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第6話 夜に出る

 出立は、夜明け前と決まった。


 村人に見られないためだった。

 余計な噂を立てないためだった。

 そして何より、子どもたちに起きてほしくなかった。


 ラ・ヴィーニュ村は眠っていた。

 葡萄棚の向こうに月が沈みかけ、丘の影はまだ黒かった。

 家々の窓に灯りはなく、遠くで犬が一度だけ吠えた。


 マルタンは、いつもの稽古着ではなく、旅用の古い外套を着ていた。

 腰には長剣。

 肩には小さな荷。

 中身は着替えと、干し肉と、黒パンと、セリーヌが縫った布袋だけだった。


 袋の中には、彼女が持たせた針と糸、小さな聖印、そして子どもたちの髪を少しずつ束ねたものが入っていた。


 彼は寝室の戸を、音を立てないように開けた。


 リュカは寝相が悪く、毛布を半分蹴飛ばしていた。

 少年らしく手足が伸び始めているのに、寝顔はまだ幼い。

 ミレーヌは兄の腕にしがみつくように眠っていた。髪が頬に貼りつき、口が少し開いている。


 マルタンは、まずリュカの毛布を直した。

 それから、ミレーヌの額にかかった髪をそっと払った。


 起こしてはいけない。

 そう思っているのに、名前を呼びたくて仕方がなかった。


 リュカ。

 ミレーヌ。


 父は行きます。

 すぐに戻ると言えない場所へ。

 帰れると約束することすら、本当は怖い場所へ。


 マルタンは膝をつき、二人の頭に手を置いた。

 剣を握る手だった。

 硬く、節くれ立ち、傷のある手だった。


 この手で何を守れるのか。

 彼には、まだ分からなかった。


 それでも、守るために行くのだと、自分に言い聞かせた。


 寝室を出ると、セリーヌが台所に立っていた。

 灯火は小さく、彼女の顔を半分だけ照らしていた。

 泣いてはいなかった。

 少なくとも、マルタンの前では泣いていなかった。


「これを」


 セリーヌは包みを差し出した。


「黒パンと、干し葡萄。少しだけチーズもあるわ」

「ありがとうございます」

「途中で一度に食べないで」

「はい」

「知らない人についていかないで」


 マルタンは少しだけ笑った。


「子どもではありません」

「あなたは時々、リュカより危なっかしいもの」


 セリーヌも笑おうとした。

 だが、うまくいかなかった。


 二人はしばらく向かい合ったまま、何も言えなかった。


 言うべきことは、いくらでもあった。

 言えば、きりがなかった。

 どれも今さらで、どれも足りなかった。


「行ってまいります」


 マルタンは頭を下げた。


 夫婦の別れにしては、あまりに他人行儀だった。

 だが、そうでもしなければ、彼は足を動かせなかった。


「……行ってらっしゃい」


 セリーヌは言った。


 その声は、驚くほど静かだった。


 戸を開けると、冷たい夜気が入ってきた。

 マルタンは一度だけ家の中を振り返った。

 台所。

 小さな食卓。

 継ぎの当たった椅子。

 壁に掛かった子どもたちの上着。

 煮込みの匂いが染みついた家。


 それが、彼の国だった。


 マルタンは外へ出た。

 戸が、静かに閉まった。


 アルマンは村外れで待っている。

 そこまで一人で歩くはずだった。


 家から数ブロック進んだところで、背後から足音が聞こえた。


 最初は風かと思った。

 次に、犬かと思った。

 だが、その足音は泥を跳ね、息を乱し、彼の名を呼んだ。


「マルタン」


 振り返ると、セリーヌがいた。


 外套もまともに羽織らず、髪も結いきれていない。

 裸足ではなかったが、靴紐はほどけていた。

 彼女は息を切らしながら、泣いていた。


「セリーヌ」


 マルタンが名前を呼ぶより早く、彼女は彼に飛びついた。


 マルタンは荷を落とし、妻を抱きしめた。

 強く。

 彼女が壊れてしまうのではないかと思いながら、それでも強く抱きしめた。


「ごめんなさい」


 セリーヌが言った。


「ごめんなさい。ちゃんと見送るつもりだったの。泣かないで、笑って、行ってらっしゃいって言うつもりだったの」


「セリーヌ」


「でも、できなかった」


 彼女の指が、マルタンの外套を掴んだ。


「行かないで、と言いたい」


 その言葉に、マルタンの胸が潰れた。


「言えばいいのです」


 彼は囁いた。


「私は、それを聞く責任があります」


「でも、言ったら、あなたは困るでしょう」


「はい」


「私も困るわ」


「はい」


「だから言わない」


 セリーヌは泣きながら笑った。


「言わないから、今だけ」


 マルタンは何度も頷いた。


「苦労をかけて、済みません」


「それは言わないで」


