第五話 いつもの日常
大陸歴660年・初夏
セリー姉様の婚約が、正式に決まることになった。父様は先日、ヴァルモン伯爵家へ返事の書簡を送った。両家の条件も、セリー姉様とジュリアン様の気持ちも確認できたので、今日は改めて顔を合わせ、婚約の成立を確かめるのだという。
実にめでたいことである。セリー姉様には幸せになっていただきたい。何しろ私は、生まれてからずっとお世話になっている。勉強を教わり、髪を結っていただき、時には母様からのお小言まで一緒に聞いていただいた。
こうして並べてみると、お世話になっているのは私ばかりではなかろうか。婚約のお祝いに、何かお返しができるとよいのだけれど。しかし、セリー姉様は勉強も礼儀作法も私より上手である。私が教えられることといえば、手帳の使い方くらいだろう。しかも、その手帳については父様に何度も注意されている。
……困ったものである。
お客様をお迎えする日のベルナール家は、朝から忙しい。庭では初夏の花が咲き、開けた窓からほのかな香りが届いていた。執事は玄関と客間を確認し、メイドたちは花を飾り、母様は食事と席順を確かめている。父様は、何やら紙の束を持って廊下を歩いていた。
「アル。今朝も書類を見ているの?」
「もう確認は済んでいる。これは控えだ」
「それなら、そろそろ客間へいらして。お客様を迎える準備をしてちょうだい」
「……ああ」
父様は素直に頷いた。先日は書類の話だけでなく、セリー姉様の気持ちについてもお話しできた。だから、今日はもう少し落ち着いていらっしゃるかと思ったのに。どうやら、そう簡単には変わらないらしい。
そして、私も人のことは言えなかった。
「エマ。まだ髪を結っているの?」
母様の声が扉の向こうから聞こえた。
「もう少しです!」
私は鏡の前で返事をした。本当にもう少しのはずだった。右側を整えると左側が緩み、左側を直すと、今度は後ろが妙な形になる。髪というものは、どうしてこうも言うことを聞かないのだろう。一度ほどいてやり直そうとしたところで、控えめなノックがあった。
「エマ、入ってもいい?」
「セリー姉様! お願いします」
淡い色のドレスを着たセリー姉様が入ってきた。ご自分の髪は、もう綺麗に結い上げてある。今日は婚約の主役なのだから、私よりずっと忙しいはずなのに。
「まだ苦戦しているのね」
「はい。あと少しだったのですが」
「その『あと少し』を、昨日も聞いた気がするわ」
セリー姉様は笑いながら私の後ろに回った。手櫛でほつれを直し、髪をまとめ直す。鏡の中の私は、あっという間に人前へ出られる姿になった。
「ありがとうございます。やはり、セリー姉様はすごいですね」
「練習すれば、エマにもできるわ」
「そうでしょうか」
「もちろん。まだ二年あるでしょう?」
あと二年。
つい先日までは、長いような短いような、不思議な時間だと思っていた。今は、まず髪を結べるようになるための期限でもあるらしい。
「では、これからも教えてくださいね」
「ええ。でも今日は、先にお客様をお迎えしましょう」
なるほど。今は確かに、その方が大切である。
ヴァルモン伯爵夫人とジュリアン様は、約束の時刻に到着された。伯爵様ご本人は領地の公務のため来られないが、署名と封蝋のある正式な書簡を預けていらっしゃるそうだ。父様はそれを受け取り、満足そうに頷いていた。客間での挨拶には、私も同席した。
「エマリア・ベルナールと申します。本日はようこそお越しくださいました」
「まあ、エマリアさん。今日は一段と素敵ね」
伯爵夫人は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」
私は礼をした。今朝の髪を整えてくださったのはセリー姉様なのだから、私が褒められるのは少々申し訳ない。それでも、ありがたく受け取ることにした。社交とは、そういうものなのだろう。ジュリアン様も、丁寧に挨拶してくださった。
「エマリア嬢、先日は学院でありがとうございました」
