第5話 妻の働き口
幸福が終わる時、音はしなかった。
葡萄棚はその年も芽吹いた。
春になれば丘は柔らかな緑に覆われ、夏になれば葉は厚く茂り、秋になれば村人たちは収穫に追われた。
ラ・ヴィーニュ村の朝には相変わらず鶏の声があり、夕暮れには葡萄酒の匂いがあった。
だが、マルタンの道場からは、少しずつ木剣の音が減っていった。
最初に来なくなったのは、大人たちだった。
「先生、すまん。今年は畑が厳しくてな」
「ええ。お気になさらず」
「来月には、また」
来月、と言った男は、翌月も来なかった。
次に、若者たちが減った。
街道の夜盗が少なくなったわけではない。だが革命の熱が一段落し、村を焼きに来る軍勢も、貴族の私兵も、少なくとも今は見えなかった。
人は危険が目の前にある時には棒の振り方を学ぶが、危険が少し遠のくと、畑に出る方を選ぶ。
それは当然のことだった。
当然のことだからこそ、マルタンにはどうにもできなかった。
子どもたちも減った。
村の外れに、共和国の学校が建ったからである。
白く塗られた小さな校舎だった。板張りの床があり、黒板があり、首都から来た若い教師がいた。
そこでは文字も、計算も、共和国の歴史も教えるという。
「先生のところで字を習わなくてもよくなったな」
村人の一人が悪気なく言った。
「国が見てくれるんだ。ありがたいことだ」
マルタンは笑って頷いた。
「ええ。子どもたちには、その方が良いでしょう」
本当に、そう思った。
子どもたちがきちんとした机で学べるなら、それは良いことだ。
村の子らが、首都の子らと同じように文字を学び、数を覚え、いつか役人にも商人にもなれるなら、それは喜ぶべきことだった。
ただ、その良いことは、マルタンの家の食卓からパンを一つ減らした。
リュカは、もう少年と呼んでいい年になっていた。
父の真似をして木切れを振り回す癖は抜けず、時々、鶏を追いかけてセリーヌに叱られた。
ミレーヌはまだ幼く、父が膝に乗せると髪を引っ張った。葡萄を食べすぎて腹を壊し、泣きながらもう一粒欲しがるような子だった。
子どもたちは育つ。
育てば、食べる。
靴は小さくなり、服は短くなる。
熱を出せば薬がいる。
冬になれば薪がいる。
道場の月謝が減っても、子どもたちの腹は減った。
「大丈夫よ」
セリーヌはそう言った。
いつも、そう言った。
「今月はベルナールさんのところから豆を多めにもらったの。粉屋さんも、小麦を少し分けてくれたわ」
「ですが」
「あなたは道場を見て。子どもたちも、あなたが家にいると遊びたがるでしょう」
「……はい」
マルタンは頷いた。
頷くしかなかった。
セリーヌは気丈だった。
家計が苦しくなっても、彼女は愚痴を言わなかった。
煮込みの肉が減っても、豆が増えただけだと言った。
葡萄酒を買えなくなっても、今年は水が美味しいと言った。
子どもの服に継ぎを当てながら、これで丈夫になったと笑った。
その笑顔を見るたび、マルタンは胸の奥を小さな刃で削られるような気がした。
自分は何をしているのか。
朝、道場へ行く。
戸を開け、床を掃き、木剣を並べる。
しかし、誰も来ない日がある。
最初の頃、マルタンは稽古をした。
父から受け継いだ型を、一つずつ丁寧に繰り返した。
足を運び、剣を振り、呼吸を整えた。
だが、誰も見ていない型は、やがて自分を責める音になった。
床板を踏む音が、空しい。
木剣を振る音が、白々しい。
昼近くになると、彼は倉庫の隅に腰を下ろした。
壁の染みを見た。
窓から入る光が少しずつ傾くのを見た。
時々、表を通る子どもの声が聞こえた。
その中に、昔の門弟の声が混じることもあった。
彼らはもう道場には来ない。
学校へ行き、畑を手伝い、友人と遊ぶ。
それは正しい。
何も間違っていない。
間違っているのは、自分だけだ。
夕方になると、マルタンは道場の戸を閉めた。
何も教えていないのに、仕事を終えた顔で家へ帰った。
「お帰りなさい」
セリーヌは言う。
「今日はどうだった?」
マルタンは答える。
「ええ。まあ」
それだけだった。
嘘ではない。