「言わせてください」


 彼は妻の髪に顔を埋めた。


「子どもたちを、頼みます」


「ええ」


「リュカを」


「ええ」


「ミレーヌを」


「ええ」


「生まれてくる子を」


 セリーヌの肩が震えた。


「ええ」


「必ず帰ります」


 その言葉だけは、言ってから怖くなった。

 約束できるのか。

 国境を越え、敵国へ入り、どこの誰とも知れぬ男として剣を売る自分に。


 それでも、言わないわけにはいかなかった。


「必ず、帰ります」


 セリーヌは答えなかった。

 ただ、彼の胸に額を押しつけた。


 やがて、マルタンは彼女の手をそっと外した。


 セリーヌが首を振った。


「もう少し」


「行かねばなりません」


「分かってる」


「アルマンさんが待っています」


「分かってる」


 だが、手は離れなかった。


 マルタンは、最後に妻の額へ唇を触れた。


「愛しています」


 セリーヌの目が大きく開いた。


 マルタンは荷を拾った。

 そして、振り切るように走った。


 歩けば戻ってしまう。

 振り返れば崩れてしまう。

 だから走った。


 背後で、セリーヌが彼の名を呼んだ。

 マルタンは振り返らなかった。


 セリーヌは道端にへたり込んだ。

 両手で口を押さえ、声を殺そうとして、できなかった。

 夜明け前のラ・ヴィーニュ村に、彼女の泣き声が小さくこぼれた。


 マルタンはそれを聞きながら、走った。


 村外れの葡萄棚の陰で、アルマンが待っていた。


 荷馬車が一台あった。

 葡萄酒の樽と布袋が積まれ、その隙間に人一人が隠れられる場所が作られていた。

 アルマンは外套の襟を立て、腕を組んでいた。


「遅い」


「申し訳ありません」


 アルマンはマルタンの顔を見た。

 そして、何かを言いかけてやめた。


「乗れ」


 それだけだった。


 荷馬車は、夜明けとともにラ・ヴィーニュ村を出た。


 村は背後に小さくなっていった。

 丘も、葡萄棚も、道場も、家も、やがて朝靄の中に沈んだ。


 マルタンは樽の陰に身を潜めながら、ずっとその方角を見ていた。


 ヴァレーヌ共和国を出る道のりは、長かった。


 だが、物語にするほどの冒険ではなかった。

 アルマンは商人であり、商人は道を知っていた。

 どの村で泊まれば余計な質問をされないか。

 どの検問で何を見せればいいか。

 どの役人には書類を、どの役人には葡萄酒を渡せばいいか。


 マルタンは荷として運ばれた。

 時に荷台の下へ潜り、時に商隊の護衛の一人のふりをし、時にアルマンの遠縁の病人ということにされた。


「咳をしろ」


 検問の前でアルマンが囁いた。


「咳、ですか」

「病人だと言った」

「私は病人には見えないのでは」

「なら今から病人になれ」


 マルタンは咳をした。

 下手だった。

 アルマンに足を踏まれた。


 そんなことを繰り返しながら、二人は北東へ進み、やがて山が見える土地へ入った。


 ヘルヴェン中立連邦。


 ヴァレーヌと帝国の間に横たわる山岳国である。

 高い峰と深い谷、峠の宿場、厳格な通行証、そしてどこの国の貨幣でも受け取る商人たちの国。

 戦争を嫌うと言いながら、傭兵と銀行と中継貿易で栄えた国でもあった。


 アルマンの商会は、そのヘルヴェンにも小さな支店を持っていた。


 支店といっても、石造りの倉庫の二階に机を置いただけの場所だった。

 窓の外には灰色の山肌が見え、通りにはヴァレーヌ語、帝国語、ヘルヴェン訛りの言葉が入り混じっていた。


 そこで、マルタンは初めて荷台から降り、まともな寝台で眠った。


 翌朝、アルマンは帝国側へ向かう峠道の地図を広げた。


「ここから先は、一人で行け」


 彼は言った。


「私は、同行できないのですか」

「俺が帝国へ入る時は、正規の商人査証を使う。荷も帳簿も、従業員もそろえてな。密入国者を連れていく余地はない」


「はい」


「はい、ではない」


 アルマンは苛立ったように指で地図を叩いた。


「お前は今から犯罪者になる。分かっているのか」


「国境を越える時点で、そうなのでしょう」


「軽く言うな」


 アルマンの声が低くなった。


「捕まれば、俺はお前を知らないと言う」


「当然です」


「セリーヌにも、そう言わせる」


 マルタンは少しだけ顔を強張らせた。


 アルマンはそれを見逃さなかった。


「それくらいのことをするんだ。分かれ」


「……はい」


 しばらく、二人は黙って地図を見下ろした。


 やがてアルマンは、小さな革袋を机に置いた。

 中には帝国銀貨が入っていた。


「貸しだ」


「これ以上は」


「貸しだと言った」


 アルマンは遮った。


「返せ。帝国で稼いで、必ず返せ。返す相手は俺ではない。セリーヌだ。子どもたちだ」


