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第4話 ラ・ヴィーニュ村

 ここではない場所、というものが、実際にどこを指すのか。

 マルタンもセリーヌも、リュシアンを出た夜には知らなかった。


 荷馬車の板の上で夜を明かした。

 安宿の薄い毛布に二人でくるまった。

 街道沿いの農家の納屋を借り、干し草の匂いの中で眠ったこともある。


 金はなかった。

 知り合いも、頼れる家もなかった。

 マルタンの腰には長剣が一本あり、セリーヌの鞄には着替えと、少しの銀貨と、母に内緒で持ち出した針箱があった。


 それだけだった。


 それでも、二人はよく笑った。


「マルタン、あなた、また道を間違えたでしょう」

「間違えたのではありません。少し、遠回りをしているだけです」

「それを世間では迷子と言うのよ」

「剣士は迷いません」

「では、剣士様。あの丘の向こうには何があるの?」

「……おそらく、宿が」

「三度目ね、その言葉」


 セリーヌが笑うと、マルタンも笑った。

 腹が減っていても、靴底が減っていても、夜風が冷たくても、彼女が隣で笑っている間は、それほど悪いことには思えなかった。


 リュシアンでは、革命という言葉が日ごとに大きくなっていた。

 王の名が小声になり、市民の名が大声になり、街角では誰もが明日の国について語っていた。


 だが、若い二人にとって、国の明日よりも、その日の寝床の方が大事だった。

 王がどうなるのか。

 議会がどうなるのか。

 貴族がどうなるのか。

 そんなことより、セリーヌの足にできた豆の方が、マルタンにはよほど重大だった。


 セリーヌもまた、共和国だの自由だのと書かれた紙片より、マルタンの空腹を気にした。


 パンを二つ買う金がない日は、一つを割った。

 宿に泊まれない日は、教会の軒下で夜を越した。

 荷馬車に乗せてもらうため、マルタンは老人の薪割りを手伝い、セリーヌは農家の女房の針仕事を手伝った。


 それは苦しい旅だった。

 だが、不幸ではなかった。


 二人はまだ若く、若さには愚かさと同じくらい、妙な強さがあった。


 南へ、南へ。

 行き先を決めたのは、地図ではなく、寒さと財布だった。

 北より南の方が暖かいだろう。

 首都から離れれば、セリーヌの家の手も届きにくいだろう。

 それくらいの考えだった。


 そうして二人は、ヴァレーヌ南部の丘陵地帯へ入った。


 そこは、リュシアンとはまるで違う土地だった。

 空が広かった。

 風に土の匂いがあり、丘の斜面には葡萄棚が段々に連なっていた。

 石造りの家々は低く、屋根は赤茶け、道は舗装されておらず、雨が降れば泥になる。


 村の名は、ラ・ヴィーニュ。

 葡萄の村、という意味だと、村人の一人が笑って教えてくれた。


「見りゃ分かるだろうがな」


 その男は樽のように丸い腹をしていた。

 名をベルナールといい、村でいちばん大きな葡萄畑を持っているという。

 大きな、といっても首都の商人が聞けば笑うほどの規模だったが、村では充分に大きかった。


 ベルナールは、旅装の若夫婦を胡散臭そうに眺めたあと、マルタンの腰の長剣を見て目を細めた。


「あんた、剣を使うのか」

「はい。少しばかり」

「少しばかりで、そんな長いもんをぶら下げるかね」

「父の道場で、教えておりました」

「リュシアンの?」

「はい」


 その言葉に、周囲の村人たちが少しざわついた。

 首都リュシアン。

 それだけで、この村では遠い都の響きがあった。


「リュシアンの先生様か」

「先生などと呼ばれるほどでは」

「謙遜するな。こっちは剣なんぞ、祭りの出し物でしか見たことがない」


 ベルナールはそう言って、豪快に笑った。


 革命の噂は、ラ・ヴィーニュ村にも届いていた。

 街道には食い詰め者が増え、徴税人は前より厳しくなり、夜盗が出たという話も珍しくなくなっていた。

 村の若者たちは鍬や棒を振り回すことはできたが、まともに戦い方を教わった者はいない。


 だから、首都から来たという長剣師範は、村にとって物珍しいだけでなく、少しばかり頼もしい存在でもあった。


