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第8話 長剣と銀糸

 リオン・フォン・アルトベルクは、名簿の一点で目を止めた。


 マルタン・ルクレール。

 ヴァレーヌ共和国出身。

 平民。

 旧騎士長剣術師範。


 その三行だけで、充分に面倒だった。


 共和国人。

 それだけで警戒する理由になる。

 しかも、ただの食い詰め者ではなく、旧騎士長剣術の師範を名乗っている。

 ヴァレーヌでは革命後、騎士も貴族も制度としては否定されたはずだ。その国から、旧騎士剣術の師範が帝国へ流れてきた。


 食うに困ったか。

 あるいは、別の目的があるか。


 リオンは名簿を閉じた。


「気になるのか」


 隣でロビンが言った。


「気にならない方がおかしい」


 リオンは答えた。


「共和国人だぞ」


「だからといって、全員が敵とは限らない」


「君のそういうところは美徳だな、ロビン」


「褒めているのか」


「半分は」


 ロビンは苦笑した。


 稽古場では、志願者たちの乱戦試験が続いていた。

 怒鳴り声、木剣の音、土を蹴る足音。

 第二の戦いで灰鷹隊の名が上がって以来、志願者は増えた。食い詰め者もいれば、腕自慢もいる。中には本当に使える者もいるが、大半は熱と勢いだけだった。


 その中で、マルタン・ルクレールは奇妙だった。


 目立とうとしない。

 勝とうと叫ばない。

 相手を叩き伏せる快感に酔わない。


 彼は、ただ残った。


 突っ込んでくる者をずらし、足を止め、手首を打ち、勢いを別の相手へ流す。

 乱戦の中心には入らない。だが、逃げているわけでもない。

 視界に全員を入れられる位置へ動き、足場の悪い場所を避け、相手同士が邪魔になる距離を選んでいる。


 地味だった。

 だが、地味だからこそ厄介だった。


 リッカが小さく言った。


「うまいね、あの人」


 レイバーは帳簿に印をつけながら唸った。


「年が少し上だな。使えりゃ構わねえが、給金は若いのと同じでいいのか?」


「君は人を見る時、まず給金なのか」


 リオンが言うと、レイバーは顔も上げずに答えた。


「給金で揉める奴は、戦場より先に隊舎で問題を起こすからな」


「一理ある」


 ロビンは稽古場を見ていた。


「腕は確かだ。試してみる価値はある」


「では、僕が試そう」


 リオンが言うと、ロビンが振り向いた。


「リオンが?」


「不服か」


「いや。ただ珍しいと思って」


「共和国人の旧騎士剣術師範だ。放っておくには面白すぎる」


 リオンは木剣を取った。


 彼の本来の得物は、長剣ではない。

 片手で扱う細身の剣。帝国貴族が護身と決闘に用いる、サーベルに近い片手剣である。

 長い刃を両手で振るう騎士剣術とは、間合いも思想も違う。


 さらにリオンには、アルトベルク家に伝わる付加系の魔法があった。


 銀糸。


 そう呼ばれるその術は、武器へ何かをまとわせて威力を増すものではない。

 視界と皮膚感覚を細く研ぎ澄ませ、相手の筋肉の動き、踏み込みの前触れ、視線の揺れ、呼吸の切れ目を、糸の張りのように感じ取るための術である。


 一瞬先に、相手の動き出しが分かる。


 それは、決闘では大きすぎる利だった。


 もちろん、試験で本気の魔法を使うつもりはない。

 だが、感覚を少し研ぎ澄ませる程度なら問題はない。


 リオンは稽古場へ歩み出た。


「マルタン・ルクレール」


 男は丁寧に頭を下げた。


「はい」


「共和国人だそうだな」


「はい」


「長剣術師範、と申告している」


「父の道場で、そのように」


 腰が低い。

 声も柔らかい。

 気弱そうにすら見える。


 リオンは、その態度が気に入らなかった。


 気弱な男が、乱戦でああは動かない。

 腰の低さは性格かもしれない。だが、同時に、刃を隠す鞘でもある。


「では、少し見せてもらおう」


「お手柔らかに、お願いいたします」


「それは、君次第だ」


 試合は一本勝負になった。

 致命箇所への有効打。頭、首、胴、心臓の位置。

