第7話 帝都の門前
帝都は、朝から騒がしかった。
荷馬車の車輪が石畳を叩き、露店の呼び込みが通りに響き、軍服の男たちが忙しなく行き交っていた。
高い尖塔、灰色の城壁、広い大通り、貴族の馬車、煙を上げる工房、下水の匂い、焼きたてのパンの匂い。
マルタン・ルクレールは、旅埃のついた外套の襟を正しながら、その街を見上げた。
驚きはなかった。
彼はリュシアンの生まれである。
首都の騒がしさも、人の多さも、石造りの建物が空を狭くする感覚も知っていた。
田舎者のように口を開けて立ち尽くすほど、帝都は彼にとって未知ではない。
だが、懐かしさはあった。
人が多い。
声が多い。
誰もが自分の行き先だけを見て歩き、他人の事情など踏み越えていく。
リュシアンも、そういう街だった。
もっとも、ここはヴァレーヌではない。
トゥーゲンフルス帝国の帝都であり、マルタンは正式な旅券を持たぬ密入国者だった。
懐かしんでいる場合ではなかった。
まず、仕事である。
アルマンから受け取った金は、長くはもたない。
宿代、食費、身なりを整える金、そしてセリーヌへ送る金。
稼げなければ、何のために国境を越えたのか分からない。
マルタンは、道を尋ねながら帝国軍騎士団の募集所へ向かった。
募集所は、兵営区画の外れにあった。
石造りの門の前に、若い男たちが列を作っている。
農村から来たらしい日焼けした青年、没落貴族の次男坊らしい細身の少年、戦功を夢見る商家の息子、すでに軍歴がありそうな逞しい男。
マルタンは列の最後尾に並んだ。
周囲の者たちが、ちらちらと彼を見た。
年齢のせいだろう。
訛りのせいだろう。
あるいは腰の長剣のせいかもしれない。
やがて順番が来た。
机の向こうには、口髭を整えた下士官が座っていた。
彼は退屈そうに書類へ目を落とし、顔も上げずに言った。
「名」
「マルタン・ルクレールと申します」
下士官の筆が止まった。
「もう一度」
「マルタン・ルクレールです」
「帝国人ではないな」
「ヴァレーヌ出身です」
下士官は、ようやく顔を上げた。
その目に浮かんだのは、興味ではなかった。
面倒なものを見つけた時の目だった。
「身分証」
マルタンは、ヘルヴェンで用意された通行証めいた紙を差し出した。
それはヘルヴェンの商人宿が発行した滞在証明に近いもので、帝国での正式な入国書面ではない。
下士官は一目見て、鼻で笑った。
「これは何だ」
「ヘルヴェンで」
「帝国の入国印がない」
「事情がありまして」
「事情は聞いていない。入国印がないと言っている」
マルタンは頭を下げた。
「剣を見ていただければと」
「何?」
「旧騎士長剣術を修めております。ヴァレーヌでは道場を」
「貴族か」
「いえ、平民です」
下士官の顔から、わずかに残っていた関心も消えた。
「外国人。平民。入国書面不備」
彼は机の上で指を三度叩いた。
「帰れ」
「ですが」
「次」
「せめて、実技だけでも」
下士官は隣の兵に目をやった。
兵が一歩前に出た。
「帰れと言われたら帰れ」
マルタンは口を閉じた。
剣を抜けば終わりだった。
ここで腕前を見せようとすれば、見てもらえるどころか、騒乱罪か密入国の疑いで捕まるだけだ。
彼は深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
背後で、誰かが小さく笑った。
マルタンは列を離れた。
門の外へ出ると、帝都の光がやけに眩しかった。
大通りを行く人々は、誰も彼を見ていない。
見ていないのに、すべての視線が自分を通り抜けていくような気がした。
外国人。
平民。
入国書面不備。
三つの言葉が、机を叩く指の音と一緒に頭の中で繰り返された。
剣を見てもらえれば。
そう思っていた。
剣だけは、国境を越えられると思っていた。
リュシアンで不要とされ、ラ・ヴィーニュで食えなくなった剣でも、帝国ならばまだ使い道があると信じていた。
だが、剣を抜く場所に立たせてもらえなければ、剣士などいないのと同じだった。
マルタンは、その日、宿を探した。
