幕間 エミールの泣き声
アルマンは、赤子の泣き声が苦手だった。
商談相手の怒鳴り声なら、聞き流せる。
値切りの泣き落としなら、笑って突き返せる。
役人の遠回しな賄賂の催促なら、さらに遠回しな言葉でかわすこともできる。
だが、赤子の泣き声だけはどうにもならない。
腹が減ったのか。
眠いのか。
暑いのか。
寒いのか。
ただ泣きたいだけなのか。
どれも同じように聞こえる。
そして、どれも急を要するように聞こえる。
ラ・ヴィーニュ村のルクレール家に着いた時も、家の中から赤子の声がしていた。
アルマンは扉の前で一度立ち止まった。
荷を持ち直し、上着の埃を払う。
表向きはいつもの交易である。
葡萄酒の買い付け、布と油の取引、南部の小商い。
だが、本当の用件は外套の内側に縫い込んだ小さな革袋だった。
帝都から届いた金。
マルタン・ルクレールが、剣で稼いだ金である。
アルマンは扉を叩いた。
「はい、少し待って」
中からセリーヌの声がした。
昔より少し低く、少し早口になった声だった。
戸が開くまでに、赤子はさらに大きく泣いた。
それに重なるように、ミレーヌの声が響く。
「母さん、エミールが泣いてる!」
「聞こえているわ」
「リュカが水をこぼした!」
「それも見えているわ」
「ぼくじゃない、ミレーヌが押したんだ!」
「押してないもん!」
アルマンは、思わず額に手を当てた。
戸が開いた。
セリーヌがいた。
髪はゆるく結ばれ、頬には疲れがあり、袖には粉がついていた。
片腕には赤子を抱き、もう片方の手には濡れた布巾を持っている。
それでも、彼女はアルマンを見ると笑った。
「兄さん」
「……大丈夫か」
「何が?」
セリーヌは本気で聞き返した。
アルマンは家の中を見た。
床には水がこぼれている。
リュカが布を持って慌てて拭いている。
ミレーヌは何か言いたそうに頬を膨らませている。
赤子は泣いている。
鍋は火にかかっている。
洗濯物は椅子の背にかけられている。
大丈夫な要素は、一つもないように見えた。
「全部だ」
アルマンが言うと、セリーヌは少し笑った。
「なら、大丈夫。いつもこんな感じよ」
「それを大丈夫とは言わない」
「三人いるのよ。静かな日の方が怖いわ」
セリーヌはそう言い、赤子を揺らした。
「エミール。ほら、伯父さんよ」
赤子――エミールは泣くのをやめなかった。
むしろ、知らない男の顔を見て、さらに声を張り上げた。
「嫌われたな」
アルマンは言った。
「人見知りが始まったの」
「ずいぶん早いな」
「お兄さんの顔が怖いからよ」
ミレーヌが言った。
セリーヌが「こら」とたしなめたが、アルマンは反論できなかった。
家へ入ると、リュカがすぐに頭を下げた。
「アルマン伯父さん。いらっしゃいませ」
その動作が、妙に大人びていた。
前に来た時より、背が伸びている。
まだ少年だ。肩も細い。声も時々裏返る。
だが、目つきが少し変わっていた。
父親が家にいない家の長男の目だった。
「水をこぼしたのは俺です」
リュカは言った。
「ミレーヌは悪くありません」
「違うもん。私も押したもん」
ミレーヌが言い返した。
「押してない」
「押した!」
「どちらでもいい」
アルマンは荷を置きながら言った。
「水は拭けばいい。嘘をつく方が悪い」
リュカは少しだけ唇を噛んだ。
「はい」
その返事も、どこかマルタンに似ていた。
妙なところばかり似る。
アルマンは胸の内で呟いた。
セリーヌはエミールをあやしながら、鍋を見た。
「リュカ、火を弱くして」
「うん」
「ミレーヌ、布巾をもう一枚」
「はあい」
「兄さんは座って」
「俺も何か手伝う」
「その顔で台所に立たれると、エミールがもっと泣くわ」
アルマンは黙って椅子に座った。
家の中は貧しかった。
それは隠しようがない。
椅子には継ぎがあり、机には傷があり、壁の棚には必要最低限の食器しかない。
だが、以前よりは少し整っていた。
リュカの靴は新しかった。
上等ではないが、きちんと足に合っている。
ミレーヌの上着にも新しい布が使われていた。
エミールの寝かされる籠には、柔らかな毛布が一枚増えていた。
マルタンの金だ。
アルマンは、それを見て分かった。
あいつは、稼いでいる。
少なくとも、送っている。
それは認めざるを得なかった。
セリーヌは鍋を火から下ろし、ようやく椅子に腰を下ろした。
エミールは泣き疲れたのか、小さくしゃくり上げながら眠りかけている。
アルマンは外套の内側から革袋を取り出した。
「帝都からだ」
セリーヌの顔が変わった。
喜びと、不安が同時に浮かぶ。
「マルタンから?」
「ああ」
アルマンは革袋を机に置いた。
「今回は少し多い」
「怪我をしたの?」
最初に出た言葉がそれだった。
アルマンは、妹らしいと思った。
「手紙では、護衛任務の報奨だと言っていた。本人は刃毀れがどうとか言っていたが、どうせ半分は口実だ」