だが、本当でもなかった。
ある日、マルタンはいつもより早く道場を閉めた。
雨が降りそうだったから、という理由を自分につけた。
本当は、もう空の道場に座っていることに耐えられなかった。
昼を少し過ぎた頃だった。
家に戻ると、リュカとミレーヌだけがいた。
リュカは床に座り、妹に木切れの馬を見せていた。
ミレーヌは馬よりも兄の袖に興味があるらしく、引っ張っては笑っていた。
「父さん?」
リュカが目を丸くした。
「母さんはどうしました」
「出かけた」
「どこへ」
「知らない。すぐ戻るって」
マルタンは首を傾げた。
セリーヌがこの時間に家を空けることは珍しい。
井戸か、隣家か、市場か。
そう思って外へ出ようとした時、戸が乱暴に叩かれた。
返事をする前に、戸が開いた。
アルマンだった。
息を切らしていた。
上着には街道の埃がつき、帽子も取らず、商人らしい整った顔を怒りで歪めていた。
「マルタン」
その声を聞いた瞬間、リュカがミレーヌを抱えるようにして後ずさった。
「アルマンさん」
「お前、何をしている」
挨拶もなかった。
「何、とは」
「妹が市場の倉庫で働いている」
マルタンは、意味が分からなかった。
「倉庫?」
「葡萄酒樽の積み下ろしだ。布袋を運ばされていた。腹を抱えて、顔を真っ青にしてな」
「腹を……?」
アルマンの顔がさらに険しくなった。
「知らなかったのか」
マルタンは答えられなかった。
「本当に、知らなかったのか」
その声には怒りよりも、呆れに近いものが混じっていた。
アルマンは唇を噛み、拳を握った。
「俺は、お前に妹を任せたんだぞ」
その言葉は、鞭のようにマルタンを打った。
彼は何も言わず、家を飛び出した。
市場までは走った。
雨が降り始めていた。
赤土の道がぬかるみ、靴に泥が跳ねた。
葡萄酒を運ぶ荷車が道を塞ぎ、マルタンはそれを避けて走った。
市場の倉庫は、村の広場の奥にあった。
収穫期に使う大きな建物で、今は商人たちの荷が一時的に置かれている。
入口では男たちが樽を転がし、袋を担いでいた。
その中に、セリーヌがいた。
粗末な前掛けをつけ、髪を布でまとめ、両手で麻袋を抱えていた。
袋は小麦か豆か、女一人には明らかに重すぎた。
セリーヌは数歩進み、壁に手をついた。
「セリーヌ」
マルタンの声に、彼女は振り向いた。
驚き。
それから、困ったような笑み。
「……早かったのね」
その一言で、マルタンは悟った。
彼女は隠すつもりだったのだ。
今日だけではない。
きっと、何度も。
「何をしているのです」
声が震えた。
「見れば分かるでしょう」
「分かりません」
「少し、手伝いを」
「少し?」
マルタンは倉庫の男から麻袋を受け取り、床に下ろした。
思っていたよりも重い。
こんなものを、セリーヌが抱えていた。
「帰りましょう」
「まだ時間が」
「帰りましょう」
彼は、ほとんど命令のように言った。
セリーヌはしばらく彼を見上げていたが、やがて小さく頷いた。
雨の中、二人は倉庫を出た。
市場の軒下で、マルタンは足を止めた。
家まで待てなかった。
「なぜ、黙っていたのです」
セリーヌは答えなかった。
「私に、言えなかったのですか」
「言えば、あなたは傷つくわ」
「今、傷ついていないとでも?」
セリーヌの肩が震えた。
雨のせいか、涙のせいか、分からなかった。
「新しい子がいるの」
彼女は言った。
マルタンは息を止めた。
「お腹に。まだ、はっきり安定したわけじゃないけれど……いるの」
雨音が急に遠くなった。
リュカ。
ミレーヌ。
そして、もう一人。
本来なら、喜ぶべきことだった。
神に感謝し、セリーヌを抱きしめ、子どもたちに知らせ、村人たちと笑うべきことだった。
だが、セリーヌは泣いていた。
「嬉しかったの」
彼女は両手で顔を覆った。
「本当に、嬉しかったのよ。でも、すぐに怖くなった。今のままで、どうやって育てるの。リュカの靴だって小さい。ミレーヌの服も継ぎだらけ。冬の薪も足りない。あなたは毎日、道場に行って、疲れた顔で帰ってきて……」
「セリーヌ」