「こちらこそ。セリー姉様がお世話になっております」
自分で言ってから、何だか母様のような言い方になったと思った。まだ十三歳なのに、少し気が早かっただろうか。お二人はいつものように穏やかに話していた。セリー姉様も、ジュリアン様と顔を合わせると、ほんの少し表情が柔らかくなる。私は、そこに目が留まった。
父様が書類を揃え、両家の取り決めを確認する。学院は二人とも卒業まで続けること、婚礼は再来年の夏を目途とすること、将来の住まいやセリー姉様の財産についても、合意した内容があること。細かな条項は私には難しいが、父様が幾度も確かめていたものばかりだ。そして、最後に父様は二人へ尋ねた。
「ジュリアン殿。セリー。改めて、二人の意思を聞かせてほしい」
ジュリアン様とセリー姉様は顔を見合わせた。ジュリアン様が先に答え、セリー姉様も静かに頷いた。
「セシリア嬢との婚約を、心から望んでおります」
「私も、ジュリアン様との婚約を望んでおります」
父様は、少しだけ口元を緩めた。母様も、伯爵夫人も、安心したように微笑んでいる。これで、正式に婚約が決まったのである。
私も、胸が温かくなるような気がした。二人は明日になればまた学院へ通い、教本を開き、先生から課題を出されるだろう。それなのに、今日から婚約者なのだ。貴族というものは、なかなか忙しい。
取り決めを終えた後は、庭でささやかなお茶の席が設けられた。初夏の風は穏やかで、木陰に入ると暑さも気にならない。花壇には庭師が手入れした花が咲いている。母様は伯爵夫人と学院の話をし、父様は近頃の王都の様子について尋ねられていた。
私は少し離れた席から、セリー姉様とジュリアン様を眺めていた。婚約が決まったのだから、さぞ特別なお話をしているのだろうと思ったのだが。
「先日の政治史の課題、もう提出されましたか?」
「ええ。昨日、先生へお渡ししました」
「私は最後の資料で少し迷ってしまって」
「あの記録でしたら、図書館の奥の棚にもございますよ」
……学院の話である。
どうやら、婚約が決まったからといって、急に会話の内容まで変わるわけではないらしい。それはそれで、少し安心した。ジュリアン様がこちらを向いた。
「エマリア嬢は、最近どの時代を学んでいらっしゃいますか?」
「カラメリア朝の成立と、王国の再興についてです」
「では、第一次統一戦争にも触れられましたか?」
「はい。王国と帝国では、同じ出来事について記録の仕方が違うこともあるそうですね」
ジュリアン様は興味深そうに頷いた。
「帝国側の書物も読んでみたいのです。でも、簡単には手に入りませんね」
「そうでしょうね。もし見つけたら、ぜひ私にも教えてください」
私は嬉しくなった。どうやらジュリアン様は、歴史の話を聞くのがお嫌いではないらしい。
「エマは、歴史のことになると本当に楽しそうね。算術の時とは、ずいぶん違うわ」
セリー姉様が言った。
……セリー姉様。それは、ジュリアン様の前でわざわざおっしゃらなくてもよいのではありませんか。
「得意不得意は誰にでもありますよ。私も年号を覚えるのは苦手ですから」
ジュリアン様が笑ってくださった。何という心遣いだろう。その隣で、セリー姉様も笑っている。二人の顔を見ているうちに、私はようやく分かった気がした。父様が確認したのは、二人が将来困らないための約束である。でも、セリー姉様がこうして自然に笑っていられることも、それと同じくらい大切なのだろう。
そう思ったら、何だか嬉しくなった。
伯爵夫人とジュリアン様が帰られると、屋敷はいつもの静けさを取り戻した。母様はお礼の手紙の用意を始め、父様は今日の書類を片付けている。もう確認は済んだはずなのだが、きっと保管の仕方まで決まっているのだろう。父様がセリー姉様を呼び止めた。
「セリー。今日のことで、気になることはなかったか?」
「いいえ、父様。ありがとうございます」
「そうか。学院の勉強はこれまでどおり続けなさい。それから、何かあればいつでも相談するように」
「はい」