安い宿でよかった。
狭くてもいい。藁の寝台でもいい。屋根があり、荷を置けて、明日もう一度仕事を探せる場所なら。
しかし、帝都の宿代は高かった。
大通りに面した宿は論外で、商人向けの宿も高い。
兵営区画近くの安宿は身分証の提示を求め、マルタンの書面を見ると首を振った。
歩くうちに、彼は帝都の下町へ入っていた。
石畳は欠け、路地は狭くなり、洗濯物が窓から窓へ渡されている。
酒場の扉は昼から開いており、魚の匂いと油の匂いと安酒の匂いが混じっていた。
リュシアンにも似た場所はあった。
どこの首都にも、光の届きにくい路地はある。
宿屋の看板を探して角を曲がった時、怒鳴り声がした。
「もう一度言ってみろ!」
「言ってやるとも、この樽腹野郎!」
酒場の前で、男たちが掴み合っていた。
酔っ払い同士の喧嘩である。
最初は二人だったらしいが、止めに入った者が突き飛ばされ、野次馬の一人が殴られ、気づけば六、七人が入り乱れていた。
マルタンは避けようとした。
関わるべきではない。
彼は密入国者で、仕事もなく、余計な騒ぎに巻き込まれる余裕などなかった。
だが、乱闘の輪が路地いっぱいに広がった。
誰かが突き飛ばされ、マルタンの胸にぶつかった。
「何しやがる!」
男は、自分からぶつかったくせに怒鳴った。
「失礼いたしました」
マルタンは頭を下げ、横へ抜けようとした。
「おい、待て。よそ者か」
別の男が、マルタンの外套を掴んだ。
「その剣は飾りか?」
「仕事道具です」
「剣士様だとよ!」
笑い声が起きた。
マルタンは溜息を飲み込んだ。
「通していただけませんか」
「通りたきゃ、酒を奢れ」
「申し訳ありません。持ち合わせが」
「なら剣を置いていけ」
男の手が、マルタンの長剣へ伸びた。
その瞬間、マルタンの目が変わった。
彼は剣を抜かなかった。
鞘ごと、腰から外しただけだった。
男の手首に、鞘尻が落ちた。
「ぎゃっ」
骨は折れていない。
だが、握力は一瞬で消える。
マルタンは半歩下がり、突っ込んできた別の男の足首を鞘で払った。
男は石畳に背中から落ち、息を詰まらせた。
「この野郎!」
拳が飛んだ。
マルタンは身を沈めた。
拳は肩の上を通り過ぎる。
彼は鞘を短く持ち替え、男の肋骨の下を軽く突いた。
軽く、である。
しかし、酔った男には充分だった。
男は膝から崩れ、酒を吐いた。
野次馬の声が変わった。
笑いから、驚きへ。
マルタンは剣を鞘から抜かないまま、路地の中央へ出た。
「皆様」
彼は丁寧に言った。
「お怪我をなさる前に、おやめになった方がよろしいかと」
「もう怪我してるだろうが!」
誰かが叫んだ。
「それは……申し訳ありません」
謝りながら、マルタンは背後から掴みかかってきた男の指を外し、肘を軽く極めて地面へ伏せた。
彼の動きは大きくなかった。
派手に跳ぶわけでも、力任せに殴るわけでもない。
酔っ払いの重心をずらし、足を止め、手首を落とし、息を奪う。
人を殺す技ではなく、人を止める技だった。
だが、止められた側はたまらない。
数人が倒れ、数人が後ずさった。
その時、一人の男が腰の短刀を抜いた。
空気が変わった。
酔いに任せた喧嘩と、刃物沙汰は違う。
野次馬が一斉に距離を取った。
「舐めやがって」
男は顔を真っ赤にしていた。
目は据わっているが、足元は危うい。
刃先も定まっていない。
だからこそ危険だった。
マルタンは、初めて声を低くした。
「おやめなさい」
「うるせえ!」
男が突っ込んだ。
マルタンは一歩だけ踏み込んだ。
逃げるのではなく、間合いを潰した。
短刀を持つ手首に鞘を当て、刃筋を外す。
同時に肩で男の胸を押し、足を掛けた。
男の体が浮いた。
次の瞬間、男は石畳に叩きつけられていた。
短刀が転がる。
マルタンはそれを足で遠くへ蹴り、鞘尻を男の喉元の横、石畳に突き立てた。
殺してはいない。
だが、男は動けなかった。
「刃物は、酔いが醒めてからお持ちください」
マルタンは静かに言った。
そこへ、笛の音が響いた。
「そこまでだ!」
灰青色の短い外套をつけた数名の男たちが、路地へ駆け込んできた。