「言えなかった。あなたに、言えなかったの」
マルタンは、妻を抱きしめようとして、手を止めた。
自分の手が泥で汚れていることに気づいた。
だが、そんなことを気にしている自分が、どうしようもなく愚かに思えた。
彼はセリーヌを抱きしめた。
「申し訳ありません」
声が出た。
情けないほど、掠れていた。
「申し訳ありません」
「謝らないで」
「いいえ。私が、食わせられないからです」
「違う」
「違いません」
セリーヌが泣いた。
マルタンも泣いた。
二人は、駆け落ちの夜にも泣かなかった。
リュシアンを離れ、行き先も分からず、安宿の薄い毛布にくるまった夜にも泣かなかった。
飢えた日にも、足を痛めた日にも、村へたどり着くまでの長い道の上でも泣かなかった。
若さがあったからだ。
恋があったからだ。
明日は何とかなると、本気で思っていたからだ。
だが、その日、二人は市場の軒下で泣いた。
明日は、何とかならないかもしれなかった。
夜、アルマンはルクレール家の食卓についていた。
リュカとミレーヌは、隣家に預けられていた。
家の中は静かだった。
灯火が小さく揺れ、鍋にはセリーヌの煮込みが残っていたが、誰も手をつけなかった。
アルマンの怒りは、昼よりも静かになっていた。
静かになった分だけ、重かった。
「俺の店で働け」
彼は言った。
「リュシアンに戻るんですか」
「表向きには無理だ。父も母も許さん。だが、俺の管理する倉庫なら、名を変えて置ける」
セリーヌが首を振った。
「駄目よ」
「なぜだ」
「兄さんの立場が悪くなる」
「俺の立場など」
「悪くなるわ。私たちのせいで、また家が揉める」
アルマンは黙った。
マルタンは、膝の上で両手を握っていた。
それが一番まともな道だと、彼にも分かっていた。
アルマンの倉庫で働けば、少なくともセリーヌを市場の荷運びに出さずに済む。
リュカの靴も買えるかもしれない。
ミレーヌに毛布を用意できるかもしれない。
生まれてくる子にも、少しはましな寝床を作れるかもしれない。
頭を下げればいい。
剣を置けばいい。
義兄の下で、荷を数え、帳簿を運び、樽を転がせばいい。
ただ、それを想像した瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
長剣師範だった自分が、名を変え、顔を伏せ、アルマンの倉庫で働く。
それは生活のための正しい選択だった。
正しいからこそ、マルタンはそれを見られなかった。
「アルマンさん」
彼は静かに言った。
「帝国では、まだ剣が使えると聞きました」
セリーヌが顔を上げた。
アルマンの眉が動いた。
「何を言っている」
「帝国には、騎士団があります。旧い剣術を必要とする家も、まだあるでしょう。護衛でも、訓練役でも、何でも」
「国交は切れているぞ」
「はい」
「革命以来、帝国とヴァレーヌはまともに口もきいていない。向こうへ行くなら、正規の旅券など出ない。密入国になる」
「承知しています」
「承知している顔か、それが」
アルマンは低く言った。
「捕まればどうなるか分からん。帝国側に捕まっても、共和国側に捕まってもだ。お前は旧騎士剣術師範で、しかも平民だ。どちらの国にも都合よく使われ、都合よく捨てられるぞ」
「それでも」
マルタンは言った。
「私には、剣しかありません」
言った瞬間、それが半分は嘘だと分かった。
剣しかないのではない。
剣以外を選ぶ自分に、まだ耐えられないだけだ。
アルマンの店で働くことはできる。
荷を運ぶことも、倉庫番をすることも、頭を下げて商いを覚えることも、きっとできる。
できないのは、それを選んだ自分を、長剣師範マルタン・ルクレールとして認めることだった。
セリーヌが唇を噛んだ。
「そんなこと言わないで」
「本当のことです」
「あなたは、父親よ」
「だからです」
マルタンは今日初めて、妻の目をまっすぐ見た。
「父親だからこそ、行きます」
灯火が揺れた。
雨はもう止んでいた。
外では、濡れた土の匂いがしていた。
「ここにいても、私はあなたに倉庫で荷を運ばせるだけです。子どもたちの靴も買えない。生まれてくる子に、毛布一枚用意できるかも分からない」