父様はそれ以上、条件を並べなかった。セリー姉様の気持ちをきちんと聞いた上での婚約なのだから、それで十分なのだろう。私は内心、少し感心した。ところが、母様の関心は別のところへ向かった。
「さて、エマ。今日もセリーに髪を結ってもらったのでしょう?」
「……はい」
「明日からは、朝の練習を始めましょうね」
……。何ということだろう。今日はセリー姉様の婚約を祝う日ではなかったのか。どうして最後は、私の髪の話になるのだろう。私は、慎重に答えた。
「二年あれば、きっと上手になれると思います」
「そうね。それなら明日から少し早く起きましょう」
「……はい」
しまった。余計なことを言ったかもしれない。
夕食には家族六人が揃った。セリー姉様の婚約が決まった日なのだから、今夜くらいは少し改まった話になるかと思ったが、そうでもなかった。まず、ルシ兄様が祝った。
「セリー、おめでとう。ジュリアン殿は、剣の腕もよいと聞いている。頼もしい人だね」
「ありがとう、ルシ兄様」
やはり、剣なのか。ルシ兄様は法律の勉強も熱心にしているのに、人を見る時にはまず剣の腕前が気になるらしい。続いて、テオが元気よく口を開いた。
「僕も、おめでとうございます! それで、セリー姉様。ヴァルモン伯爵領に虎はいるんですか?」
「さあ、どうかしら。今度、ジュリアン様に聞いてみるわ」
「ぜひお願いします!」
……テオ。君も、そこなのか。
私は思わず笑ってしまった。ルシ兄様は剣、テオは虎。私は私で、手帳を褒めていただいたことが嬉しかった。どうやら、私たちはそれぞれ違うところを見ているらしい。私は父様に尋ねた。
「父様は、ジュリアン様のどのようなところがよいと思われたのですか?」
父様はしばらく考えた。
「誠実で、約束を守る人物だと思ったことだろうな」
「母様は?」
「そうね。セリーが隣で自然に笑っていられるところかしら」
セリー姉様は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
なるほど。
剣も、虎も、手帳も、誠実さも、笑顔も。見ているところは違うけれど、結局、皆がセリー姉様の幸せを願っているのだ。もっとも、テオは本当に虎のことだけを考えていたかもしれない。
夜、自室で手帳を開いた。婚約の成立。伯爵夫人のお言葉。ジュリアン様と交わした歴史の話。ルシ兄様の剣とテオの虎。それから、明日から始まる髪の練習。今日は書くことが多い。しかし、すべて同じ重さではない気がした。私はまず、一番大切だと思うことを書いた。
『本日、セリー姉様とジュリアン・ヴァルモン様の婚約が正式に決まった。婚礼は学院卒業後、再来年の夏を予定』
その下に、もう一行。
『セリー姉様は、嬉しそうだった』
こう書いてみると、ずいぶん短い。しかし、今日見たことを思い返すには、これで十分なのかもしれない。ふと、二年後の家族のことが気になった。その頃、セリー姉様とジュリアン様は十八歳。私は十五歳、ルシ兄様は二十一歳、テオは十二歳になる。
……テオも、王国学院へ通い始める年齢ではないか。
長靴の中に靴下をしまったことまで忘れてしまう弟が、学院生になる。何だか想像がつかない。もっとも、私も人のことは言えないのだけれど。その時、扉を叩く音がした。
「エマ、まだ起きている?」
「はい。どうぞ」
寝る支度を済ませたセリー姉様が入ってきた。
「やっぱり手帳を書いていたのね」
「はい。今日は大切な日でしたから」
セリー姉様は、隣の椅子に腰を下ろした。
「今日はありがとう、エマ」
「何がですか? 私は何もしておりません」
「いいえ。嬉しそうにしてくれたでしょう。それが嬉しかったの」
私は答えに困った。別に、特別なことをしたわけではない。セリー姉様に幸せになっていただきたい。それだけである。
「私も、嬉しいです。でも、伯爵領へ行かれるのは、やっぱり寂しいです」
「……ええ」
「ですから、手紙を書きます。家のことも、学院のことも、忘れずに」
「楽しみにしているわ」
