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第3話 リュシアンの恋



 十数年前 「西方」ヴァレーヌ「王」国 首都リュシアン

 

 マルタン・ルクレールの父は、貴族ではなかった。


 だが、貴族に剣を教えていた。


 それが、リュシアンの市民たちには気に入らなかった。


 ヴァレーヌがまだ王国だった頃、ルクレール家の道場には、騎士の子、貴族家の三男、宮廷警護を志す若者たちが通っていた。


 彼らは長剣を振り、礼を学び、決闘の作法を覚えた。


 剣を抜く前の礼。


 相手の名を問う声。


 膝の曲げ方。


 上着の裾の払方。


 貴族の子らは、剣だけでなく、剣を持つ者としての振る舞いを習いに来た。


 ルクレール家は平民である。


 だが、その平民の家に貴族の若者が頭を下げた。


 それを誇らしく思う者もいた。


 気に食わないと思う者もいた。


 リュシアンの街で「市民」という言葉が日に日に大きくなるにつれ、後者の声は強くなっていった。


 王冠はパンを焼かない。


 貴族の剣では腹はふくれない。


 平民なら平民の側に立て。


 そんな落書きが、壁に増えた。


 道場へ通っていた貴族の子らは、一人、また一人と姿を消した。親が外出を禁じた者もいれば、あからさまに人目を避ける者もいた。門前で石を投げられた少年もいた。


 マルタンはその頃、まだ二十歳を少し過ぎたばかりだった。


 父の横で木剣を持ち、若い門弟に足の運びを教えていた。


 背筋は伸び、声はよく通った。


 腰が低くなるのは、まだずっと後のことである。


「ルクレール先生」


 門の外から声がした。


 マルタンが振り向くと、セリーヌが立っていた。


 商家の娘らしい、清潔な服を着ている。派手ではない。だが布は良く、髪留めも安物ではなかった。栗色の髪を後ろでまとめ、腕には帳面を抱えている。


「先生は父上でしょう」


 マルタンは木剣を下ろした。


「私はまだ師範代です」


「では、師範代」


 セリーヌは少し笑った。


「今月のお代を、またまけたでしょう」


 マルタンは目を逸らした。


 稽古場の奥で、年少の門弟が木剣を振っている。鍛冶屋の息子だ。月謝を二月滞納していた。


「彼の家は、今少し苦しいそうです」


「この街で苦しくない家を探す方が難しいわ」


「ですが、あの子は熱心です」


「熱心さで薪は買えません」


「それは……そうですが」


 マルタンは言葉に詰まった。


 セリーヌはため息をつく。


「あなたのそういうところ、好きだけれど、困ります」


 好き。


 その一語だけで、マルタンは顔を赤くした。


 セリーヌは、言ってから自分でも気づいたのか、少しだけ頬を染めた。


 二人はしばらく黙った。


 稽古場では、木剣の打ち合う音だけが響いていた。


「帳面を、見せに来たのですか」


 マルタンがようやく言うと、セリーヌは咳払いをした。


「兄に頼まれたの。あなたの家は帳面が甘いから」


「アルマンが?」


「ええ。兄は口では色々言うけれど、心配しているのよ」


「そうでしょうか。昨日は、私のことを貴族の靴磨きと呼びましたが」


「心配しているの」


「わかりました」


 マルタンは素直に頷いた。


 セリーヌはそんな彼を見て、また小さく笑った。


 ルクレール家の道場と、セリーヌの実家であるバロー商会は、古くから取引があった。


 剣の手入れ油、革帯、稽古着、薪、紙、帳簿。


 道場に必要なこまごましたものを、バロー商会が卸していた。


 マルタンとセリーヌは、子どもの頃から顔を知っている。


 アルマンとは、もっと古い。


 マルタンが木剣を握り始めた頃、アルマンはすでに金勘定を覚えていた。二人は喧嘩もしたし、遊びもした。アルマンはいつも勝ち逃げをし、マルタンはいつもそれに気づくのが遅かった。