「空き倉庫ならある」


 ベルナールは言った。


「昔、収穫期だけ使ってた倉庫だ。雨漏りはするが、壁はある。そこでよければ、しばらく使え」

「よろしいのですか」

「ただとは言わんぞ。うちの倅に剣を教えろ。礼儀もな。あいつは客の前でも鼻をほじるからな」


 村人たちが笑った。

 セリーヌも笑った。

 マルタンは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、お役に立ちます」


 それが、ラ・ヴィーニュ村での最初の仕事だった。


 倉庫は、本当に雨漏りがした。

 床には古い藁がこびりつき、壁には葡萄樽をぶつけた跡が残っていた。

 扉は傾き、窓は小さく、冬になれば隙間風が入るに違いなかった。


 それでも、マルタンとセリーヌにとっては城のようだった。


「ここに住むの?」

「いえ、住むには少し……」

「でも、道場にはなるわ」

「道場に、見えますか」

「掃けばね!」


 セリーヌは腕まくりをした。

 マルタンも長剣を外し、箒を持った。


 二人は一日かけて倉庫を掃いた。

 古い藁を出し、壁を拭き、雨漏りする場所に板を打ちつけた。

 ベルナールの妻が使わなくなった敷物をくれた。

 近所の老人が折れた椅子を直して持ってきた。

 子どもたちは、何をしているのかと覗き込み、セリーヌに追い払われたり、逆に手伝わされたりした。


 数日後、倉庫の入口には、セリーヌの手で小さな板が掛けられた。


 ルクレール長剣術指南所。


 文字は少し歪んでいた。

 だが、マルタンはその看板を見上げ、しばらく何も言えなかった。


「気に入らない?」

「いえ」

「字が曲がっているのは分かっているわ」

「いえ」

「では何?」

「……こんな立派な名前で、よろしいのでしょうか」


 セリーヌは呆れたように彼を見た。


「あなたの道場でしょう」

「私たちの、です」


 マルタンがそう言うと、セリーヌは少しだけ頬を赤くした。


 最初の門弟は、ベルナールの倅だった。

 名をピエールといい、鼻をほじる癖は本当だった。

 次に、粉屋の息子が来た。

 それから、鍛冶屋の娘が来た。

 羊飼いの少年が来て、葡萄農家の三男が来て、しまいには村長の孫まで来た。


 剣を学びたい者ばかりではなかった。


「先生、うちの子に字を教えてやってくれませんか」

「字、ですか」

「リュシアンじゃ、これからは平民でも役人になれるって言うじゃないか」

「うちの娘にも数を。市場でだまされないように」

「礼儀も頼む。都会に奉公に出すかもしれん」


 マルタンは最初、戸惑った。

 彼は長剣術師範であって、寺子屋の先生ではない。

 だが、父の道場では礼法も、読み書きも、簡単な計算も教えていた。

 貴族の子弟に教えるために覚えたものが、田舎の子どもたちの役に立った。


 ならば、断る理由はなかった。


 朝は子どもたちに文字を教えた。

 昼は若者たちに棒の構えを教えた。

 夕方には、畑仕事を終えた男たちに護身の足運びを教えた。


 礼をすること。

 相手の目を見ること。

 約束の時間を守ること。

 剣を抜く前に逃げ道を見ること。

 怒りに任せて刃物を握らないこと。


 マルタンの教えることは、剣だけではなかった。


「先生、敵が三人いたらどうするんです」


 ある日、ピエールが木剣を担いで聞いた。


「まず逃げなさい」

「ええっ」

「勝てると思った時ほど、逃げなさい」

「先生は逃げるんですか」

「妻が待っておりますので」


 子どもたちが笑った。

 マルタンは真面目な顔のまま続けた。


「どうしても逃げられないなら、一人目の足を見ます。二人目の手を見ます。三人目は、たいてい一番大声を出しています」

「なんで?」

「怖いからです」


 その答えに、子どもたちは妙に納得した。


 村での暮らしは、貧しかった。

 しかし、リュシアンで息を潜めるように恋をしていた頃とは違い、ここでは誰も二人を引き離そうとはしなかった。


 セリーヌは家計を預かり、道場の帳簿をつけた。

 村人からの月謝は銀貨だけではない。