 刃は木剣で、寸止めとする。


 マルタンは長めの木剣を選んだ。

 リオンは片手剣に近い木剣を選ぶ。


 間合いが違う。

 体格はマルタンの方がやや大きい。

 年も上だ。

 だが、速さはこちらに分がある。


 審判役のレイバーが手を上げた。


「始め」


 リオンは即座に踏み込んだ。


 一手目。

 右肩へ斜めに切り込む。


 マルタンは両手で木剣を上げ、受けた。

 重い音がした。

 受けは間に合っている。だが、わずかに姿勢が硬い。


 二手目。

 リオンは剣を引かず、手首だけで軌道を変えた。

 首元への横薙ぎ。


 マルタンは半歩下がり、柄に近い部分で止めた。

 土が鳴る。


 三手目。

 下から胴へ。


 マルタンは剣を落とし、刃を滑らせるように受けた。


 リオンは眉を動かした。


 防戦一方。

 だが、崩れない。


 最初の受けは固かった。

 二手目は少し柔らかくなった。

 三手目は、ほとんど流していた。


 学習している。


 こちらの速度、手首の癖、踏み込みの幅を、攻撃を受けながら読み始めている。


 手の内を明かしすぎたか。


 リオンは少しだけ後悔した。


「その程度ではないだろう」


 リオンは言った。


 マルタンは困ったように笑った。


「いえ。充分、手一杯でございます」


 嘘だ。


 リオンは踏み込みを止めた。

 今度は待つ。


 マルタンの呼吸が変わった。


 攻める気配。


 銀糸の感覚が、相手の肩の動きを拾う。

 踏み込みは右足から。狙いは左胴。いや、胴を見せて、手首。


 見えた。


 マルタンが動いた。


 リオンは完全に読んでいた。

 木剣を斜めに置き、マルタンの長い剣を受け流す。

 返す刃で首筋へ入れる。


 入るはずだった。


 だが、マルタンの剣は流されたあと、止まらなかった。


 長い刃が、受け流された力をそのまま円に変え、下から戻ってくる。

 リオンは首への返しを諦め、身を引いた。


 木剣の先が、彼の胸元をかすめた。


 周囲がざわめいた。


 リオンは笑った。


「なるほど」


「申し訳ありません」


「なぜ謝る」


「少し、危なかったかと」


「それは僕の台詞だ」


 そこからは、打ち合いになった。


 リオンは速さで攻めた。

 マルタンは間合いで受けた。


 片手剣の利は、手数と角度にある。

 長剣の利は、圧と線にある。


 リオンが細く鋭く入れば、マルタンは太い線で道を塞ぐ。

 マルタンが圧をかければ、リオンは一歩外して側面へ回る。

 木剣と木剣が打ち合い、乾いた音が稽古場に重なった。


 普通の攻撃では入らない。


 リオンはそう判断した。


 そして同時に、マルタンも同じことを考えていると分かった。


 マルタンが距離を取った。


 長い木剣を右手側へ落とし、左足をわずかに引く。

 まるで鞘から剣を抜く直前のような構えだった。

 もちろん、木剣に鞘はない。

 だが、腰の高さ、肩の角度、視線の置き方が、抜刀に似ていた。


 何だ。


 リオンは動きを止めた。


 見たことのない構えだった。

 少なくとも、帝国貴族剣術にはない。


 待つべきか。

 誘いか。

 踏み込めば、何が来る。


 銀糸の感覚は、相手の初動を読む。

 だが、読めるのは動き出しであって、存在しない手の内ではない。


 何を隠している。


 リオンは迷った。


 危険だ。

 飛び込むべきではない。


 だが、見たい。


 この共和国人が、何を持っているのか。

 ただの食い詰め剣士なのか、危険な工作員なのか、それとも時代遅れの剣にまだ価値があると信じている愚か者なのか。


 見なければ、分からない。


 リオンは踏み込んだ。


 その瞬間、マルタンの剣が消えた。


 いや、消えたように見えた。


 低い位置から、長い木剣が跳ね上がる。

 抜刀の初速に似せた、下からの斬り上げ。

 リオンはそれを読んでいた。銀糸が肩の動きを拾っていた。


 受ける。


 そう判断した瞬間、マルタンの足が一歩、さらに深く入った。