 セリーヌは、その二人の後ろをついて回る小さな妹だった。


 いつの間にか、帳面を抱えて道場へ来る娘になった。


 いつの間にか、マルタンは彼女が門をくぐる音を聞き分けるようになっていた。



   ◇



 その日の夕方、リュシアンの広場では演説が行われていた。


 市民よ、パンを求めよ。


 市民よ、税を問え。


 市民よ、王の名で奪われたものを数えよ。


 若い男が箱の上に立ち、声を張り上げている。周囲には職人、学生、商人、労働者が集まっていた。何人かは赤い布を腕に巻いている。


 マルタンは道場で使う油を買いに出た帰り、広場の端を通りかかった。


 人々の熱気が、夕暮れの空気を押している。


 彼は足を止めなかった。


 止めれば、聞いていると思われる。


 聞かなければ、逃げていると思われる。


 最近のリュシアンでは、歩き方一つにも立場がついた。


「ルクレールの若先生だ」


 誰かが言った。


「貴族様に剣を教えてる先生だろ」


「平民なのにな」


 笑い声がした。


 マルタンは何も言わず、歩いた。


 自分は貴族ではない。


 王宮に入ったこともない。


 税を決めたことも、人を徴発したこともない。


 ただ剣を教えているだけだ。


 そう言いたかった。


 だが、言って何になるのかも分からなかった。


 角を曲がると、セリーヌが待っていた。


「聞こえた?」


 彼女が尋ねる。


「少し」


「気にしないで」


「気にしていません」


「嘘」


 セリーヌは歩き出した。


 マルタンも隣に並ぶ。


 商店の窓には、共和国を語る小冊子が積まれていた。まだ王国であるはずの国で、共和国という言葉はもう商品になっている。


「父が、あなたの家には近づくなと言ったわ」


 セリーヌが言った。


 マルタンは黙った。


「母も。兄は、黙っていた」


「アルマンが黙るのは珍しい」


「ええ。だから一番怒っているのかもしれない」


「私は、あなたの家に迷惑をかけています」


「私の家だけじゃないわ」


 セリーヌは足を止めた。


 細い路地だった。洗濯物が上に渡され、夕日が布越しに赤く落ちている。


「街が変わっていくの」


「はい」


「父はね、あなたの家が嫌いなの。貴族に尻尾を振っている平民だって言う」


 マルタンは俯いた。


「ですが、あなたのお父上は、間違ってはいません」


「そうかしら」


「私の家は、貴族の方々に剣を教えて食べてきました。市民の側から見れば、そう見えるでしょう」


「あなたの、そういうところが嫌」


 セリーヌが少し怒った声を出した。


 マルタンは顔を上げる。


「すぐに相手の言い分を認めるところ」


「ですが」


「ですが、じゃない」


 彼女はマルタンを見た。


「あなたは貴族じゃない。王様でもない。税を決めたわけでも、兵を送ったわけでもない。ただ、剣を教えているだけでしょう」


「はい」


「だったら、少しくらい怒ればいいのに」


 マルタンは困った。


 怒り方が分からなかった。


 セリーヌはそんな彼を見て、ふっと表情を緩めた。


「でも、父が心配しているのも分かるの」


 声が小さくなった。


「あなたの家は、標的になるかもしれない。貴族じゃなくても、貴族に近い家だと思われる。道場に火をつけられるかもしれない。あなたのお父様も、あなたも」


 マルタンは何も言えなかった。


 それは、彼自身も考えていたことだった。


 最近、道場の門に泥が投げられた。


 父は何も言わずに洗い流した。


 翌日、また投げられた。


 今度はマルタンが洗った。


「だから父は、私をあなたから遠ざけようとしている」


「当然です」


「当然じゃない」


「セリーヌ」


「当然じゃないわ」


 彼女は泣きそうな顔で笑った。


「だって、私はあなたが好きなの」


 マルタンは息を止めた。


 リュシアンの騒がしさが、遠くなった。


 広場の演説も、荷車の音も、遠くで鳴る鐘も、すべて薄くなる。


 目の前にいるセリーヌの声だけが、はっきりしていた。


「私も」


 マルタンは言った。


 声が少し震えた。


「私も、あなたが好きです」


 セリーヌは俯いた。


 それから、小さく頷いた。


 その日の夕方、二人は初めて手をつないだ。


 たったそれだけのことだった。


 だが、マルタンには、街の壁に書かれたどんな言葉よりも大きな出来事だった。



   ◇



 反対は、当然のように起きた。


 バロー商会の奥の部屋で、マルタンはセリーヌの父と向かい合っていた。


 厚い机。


 整った帳簿。


 壁に掛けられた共和国派の小冊子。


 部屋の隅には、アルマンが立っている。


 セリーヌはいない。


「娘とのことは、諦めてもらう」


 セリーヌの父は、静かに言った。


 怒鳴られると思っていたマルタンは、その静けさの方が怖かった。


「私は、セリーヌを大切に思っています」


「思うだけなら誰でもできる」


「必ず幸せにします」


「何で」


 マルタンは答えられなかった。


 セリーヌの父は、指で机を叩く。


「剣か」


 沈黙。


「君の家は、貴族に剣を教えてきた。それを悪いとは言わん。仕事だ。職人は仕事を選べない時もある。だが、これからの時代に、その剣で娘を食わせられるのか」


「努力します」


「努力でパンは焼けん」