 葡萄酒一瓶、卵六つ、燻製肉の端、古着、薪、修理された靴。

 セリーヌはそれらを見事にやりくりした。


「マルタン、ベルナールさんのところは今月、葡萄酒で払うそうよ」

「ありがたいことです」

「でも飲みすぎては駄目」

「薬として少し」

「何の薬?」

「疲れに」

「疲れるほど飲まないで」


 セリーヌはそう言いながら、葡萄酒を煮込みに少し垂らした。

 玉葱と豆と、安い肉の端を煮たものだった。

 だが、マルタンにはそれがリュシアンのどんな料理よりうまかった。


 やがて、リュカが生まれた。


 冬の終わりのことだった。

 外では葡萄の枝がまだ黒く、畑には霜が残っていた。

 生まれたばかりのリュカは猿のように赤く、皺だらけで、小さな手を震わせていた。


 マルタンはその手に指を握られ、固まった。


「どうしたの」


 寝台の上で、セリーヌが疲れた顔で笑った。


「いえ」

「怖い?」

「少し」

「長剣を振る人が?」

「長剣は、落としても泣きませんので」


 セリーヌは声を立てて笑った。

 その笑い声につられたように、リュカが泣いた。


 二年後、ミレーヌが生まれた。


 ミレーヌは、兄よりもよく泣き、よく笑った。

 マルタンが稽古から戻ると、まだ歩けもしないのに両手を伸ばした。

 彼はそのたびに長剣を壁に立てかけ、手を洗い、服の埃を払ってから娘を抱いた。


「そこまでしなくても」


 セリーヌは呆れた。


「いえ。ミレーヌに失礼です」

「娘に礼儀を尽くす父親ね」

「いずれ叱られるでしょうから、今のうちに敬意を払っております」


 セリーヌはまた笑った。


 その頃のマルタンは、よく笑う男だった。

 村人からは先生と呼ばれ、子どもたちからはルクレール先生と呼ばれた。

 リュカは木切れを剣に見立てて走り回り、ミレーヌは葡萄を口いっぱいに詰めて叱られた。


 夕暮れ時、道場の戸を閉めると、丘の向こうに赤い陽が沈んだ。

 葡萄畑の葉が風に揺れ、村のどこかで犬が吠えた。

 セリーヌの煮込みの匂いが家から流れてきて、リュカが「父さん」と呼んだ。


 マルタンは、そのたびに思った。


 ここまで来てよかった、と。


 革命の知らせは、相変わらず村にも届いた。

 王が逃げたとか、議会が勝ったとか、貴族の館が焼かれたとか、首都の広場で誰かが処刑されたとか。

 行商人たちは酒場でそれらを語り、村人たちは眉をひそめたり、興奮したりした。


 しかし、朝になれば畑に出た。

 葡萄の枝は革命を待ってはくれない。

 樽の手入れも、屋根の修理も、子どもの熱も、すべて今日のことだった。


 マルタンとセリーヌにとっても、それは同じだった。

 国が新しくなることより、リュカの靴を直すことの方が急ぎだった。

 自由という言葉より、ミレーヌが熱を出さないことの方が大事だった。


 それでも、首都は二人を完全には放してくれなかった。


 ある秋の日、アルマンが村に来た。


 表向きは交易だった。

 荷馬車には布、油、塩、針、少し上等な砂糖が積まれていた。

 アルマンはすでに若い商人として父の仕事を一部任されており、以前よりも仕立ての良い上着を着ていた。


 だが、村の入口でセリーヌの姿を見た瞬間、商人の顔は崩れた。


「……少し痩せたな」


 兄が最初に言ったのは、それだった。


「兄さんこそ、少し偉そうになったわ」

「実際、少し偉くなった」

「嫌な人」


 セリーヌはそう言って笑い、次の瞬間には兄に抱きついていた。

 アルマンは周囲の目を気にするように咳払いをしたが、妹の背を押し返すことはしなかった。


 その夜、アルマンはルクレール家の小さな食卓についた。

 セリーヌはいつもより肉の多い煮込みを出し、マルタンはベルナールからもらった赤葡萄酒を開けた。


「安物ですみません」


 マルタンが言うと、アルマンは杯を揺らした。


「悪くない。土の匂いがする」

「ラ・ヴィーニュの葡萄酒は、そこが良いのです」

「もう村人の顔だな」

「おかげさまで」


 アルマンはリュカに菓子を渡し、ミレーヌには小さな布人形を渡した。