 斬り上げは本命ではなかった。

 木剣の柄尻。

 長剣を振り上げる力を殺さず、柄尻がリオンの胸元へ突き込まれる。


 近い。


 片手剣の間合いより、さらに内側。


 リオンは身を捻った。

 完全には避けられない。


 マルタンの木剣の柄尻が、リオンの胸の中心で止まっていた。


 寸止め。


 ほんの紙一枚の距離。


 稽古場が静まり返った。


 リオンは、自分の心臓の鼓動を聞いた。


 負けた。


 そう理解するのに、一呼吸かかった。


 マルタンはすぐに剣を引き、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 息は荒い。

 額に汗もある。

 だが、その声は相変わらず丁寧だった。


 リオンは木剣を下ろした。


「今のは」


「少し、故郷の道場で教わったものを」


「名前は」


「大した名はございません。鞘がある時の技を、ない時に真似ただけです」


 リオンは目を細めた。


 また、嘘ではないが本当でもない答えだ。


 ロビンが歩み寄ってきた。


「見事だった、ルクレール殿」


「恐れ入ります」


 レイバーは帳簿に大きく印をつけた。


「採用候補だな。問題は身元と給金と、共和国人ってところだが」


「全部問題ではないか」


 リオンが言うと、ロビンは笑った。


「だからこそ、目の届くところに置く」


 それは、リオンが考えていた言葉でもあった。


 外に放てば、何をするか分からない。

 内に置けば、使えるし、見張れる。


 ロビンはマルタンへ手を差し出した。


「灰鷹隊へようこそ」


 マルタンは一瞬だけ戸惑い、それからその手を取った。


「よろしくお願いいたします」


 リオンは、その様子を見ていた。


 歓迎するには、まだ早い。

 信用するには、なお早い。


 だが、使える。


 そして、危険だ。


 リオンはその日、マルタン・ルクレールの名を覚えた。


   ◇


 マルタン・ルクレールにとって、その試合は勝ったというより、何とか終わったという感覚に近かった。


 帝国にも、すごい剣士がいる。


 それが最初の感想だった。


 リオン・フォン・アルトベルク。

 没落貴族だという黒髪の青年は、片手剣の速さだけでなく、こちらの動き出しを読むような妙な勘を持っていた。

 ほんの少し踏み込みを変えただけで反応される。

 視線をずらせば、そこを疑われる。

 攻めれば流され、受ければ次が来る。


 最後の一手が入ったのは、運が良かったからだ。

 マルタンはそう思った。


 少なくとも、もう一度同じ手を使って通じる相手ではない。


 試験のあと、ロビンは明るく迎えてくれた。

 レイバーは書類と給金と規律について早口で説明した。

 リッカという赤毛の槍使いは、マルタンの長剣をじろじろ見て「長いね」とだけ言った。


 リオンだけは、最後まで警戒を解かなかった。


「共和国人だから、ですか」


 マルタンが小さく尋ねると、リオンは平然と答えた。


「それもある」


「他にも?」


「腰の低い者ほど腹の底が見えない」


 マルタンは困ったように笑った。


「よく言われます」


「誰に」


「妻に」


 リオンは一瞬だけ黙り、それから鼻で笑った。


「ならば、奥方は正しいな」


 こうして、マルタン・ルクレールは灰鷹隊に入隊した。


 それは、家族を食わせるために帝国へ来た男が、帝国の落日に深く関わる始まりでもあった。


   ◇


 時は戻る。


 エレオノーラ護衛襲撃の翌々日、マルタンは帝都下町の雑踏を歩いていた。


 懐には、臨時報奨金があった。


 重かった。

 実際の銀貨の重さ以上に、重かった。


 あれだけあれば、リュカに新しい靴が買える。

 ミレーヌに温かい上着を用意できる。

 セリーヌには、もう少し良い布を買ってやれるかもしれない。

 生まれてきた子にも、毛布を。


 いや、全部は無理だ。

 送金の手数料もある。小分けにしろとアルマンに言われている。

 それでも、何かはできる。


 マルタンは、少し浮かれていた。