帝都巡衛隊の一隊かと思ったが、装いが少し違う。
揃いの首布、槍、短剣、簡素だがよく手入れされた防具。
先頭の若い隊士が、倒れた酔っ払いとマルタンを見比べた。
「……何だ、これは」
「申し訳ありません」
マルタンは長剣を鞘ごと両手で持ち、頭を下げた。
「通りがかったところ、少々巻き込まれまして」
「少々?」
隊士は路地に転がる男たちを見た。
「これで少々か」
別の隊士が、短刀を拾い上げた。
「刃物まで出てるぞ、バドー」
バドーと呼ばれた隊士は、マルタンへ目を戻した。
まだ若い。だが、目つきは悪くない。
下町の喧嘩に慣れている者の目だった。
「お前がやったのか」
「はい。ただ、刃は抜いておりません」
バドーはマルタンの長剣を見た。
「抜かずにこれか」
「皆様、酔っておられましたので」
「嫌味か?」
「いえ、とんでもありません」
マルタンはまた頭を下げた。
バドーは少し笑った。
「名は」
「マルタン・ルクレールと申します」
「訛りがあるな。西か」
「ヴァレーヌです」
周囲の隊士たちがわずかに反応した。
バドーも眉を上げた。
「共和国人か」
「はい」
「こんなところで何をしている」
「仕事を探しております」
「その剣で?」
「できれば」
バドーはしばらくマルタンを見ていた。
それから、倒れている酔っ払いの一人を足で小突いた。
「立てる奴は立て。立てない奴はそこで反省してろ。刃物を出した奴は連れていく」
隊士たちが手際よく動いた。
酔っ払いを引き起こし、野次馬を散らし、短刀を持っていた男を縛る。
その間に、バドーはマルタンの隣へ来た。
「騎士団へ行ったか」
マルタンは驚いた。
「なぜ」
「まるで兵営区画で門前払いされたような顔だ」
「そのような顔がありますか」
「ある。帝都ではたまに見る」
バドーは肩をすくめた。
「騎士団は無理だろうな。外国人で平民なら、なおさらだ」
「はい」
「そういうやつには灰鷹隊を勧めるようにしている」
「灰鷹隊」
初めて聞く名だった。
「正式には、帝都巡衛隊第三……いや、今は公爵騎士団隷下の……ええと」
バドーは途中で面倒になったように手を振った。
「灰鷹隊だ」
「灰鷹隊」
「そっちの方が通りがいい。少し前の戦で手柄を立てて、今、人を増やしている。平民でも入れる。腕があればな」
「私のような者でも」
「知らん。俺が決めるわけじゃない」
バドーは笑った。
「だが、今のを見た限り、試験で木剣を握るくらいは許されるんじゃないか」
マルタンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は受かってから言え。場所は分かるか」
「いえ」
「明後日の朝、旧東厩舎跡だ。灰青の首布をした連中に聞けば分かる。遅れるなよ。うちの副官殿は時間にうるさい」
「副官殿」
「レイバー殿だ。財布の紐と同じくらい顔が固い」
周囲の隊士が吹き出した。
バドーはマルタンへ視線を戻した。
「あと、宿なら二つ先の路地を右だ。安い。寝台は硬いが、床よりましだ」
「重ね重ね、ありがとうございます」
「だから礼は受かってからだ」
バドーはそう言って、縛った酔っ払いを引きずっていった。
マルタンはしばらく、その灰青色の背中を見送っていた。
灰鷹隊。
名前だけが、胸の中に残った。
明後日の朝、マルタンは旧東厩舎跡へ向かった。
そこは、兵営区画から少し外れた広い敷地だった。
古い厩舎を改修した建物があり、脇には土を固めた稽古場がある。
槍を持つ若者、木剣を振る男、馬の手入れをする隊士、書類束を抱えた者。
騎士団の募集所とは違い、空気が雑然としていた。
だが、活気があった。
門の前で名を告げると、マルタンは他の志願者たちと一緒に並ばされた。
志願者は多かった。
第二の戦いで武功を立てた灰鷹隊の名は、すでに帝都の下町でも知られ始めていた。
槍働きで身を立てたい者、食い詰めた若者、没落した家の次男、元巡衛、喧嘩自慢、そして純粋に憧れて来た少年。
マルタンは、その中では年長だった。