セリーヌは一瞬ぽかんとし、それから小さく笑った。
「あの人らしい」
「笑うところか?」
「無事なら、笑うところよ」
セリーヌは革袋に触れた。
すぐには開けなかった。
金があれば、できることがある。
靴が買える。薪が買える。薬が買える。小麦を買える。エミールの布も、ミレーヌの上着も、リュカの本も。
その重さを、彼女は知っている。
だからこそ、軽々しく喜ばなかった。
「助かるわ」
セリーヌは言った。
「本当に」
「だろうな」
「でも」
彼女はそこで言葉を止めた。
アルマンは続きを待った。
セリーヌは眠りかけたエミールの頬に触れた。
「この子は、まだ父親を知らないのね」
家の中が静かになった。
リュカが目を伏せた。
ミレーヌも、珍しく黙った。
アルマンは、革袋を見た。
金はある。
確かにある。
だが、金は父親ではない。
リュカが無理に背筋を伸ばす時、金はその肩を叩いてやれない。
ミレーヌが夜に父の名を呼んだ時、金は返事をしない。
エミールが泣く時、金は抱き上げない。
セリーヌが疲れ果てて椅子に座る時、金は代わりに鍋を見ない。
綺麗事かもしれない。
商人であるアルマンが言うことではないかもしれない。
金がなければ人は生きられない。そんなことは誰より知っている。
それでも、金だけで家は満ちない。
「あいつは」
アルマンは言った。
「器用なようで、不器用だ」
セリーヌが顔を上げた。
「昔からそうだった。頭を下げるのはうまい。剣も使える。人当たりも悪くない。だが、本当に大事なところで、自分一人で背負おうとする」
「……マルタンらしいわ」
「らしいで済むか」
アルマンは少し声を荒げた。
すぐにエミールが身じろぎしたので、声を落とした。
「金を送ればいい、という話ではない。夫が、父親が、この家には必要だ」
セリーヌは何も言わなかった。
リュカが拳を握っていた。
「僕がいます」
少年は言った。
声は震えていなかった。
「母さんも、ミレーヌも、エミールも、僕が手伝います。父さんが帰るまで」
アルマンはリュカを見た。
たくましくなった。
そう思った。
同時に、腹が立った。
本来なら、その言葉をこんな年の子どもに言わせるべきではない。
マルタン。
お前はこの顔を見た方がいい。
金より先に、この子の顔を見た方がいい。
アルマンは、そう思った。
だが、その言葉を手紙に書くことはできない。
書けばセリーヌが傷つく。
マルタンはさらに無理をする。
そして帝国とヴァレーヌの間を行き来する手紙に、余計な感情を書くのは危険でもあった。
アルマンはリュカの頭に手を置いた。
「手伝うのは偉い」
リュカはまっすぐ彼を見た。
「はい」
「だが、お前が父親になる必要はない」
リュカの目が揺れた。
「お前は長男だ。だが、子どもでもある。そこを間違えるな」
リュカは答えなかった。
分かっているのか、分かっていないのか。
あるいは、分かっていても受け入れられないのか。
アルマンには判断できなかった。
セリーヌが静かに言った。
「兄さん」
「何だ」
「今度、マルタンに会ったら伝えて」
「ああ」
「私たちは大丈夫だって」
アルマンは眉をひそめた。
「それでいいのか」
「いいの」
「本当にか」
セリーヌは少し笑った。
「大丈夫じゃないことも、あの人はきっと分かるわ」
アルマンは黙った。
分かるだろうか。
あの男は、妙なところで鈍い。
いや、鈍いのではない。気づいても、自分が傷つく方へ解釈する。
やはり不器用だ。
「それと」
セリーヌはエミールを抱き直した。
「この子の名前も」
「ああ」
「エミール。エミール・ルクレール」
アルマンは頷いた。
「いい名だ」
「マルタンに、そう伝えて」
「必ず」
セリーヌはようやく革袋を開けた。
銀貨を数える手は慎重だった。
商家の娘の手つきだった。
だが、数え終えたあと、その手でエミールの毛布をそっと直す仕草は、母のものだった。
アルマンはその様子を見ながら、帝都にいる幼馴染の顔を思い浮かべた。
腰が低く、謝るのがうまく、金を受け取る機会は逃さず、けれど肝心なところではどうしようもなく真面目な男。
マルタン。
早く気づけ。
金は必要だ。
お前の金は、この家を確かに支えている。
だが、この家は、お前自身も待っている。
外では、ラ・ヴィーニュの夕暮れが葡萄畑を赤く染めていた。
家の中では、エミールがまた小さく泣き出した。
今度は、リュカが立ち上がった。
「僕が見ます」
セリーヌが微笑んだ。
「ありがとう。でも、一緒に見ましょう」
アルマンは、その光景を黙って見ていた。
そして次に帝都へ行く時、あの不器用な男にどこまで伝えるべきかを、ずっと考えていた。
ここ以降は、毎日1投降頑張ります。
かなり下記進んだもんで、多分最終話まで頑張ります。