 浮かれていたので、アルマン商会帝都支店の扉を開けた時、受付の若者に笑顔で頭を下げてしまった。


「お世話になっております。送金をお願いしたく」


 奥から、聞き慣れた声がした。


「大金はやめろと言っただろう」


 マルタンは固まった。


 帳簿棚の陰から、アルマンが出てきた。

 旅装ではなく、帝都の商人らしい上着を着ている。

 顔は相変わらず険しい。


「アルマンさん」


「声が大きい」


「申し訳ありません」


「謝る声も大きい」


 マルタンは口を閉じた。


 アルマンは受付の若者へ目配せし、奥の小部屋へマルタンを連れていった。

 扉が閉まるなり、彼は手を出した。


「見せろ」


 マルタンは革袋を差し出した。

 アルマンは中を見て、眉間に皺を寄せた。


「多い」


「はい」


「はい、ではない」


「すみません。あまりに嬉しくて」


「子どもかお前は」


「返す言葉もございません」


 アルマンは深く息を吐いた。


「何をした」


「護衛任務で、少し」


「少しでこの額か」


「剣が刃毀れしたということで」


 アルマンは革袋から顔を上げた。


「刃毀れ?」


「はい」


「したのか」


 マルタンは視線を逸らした。


「……今後、するかもしれません」


 アルマンはしばらく黙っていた。

 それから、額を押さえた。


「セリーヌに似てきたな」


「どのあたりがでしょう」


「悪びれないところだ」


 マルタンは恐縮して頭を下げた。


 アルマンは金を数え、一部を別に分けた。


「送るのはこの額までだ。残りは持っておけ。帝都で仕事をしているなら、急に金が必要になることもある」


「ですが」


「家族のために生き延びる金も、家族の金だ」


 その言葉に、マルタンは黙った。


 アルマンは引き出しから一通の手紙を出した。


「セリーヌからだ」


 マルタンの手が止まった。


「読んでも」


「お前宛てだ」


 封を切る指が震えた。


 手紙は短かった。

 アルマンにそう言われていたのだろう。余計なことは書かれていない。


 リュカは元気です。

 ミレーヌは兄の靴を隠しました。

 下の子もよく泣きます。

 あなたの送ってくれたお金で、冬の支度ができます。

 どうか、怪我をしないで。

 帰ってくる日を待っています。


 マルタンは、何度も読んだ。


「下の子」


 声が掠れた。


「生まれたのですね」


 アルマンは頷いた。


「男の子だ」


 マルタンは目を閉じた。


 会ったことのない息子。

 抱いたことのない子。

 その子が泣き、セリーヌがあやし、リュカとミレーヌが覗き込んでいる。


 想像しただけで、胸が痛かった。


「名は」


「手紙には書いていない。危ないからな。だが、次に俺が聞いてくる」


「お願いします」


 マルタンは手紙を胸に押し当てた。


 もっと働かねばならない。


 そう思った。


 リュカの靴のために。

 ミレーヌの上着のために。

 まだ名も知らぬ息子の毛布のために。

 セリーヌが倉庫で荷を運ばなくて済むように。


 そして、いつか帰る日のために。


 アルマンは、そんなマルタンを見て、少しだけ声を和らげた。


「無理はするな」


「はい」


「お前のはいは信用ならん」


「努力します」


「それも信用ならん」


 マルタンは小さく笑った。


 アルマンも、ほんの少しだけ笑った。


 帝都の外では、人々の声がしていた。

 灰鷹隊の任務は、これからさらに増える。

 帝都はまだ平穏に見えたが、その下では何かが動き始めている。


 マルタンは手紙を懐にしまった。


 剣で飯を食わせる。


 かつては誇りの言葉だった。

 今は、ただの約束だった。


 それでも、約束は約束だ。


 彼は深く頭を下げ、アルマン商会帝都支店を後にした。


 いつか帰る日まで。


 その日まで、マルタン・ルクレールは、灰鷹隊で働き続ける。


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