セリー姉様は微笑んだ。
「ただし、毎日テオが虎の話をしたことまでは書かなくてもいいのよ」
「それは難しいですね。重要な出来事かどうかは、後にならないと分かりませんから」
セリー姉様は、くすくすと笑った。
「そうだったわね。それなら、エマの好きなように書いてちょうだい」
私は頷いた。あと二年。私たちが同じ家で暮らす時間は、いつまでも続かない。それでも、姉妹でなくなるわけではない。
「それから、髪の結い方も引き続きお願いします」
「ええ。今度はエマが結えるようになるまで、ちゃんと教えるわ」
セリー姉様は立ち上がり、私の頭を一度だけ撫でた。
「おやすみ、エマ」
「おやすみなさい、セリー姉様」
扉が閉まってから、私は手帳へもう一行加えた。
『セリー姉様は、今日も私の髪を結ってくださった』
明日も、きっとそうだろう。少なくとも、練習が上手くいかなければ。
翌朝。窓の外では初夏の朝日が庭を明るく照らしていた。食堂には、いつもの家族が揃っている。父様は新聞を読み、母様は今日の予定を確かめ、ルシ兄様は朝の稽古を終えている。セリー姉様は、いつもどおり私の隣に座っていた。昨日、婚約が決まったばかりなのに、何も変わっていない。私は、それが少し嬉しかった。母様が私に尋ねた。
「エマ。今朝は髪の練習をしたの?」
「……しました。途中までは」
「続きは帰ってからね」
「はい」
今日は学院へ行き、帰ってきたらもう一度髪を結う。それから、歴史の復習もある。どうやら優雅な一日とは言いがたい。今度は、テオが私を呼んだ。
「エマ姉様!」
「僕の靴下、知りませんか?」
……。私はゆっくり弟を見た。
「テオ。長靴の中は探した?」
「あっ!」
テオは勢いよく席を立ちかけた。母様から注意が飛んだ。
「テオ。食事が終わってからにしなさい」
「はい!」
弟は慌てて座り直し、ルシ兄様が笑った。セリー姉様も口元を押さえている。父様は新聞を下ろして、私を見た。
「エマ。よく覚えていたな」
「はい。前のことを手帳に書き留めておきましたので」
「そうか。役に立ったようだな」
私は姿勢を正した。これは珍しい。父様が、私の手帳を褒めてくださったのである。
「やはり、記録は大切だと思います」
「ただし、食事中に広げるのは駄目だぞ」
「承知しております」
……やはり、そこは変わらないらしい。
私は手帳を取ろうとした手を引っ込めた。今日の出来事は、後で書けばよい。父様は書類を読み、母様は家を取り仕切り、ルシ兄様は剣を振るい、テオは虎と靴下のことで忙しい。セリー姉様は、その真ん中で笑っていらっしゃる。
二年後には、この食卓の景色も少し変わる。それでも、今日という日まで失くしてしまうわけではない。
私は隣のセリー姉様を見た。目が合うと、いつもどおり微笑んでくださった。
「エマ。どうしたの?」
「いえ。何でもありません」
朝食を終えて席を立つと、母様から声が飛んだ。
「エマ、自分の食器を片付けてちょうだい」
「……はい」
私は大人しく食器を手に取った。屋敷には執事もメイドもいるというのに、今日も自分の食器を片付けるのである。しかも、この後は髪の練習まで待っている。
まったく。
子爵令嬢というのは、もう少し偉いものではなかっただろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作『子爵令嬢って、もう少し偉いんじゃなかったっけ?』は、全五話で完結となります。
現在、「カラメリア戦記」第二作『子爵令嬢は、風の行方をまだ知らない』を連載中です。
今度の主人公は、第二話の学院生活にも登場した、エマの友人マリーです。
エマとはまた違う立場から、家族や友人との日常、そして魔法を使えない少女の成長を描いていきます。
第二作は毎日21時10分更新予定です。
よろしければ、引き続きカラメリアの世界をお楽しみください。
第二作の作品ページはこちらです。
https://ncode.syosetu.com/n2088my/