 リュカはすぐに菓子を口へ入れ、ミレーヌは人形の髪を引っ張った。


 セリーヌはそれを見て笑った。

 アルマンも笑った。

 マルタンも笑った。


 しばらくは、それだけでよかった。


 だが、夜が更け、子どもたちが眠ると、アルマンは静かに首都の話をした。


 セリーヌの実家は、革命後の混乱の中で商機を掴んだという。

 市民派の有力者たちと近づき、軍への物資納入に食い込み、以前よりも大きな店を構えた。

 父は老いたが、まだ健在で、母はセリーヌの名を口にしない。


「口にしないだけだ」


 アルマンは言った。


「忘れたわけじゃない」


 セリーヌは目を伏せた。


「怒っている?」

「怒っている。心配もしている。たぶん、どちらも同じくらいだ」


 それから、アルマンは少し言い淀んだ。


 マルタンは、その沈黙で分かった。

 良い話ではない。


「ルクレールの道場は、畳まれた」


 アルマンは言った。


 セリーヌが息をのんだ。

 マルタンは杯を置いた。


「父は」

「分からない。母君も、弟子たちもだ。近所の者は、夜のうちに出ていったと言っていた。どこへ行ったかまでは」


 夜のうちに。


 その言葉が、マルタンの胸に刺さった。


 自分たちも、夜のうちにリュシアンを出た。

 父母に別れも告げず、道場を捨て、セリーヌの手を取って逃げた。

 あの時は、それ以外に道がないと思った。


 だが、残された者たちにも、夜は来たのだ。


「私のせいでしょうか」


 マルタンは言った。


「違う」


 アルマンはすぐに否定した。


「時代のせいだ」

「便利な言葉です」

「本当のことでもある」


 マルタンは何も言えなかった。


 セリーヌがそっと彼の手に触れた。

 その手は温かかった。

 リュカとミレーヌの眠る部屋から、小さな寝息が聞こえた。


 今、自分には家がある。

 妻がいる。

 子どもがいる。

 道場があり、門弟がいる。

 夕暮れには葡萄畑が赤く染まり、食卓には煮込みがある。


 その幸福が、急に後ろめたいもののように思えた。


 翌朝、アルマンは何事もなかったように商人の顔に戻った。

 村人たちと葡萄酒の値を交渉し、布を売り、油を配り、帰り際にはセリーヌに小さな包みを渡した。


「母からではない」


 アルマンは言った。


「俺が勝手に持ってきた」


 包みの中には、子ども用の靴下と、上等な針が入っていた。

 セリーヌはそれを胸に抱いた。


「兄さん」

「次に来られるのがいつかは分からん。あまり目立つと、家の者に知られる」

「分かってる」


 アルマンはマルタンを見た。


「妹を泣かせるなよ」

「はい」

「子どもたちもだ」

「はい」

「それと、あまり安請け合いするな。お前は昔から、金を取るのが下手だ」


 マルタンは返事に詰まった。

 セリーヌが横で笑った。


「本当にそうなの」

「知っている」

「では直せ」


 アルマンはそう言って、荷馬車に乗った。

 馬車が村の道を下っていく。

 セリーヌは見えなくなるまで手を振った。


 マルタンはその隣に立ち、同じように頭を下げ続けた。


 それからも、日々は続いた。


 リュカは少しずつ文字を覚えた。

 ミレーヌは道場に入り込み、門弟たちの木剣を勝手に持ち出しては転んだ。

 セリーヌは村の女たちと笑いながら井戸端で話すようになり、マルタンはいつの間にか、首都から来たよそ者ではなく、ラ・ヴィーニュの先生になっていた。


 春には葡萄の芽が出た。

 夏には葉が茂った。

 秋には村中が収穫で浮き立ち、冬には道場の隙間風をみんなで笑った。


 マルタンは、その日々がずっと続くものだと思っていた。


 朝には子どもたちの声があり、昼には木剣の音があり、夕暮れにはセリーヌの煮込みの匂いがした。

 それだけあれば、人は生きていけるのだと、本気で信じていた。


 だが、革命は首都だけで終わるものではなかった。


 そして幸福もまた、葡萄酒のように、いつまでも樽の中に残っていてはくれなかった。


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