 その言葉は、広場の演説よりもマルタンの胸に刺さった。


「それに、君の家は危うい。今はまだ石を投げられる程度だ。だが、いずれ火がつくかもしれん。私は娘を、燃えそうな家へ嫁がせる気はない」


 マルタンは拳を握った。


 反論したかった。


 自分の家は悪くない。


 父は真面目に剣を教えてきただけだ。


 自分もセリーヌを守る。


 そう言いたかった。


 だが、セリーヌの父の言葉には、娘を思う気持ちがあった。


 それが分かるから、言葉が出ない。


「帰りなさい」


 父は言った。


「二度と、娘に会わないでくれ」


 マルタンは頭を下げた。


 深く、深く。


 それしかできなかった。


 部屋を出る時、アルマンが彼の横を通り過ぎた。


 小さな声が聞こえた。


「悪く思うな」


 マルタンは立ち止まらなかった。


 立ち止まれば、泣いてしまう気がした。



   ◇



 その夜、雨が降った。


 細い雨だった。


 石畳を濡らし、街灯の火を滲ませ、リュシアンの壁に書かれた落書きを黒く光らせていた。


 マルタンは道場の裏口に立っていた。


 眠れなかった。


 父には、もう寝ろと言われた。


 だが、眠れるはずがない。


 門の外で、小石が鳴った。


 マルタンは顔を上げる。


 もう一つ、小石が戸に当たった。


 裏口を開けると、セリーヌが立っていた。


 外套のフードをかぶり、息を切らしている。雨に濡れた頬が、街灯の薄い光を受けていた。


「セリーヌ」


「静かに」


「どうしてここに」


「逃げてきたの」


 マルタンは言葉を失った。


 セリーヌは小さな鞄を抱えていた。


 大きな荷物ではない。


 服が少しと、硬貨が少し。


 それだけだった。


「戻りなさい」


 マルタンは反射的に言った。


「戻ったら、もう会えない」


「ですが」


「ですが、じゃない」


 セリーヌは昼間と同じ言葉を言った。


 けれど、声は震えていた。


「逃げましょう」


「どこへ」


「知らない」


 マルタンは目を瞬いた。


「知らないのですか」


「ええ」


「お金は」


「少し」


「宿は」


「歩きながら考える」


「それは計画とは言いません」


「だから、あなたが考えて」


 マルタンは、こんな時なのに、少し笑いそうになった。


 セリーヌは真剣だった。


 無謀で、怖がっていて、泣きそうで、それでも本気だった。


「私では、あなたを幸せにできないかもしれません」


「知ってる」


「苦労します」


「知ってる」


「後悔するかもしれません」


「するかもしれないわね」


 セリーヌは雨の中で笑った。


「でも、ここにいたら、あなたといられないもの」


 マルタンは何も言えなくなった。


 雨の音だけがした。


 道場の中では、父が眠っている。


 家の前の通りには、革命の落書きがある。


 広場では、明日も誰かが演説をするだろう。


 セリーヌの父は、娘を探すだろう。


 アルマンは怒るだろう。


 それでも、目の前にいる彼女の手を離したくなかった。


 マルタンは裏口の脇に置いていた外套を取った。


「分かりました」


 セリーヌの目が大きくなる。


「行きましょう」


「本当に?」


「はい」


 マルタンは頷いた。


「ただし、歩きながら考えるのは、計画とは言いません。ですから、せめて夜が明ける前に、どちらの門が空いているかを考えます」


 セリーヌは笑った。


 今度は、泣きながら笑った。


 その時、路地の奥から声がした。


「南門はやめておけ」


 二人は振り向いた。


 アルマンが立っていた。


 雨除けの帽子を深くかぶり、肩から旅商人の外套を羽織っている。


 いつからいたのか分からない。


 彼は不機嫌そうな顔で、二人を見た。


「父上が最初に人を走らせるのは南門だ。お前たちが南へ逃げると考える」


「兄さん」


「兄さんと呼ぶな。俺は何も見ていない」


 アルマンはマルタンへ小さな包みを投げた。


 受け取ると、中には硬貨と、折りたたんだ紙が入っていた。


「東の荷馬車が、夜明け前に出る。御者には話をつけた。途中で南へ折れる行商隊に乗り換えろ」


「アルマン」


 マルタンは包みを握りしめた。


「礼は言うな」


 アルマンの声は硬かった。


「俺は何も知らない。お前たちも、俺を見なかった」


 セリーヌが一歩近づこうとした。


 アルマンはそれを手で制した。


「行け」


「兄さん」


「行けと言っている」


 雨が強くなった。


 セリーヌは唇を噛んだ。


 それから、小さく頷いた。


 マルタンは深く頭を下げた。


 アルマンは顔を背ける。


「妹を泣かせたら、殺す」


「はい」


「本気だ」


「分かっています」


 マルタンはセリーヌの手を取った。


 冷たい手だった。


 だが、しっかり握り返してきた。


 二人は雨の路地を走り出した。


 行き先は、まだ分からなかった。


 ただ、ここではない場所へ。


 朝が来る前に。


 リュシアンの街の壁には、雨に滲んだ文字が黒く残っていた。


 王冠はパンを焼かない。


 その下を、若い二人が駆け抜けていった。

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