 マルタンは革袋に手を伸ばせなかった。


「受け取れ」


「ですが」


「ここまで来て、変な誇りを出すな」


 その言葉は鋭かった。


「お前の誇りで妹の腹は膨れん。リュカの靴も大きくならん。ミレーヌの毛布も増えん。分かったら受け取れ」


 マルタンは両手で革袋を受け取った。


「ありがとうございます」


「腹が立つ」


 アルマンは椅子に座り、額を押さえた。


「昔からそうだ。お前は頭を下げるのがうまい。だから余計に腹が立つ」


「すみません」


「謝るな。それも腹が立つ」


 マルタンは口を閉じた。


 アルマンは深く息を吐いた。


「送金は、この支店を使え」


 彼は机の引き出しから一枚の紙を出した。


「帝都に、うちと取引のある商会がある。表向きは別名義だ。そこへ金を預ければ、ヘルヴェンを通して俺が受ける。俺からセリーヌへ渡す」


「危険では」


「危険だ。だから頻繁に大金を送るな。小分けにしろ。手紙も短くしろ。余計なことは書くな。帝国軍だの騎士団だの灰鷹だの、そういう名は絶対に書くな」


「分かりました」


「本当か?」


「努力します」


「それでいい」


 アルマンは、少しだけ表情を緩めた。


「俺も時々、商人査証で帝国へ入る。正規の道だ。お前のような馬鹿とは違う」


「はい」


「帝都支店に顔を出せ。生きているかどうかくらいは確認する」


「ご迷惑を」


「迷惑だ」


 アルマンは即答した。


「それでも、妹が泣くよりはましだ」


 マルタンは何も言えなかった。


 アルマンは立ち上がった。

 そして、マルタンの肩を強く掴んだ。


「帰ってこい」


 短い言葉だった。


「金を送れ。仕事を見つけろ。だが、それだけでは足りん。帰ってこい。セリーヌに、子どもたちに、顔を見せろ」


「はい」


「必ずだ」


「はい」


 アルマンは、しばらくマルタンを睨んでいた。

 それから、不意に抱き寄せた。


 乱暴な抱擁だった。

 友情というには硬く、別れというには短い。


「死ぬな、マルタン」


 耳元で、アルマンが言った。


「妹を未亡人にしたら、地獄まで取り立てに行くからな」


 マルタンは笑いそうになり、笑えなかった。


「それは、恐ろしい」


「覚えておけ」


 二人は離れた。


 その日の夕方、マルタンはヘルヴェンの峠道へ入った。


 案内人は、片目の老人だった。

 名は名乗らなかった。

 金を受け取り、無言で歩き出した。


 道は細く、石だらけで、谷から冷たい風が吹き上げた。

 遠くの峰には雪が残っていた。

 マルタンは外套をかき寄せ、長剣が岩に当たらないように気をつけながら歩いた。


 夜になると、老人は火を焚かなかった。


「灯りは見える」


 それだけ言った。


 マルタンは黒パンをかじり、セリーヌの干し葡萄を少しだけ食べた。

 甘かった。

 喉が詰まるほど、甘かった。


 翌日の未明、老人は足を止めた。


 谷の向こうに、黒い森が広がっていた。

 その先に低い石壁と、見張り小屋の影がある。


「帝国だ」


 老人は言った。


「あの沢を下れ。森を抜けたら街道がある。兵に見つかるな」


「あなたは」


「ここまでだ」


 老人は手を出した。

 マルタンは残りの金を渡した。


 老人は数えもせず、懐に入れた。


「剣士か」


 初めて、老人がマルタンをまともに見た。


「はい」


「剣は国境を知らんが、兵隊は知っている」


「覚えておきます」


「覚えるだけでは死ぬぞ」


 老人はそう言って、来た道を戻っていった。


 マルタンは一人になった。


 沢へ下り、冷たい水に足を濡らしながら進んだ。

 枝が顔を打ち、石で膝を擦った。

 森の中で何度も足を止め、見張りの声がしないか耳を澄ませた。


 夜明け前、彼は石壁の切れ目を抜けた。


 そこに、門はなかった。

 祝福も、検査も、旅券への印もなかった。


 ただ、湿った土と、知らない国の森があった。


 トゥーゲンフルス帝国。


 かつて父が、古い騎士の国だと言っていた場所。

 ヴァレーヌの市民たちが、専制と貴族の亡霊と呼ぶ場所。

 セリーヌと子どもたちの飯を稼ぐため、マルタンが剣を売りに来た場所。


 彼は振り返った。


 山の向こうに、ヴァレーヌがある。

 さらにその向こうに、ラ・ヴィーニュ村がある。

 セリーヌがいる。

 リュカがいる。

 ミレーヌがいる。

 まだ名もない子がいる。


 マルタンは深く息を吸った。


「必ず帰ります」


 誰もいない森の中で、彼はそう言った。


 そして、帝国の土を踏んで歩き出した。


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