、私が靴下の行方を知らないことが問題になっていた。しかし、実際にはテオ自身が長靴に入れていたのである。つまり、今回の事件は私のせいではなかった。少なくとも、靴下が見つからなかったことについては。
「では、母様にも報告しましょう」
「そうですね」
これはぜひとも、母様に報告しなければならない。
母様は私たちの報告を聞いて笑った。
「まあ。テオが自分で入れていたのね」
「はい! 朝の支度を早く済ませようと思ったんです!」
「その準備を忘れてしまったら、意味がないでしょう?」
「……はい」
テオは少しだけ肩を落とした。私はここぞとばかりに口を開いた。
「母様。つまり、靴下が見つからなかったのは、私のせいではなかったということですね」
「そうね。長靴に入れたのはテオなのだから」
これで、ようやく疑いが晴れた。
しかし、母様は続けた。
「でも、昨日あなたに靴下を運ぶよう頼んだのは、確かよ。洗濯物を一緒に運んでくれたでしょう?」
洗濯物。そういえば、夕方、母様に頼まれて廊下に置いてあった洗濯物を運んだ気がする。すると、テオが言った。
「僕、昨日エマ姉様が持ってきてくれた靴下を、長靴に入れたんです!」
……。ああ。そういうことだったのか。私は、ようやく思い出した。確かに、テオの部屋へ洗濯物を届けた。ただ、すぐに終わる仕事だったので、手帳に書き留めなかったのである。まったく。よりにもよって、こういう時に限って書いていないとは。
「エマ」
いつの間にか、父様が廊下に立っていた。
「どうやら、事情が分かったようだな」
「……はい」
「記録にないからといって、出来事がなかったことにはならない。分かったか?」
「はい」
私は大人しく答えた。今回は反論の余地がない。しかし、だからこそ記録は大切ではないだろうか。昨日の用事を書いていれば、あれほど困ることもなかったはずだ。その考えを父様に伝えるのはやめた。また説明が始まれば、学院へ行く時間がなくなってしまう。
支度を済ませると、私はセリー姉様と一緒に玄関へ向かった。開いた扉の向こうでは、初夏の朝日が石畳を明るく照らしている。王国学院へは、いつも同じ馬車で通っている。
「エマ。今日は忘れ物はない?」
「大丈夫です。教本も、筆記具も、手帳も持ちました」
「そう。なら安心ね。でも、そろそろ髪も自分で結えるようにならないとね」
「……はい」
これも私にとっては重大な問題である。勉強なら手帳に書けばよい。しかし、髪の結い方だけは、いくら手順を書いてもそのとおりにならない。実に不思議なものである。
「帰ってきたら、また教えてあげるわ」
「本当ですか?」
「ええ。約束よ」
私は嬉しくなった。やはり、頼りになる。そこへ母様が玄関へやって来た。
「セリー。今日は学院から帰ったら、少しお話をしましょうね」
「はい、母様」
「何のお話ですか?」
「高等課程のことや、これからのことよ」
なるほど。高等課程ともなれば、勉強以外にも考えることが増えるのだろう。ところがセリー姉様は、すぐには返事をなさらなかった。ほんの一瞬、母様の顔を見てから、いつもどおりに微笑まれたのである。少々珍しい。気にはなったが、私には今日も学院の授業がある。帰ってきたら髪の結い方も練習しなければならない。前世では会社へ通い、今世では学院へ通う。そして時には弟の靴下まで探す。
しかも、前世では働けばお給料をいただけた。今世では、そうはいかない。まったく。優雅な貴族生活というものは、なかなか手の届かないところにあるらしい。
――エマの手帳より
『テオの靴下は長靴の中にあった。入れたのはテオ、届けたのは私』
『記録にないからといって、出来事がなかったとは限らない。父様の指摘は正しかった』
『次からは、頼まれたことを忘れずに書くこと』
『なお、テオには自分で靴下を管理してもらいたい』