周囲より一回り上に見える男が、腰低く列の端に立っている。
それだけで目立った。
「次、十人ずつ前へ」
指示を出していたのは、バドーではなかった。
鋭い目をした青年で、名簿を抱えている。
おそらく彼が、バドーの言っていたレイバーという副官だろう。
稽古場の奥には、数人の隊士が立っていた。
その中央に、灰青色の外套をまとった若い男がいる。
どこか貴族めいた整った顔立ちで、しかし気取ったところはない。
ロビン・フォン・バーゼル。
その名は、志願者たちの囁きから知れた。
灰鷹隊の隊長。
第二の戦いで名を上げた若き槍使い。
彼の隣には、赤毛の少女が槍を持って立っていた。
少女というには眼光が鋭すぎた。
さらに少し離れた場所に、黒髪の青年貴族が腕を組んでいる。
その視線だけが、他の誰とも違っていた。
値踏みする目だった。
マルタンは、その目を一瞬だけ感じた。
すぐに頭を下げた。
試験は、まず乱戦形式だった。
十人ずつ稽古場へ入り、木剣や木槍を持って戦う。
最後まで立っていればよい、という単純なものではない。
動き、判断、周囲を見る目、退く時の足、味方を使う感覚。それらを見られている。
マルタンは木剣を選ばなかった。
長い棒を一本借りた。
「剣じゃないのか」
係の隊士が聞いた。
「長さが近いので」
マルタンは丁寧に答えた。
合図が鳴った。
若者たちが一斉に動いた。
最初に目立とうとした男が、二人に挟まれて転がった。
槍を持った志願者が大振りに突き、避けられて背中を打たれた。
怒鳴り声、足音、木がぶつかる音。
その中で、マルタンは端にいた。
逃げているようにも見えた。
実際、彼は逃げていた。
最初の勢いで潰し合う若者たちから距離を取り、壁を背にせず、足場の良い場所を探した。
一人が突っ込んできた。
マルタンは棒を斜めに置き、相手の木剣を滑らせた。
同時に柄で手首を軽く打つ。
木剣が落ちる。
肩を押す。
相手は尻餅をついた。
「次の方」
マルタンは小さく呟いた。
二人目は、背後から来た。
マルタンは振り返らなかった。
足音だけで半歩横へずれ、棒の石突きで膝の内側を払った。
相手が崩れたところで、首筋の横に棒を置く。
「失礼」
三人目は慎重だった。
間合いを取り、様子を見る。
マルタンも動かなかった。
若者は焦れた。
踏み込む。
その瞬間、マルタンの棒が伸びた。
突きではない。
相手の木槍の根元を押さえ、体ごと横へ流す。
若者は自分の勢いで別の志願者とぶつかった。
マルタンは倒さなかった。
倒す必要がなかった。
稽古場の端で、レイバーの筆が止まった。
ロビンがわずかに身を乗り出した。
赤毛の少女が目を細めた。
黒髪の青年貴族だけは、最初からそうなると分かっていたような顔をしていた。
やがて、合図が鳴った。
稽古場に立っていたのは、マルタンを含めて三人だけだった。
他の二人は息を切らしていた。
マルタンも汗はかいていたが、呼吸は乱れていない。
係の隊士が声を上げた。
「そこまで」
マルタンは棒を返し、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
周囲がざわついた。
年嵩の、腰の低い、訛りのある外国人。
その男が、乱戦の中でほとんど誰にも打たれずに勝ち残った。
マルタンは視線を感じた。
称賛。
警戒。
疑念。
そして一つだけ、妙に冷静な視線。
黒髪の青年貴族が、ゆっくりと稽古場へ歩み出た。
「マルタン・ルクレール」
彼は名を呼んだ。
「はい」
「共和国人だそうだな」
「はい」
「長剣術師範、と申告している」
「父の道場で、そのように」
青年貴族は、薄く笑った。
「では、少し見せてもらおう」
周囲の空気が変わった。
マルタンは、相手の名をまだ知らなかった。
だが、その目を見て分かった。
この男は、下町の酔っ払いでも、騎士団の門番でも、乱戦の志願者でもない。
剣を知っている目だった。
マルタンは静かに頭を下げた。
「お手柔らかに、お願いいたします」
青年貴族は答えた。
「それは、君次第だ」