「一緒にいればいい」
セリーヌの声は震えていた。
「貧しくても、一緒にいれば」
「私も、そう思っていました」
マルタンは言った。
「ずっと、そう思っていました。あなたといれば、どこでも生きていけると。リュシアンを出た夜から、ずっと」
彼は目を伏せた。
「でも、子どもは腹を空かせます。靴は小さくなります。あなたは、私に黙って重い袋を運びます」
セリーヌは何も言えなかった。
「私は、剣であなたを守ると言いました」
マルタンの声が、少しだけ歪んだ。
「でも、剣では、あなたに荷を持たせないことすらできませんでした」
アルマンが目を閉じた。
しばらく、誰も話さなかった。
やがてアルマンが言った。
「……中立国を通る商隊がある」
セリーヌが兄を見た。
「兄さん」
「俺は反対だ」
アルマンはすぐに言った。
「今でも反対だ。だが、こいつは行く顔をしている。なら、何も知らない顔で送り出すより、少しでも死ににくい道を選ばせる」
マルタンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。腹が立つ」
アルマンは吐き捨てるように言った。
「送金の道も考える。俺の行商仲間を使えば、完全ではないが、何とかなるかもしれん。ただし、公にはできない。お前も、妹も、俺の名を出すな」
「分かっています」
「分かっていない」
アルマンはマルタンを睨んだ。
「お前は昔から、分かった顔で無茶をする」
セリーヌが小さく笑った。
泣き笑いだった。
「それは、私も同じね」
「お前はもっと悪い」
アルマンは妹に言った。
「行き先も決めずに男と逃げる女だ」
「そのおかげで、リュカとミレーヌがいるわ」
「だから余計に腹が立つ」
三人は、少しだけ笑った。
ほんの少しだった。
だが、その笑いがなければ、夜は重すぎた。
その夜、マルタンは眠れなかった。
セリーヌと子どもたちの寝息を聞きながら、天井を見つめた。
ラ・ヴィーニュ村の夜は静かだった。
遠くで犬が吠え、風が葡萄棚を揺らした。
ここは、彼が初めて自分の家だと思えた場所だった。
リュシアンから逃げ、各地を転々とし、ようやくたどり着いた場所。
リュカが生まれ、ミレーヌが笑い、セリーヌが煮込みを作ってくれた場所。
その家を、また出ていく。
今度は、セリーヌの手を取ってではない。
一人で。
マルタンは、暗闇の中で自分の手を見た。
剣を握るための手だった。
豆を煮るのも、帳簿をつけるのも、商いをするのも下手な手だった。
だが、剣なら握れる。
それが誇りだった時代は、もう遠い。
今はただ、家族を食わせるための道具だった。
それでもよかった。
セリーヌに重い袋を持たせるくらいなら。
リュカに小さな靴を履かせ続けるくらいなら。
ミレーヌに冬の毛布を我慢させるくらいなら。
生まれてくる子に、何も用意できない父でいるくらいなら。
マルタンは、剣を売ることにした。
ヴァレーヌの外へ。
国交の途絶えた、仮想敵国の帝国へ。
まだ、旧い剣が飯に変わるかもしれない場所へ。
夜明け前、彼は道場へ行った。
扉を開けると、冷えた空気が流れ出た。
床板には、誰も来なかった昨日の埃が薄く積もっていた。
マルタンは箒を取った。
いつものように床を掃いた。
木剣を並べ直した。
壁に掛けていた長剣を手に取った。
刃は曇っていた。
彼は布でゆっくりと拭った。
「申し訳ありません」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
父にか。
母にか。
道場にか。
セリーヌにか。
子どもたちにか。
それとも、剣そのものにか。
ただ、謝ることだけは、いくらでもあった。
その日の夕方、マルタンはセリーヌとアルマンに向かって、もう一度頭を下げた。
「帝国へ参ります」
セリーヌは目を閉じた。
アルマンは顔を背けた。
そしてマルタンは、もう一度言った。
「必ず、金を送ります」
その声は震えていた。
だが、決意は揺れなかった。




