第2話 灰鷹を見た者たち
夜の稽古場は、昼間よりも広く見えた。
灰鷹隊本部の稽古場は、かつて彼らが寝泊まりしていた町道場の離れとは比べものにならない。床はきちんと張られ、槍掛けには訓練用の槍が並び、壁際には木剣、盾、棒、枝束盾の試作品まで置かれている。
第二の戦いの前なら、考えられない光景だった。
灰鷹隊は、もはや本来の意味での「分隊」ではない。
隊士は二百を超えた。
槍隊、騎馬斥候、護衛、市街警備、物資警備、救護、連絡。名目はまだ整いきっていないが、部隊の中にさらに小さな班が作られつつある。
手書きの旗から始まった若者たちは、いつの間にか帝都の一角を預かる武装組織になっていた。
その広い稽古場に、今は二人しかいない。
リオン・フォン・アルトベルクと、マルタン・ルクレールである。
マルタンは灯りの下で長剣を手入れしていた。昼の襲撃で五人を斬った剣だ。血は拭われ、刃には薄く油が引かれている。古い剣だが、乱暴に扱われた形跡はない。
使い込まれている。
だが、使い潰されてはいない。
持ち主によく似ている、とリオンは思った。
「昼の襲撃だが」
リオンは壁に背を預けたまま言った。
「戦ってみて、何か気づいたことはあるか」
マルタンは布を動かす手を止めなかった。
「気づいたこと、でございますか」
「そうだ。君は五人斬った。こちらの誰よりも、連中の間合いを見たはずだ」
「恐ろしい言い方をなさいますな。私はただ、護衛の務めを果たしただけでございます」
「謙遜はいい」
リオンが言うと、マルタンは困ったように笑った。
「では、二つほど」
「言え」
「まず、町人ではありません」
マルタンは剣を持ち上げ、刃を斜めに灯りへかざした。
「服装は町人でした。荷運び、職人、露天商。ですが、手際が違います。最初の二人を倒す順番ができすぎていました。喉を裂く者と、弩を撃つ者。あれは偶然ではございません」
「ごろつきは、喉を裂いてから弩を撃つ順番を訓練しない」
「はい」
マルタンは頷いた。
「それと、剣の扱いです」
「剣?」
「短剣や棒は帝都でも見る形でした。けれど、一人、片刃の短い剣を使った者がおりました。帝国の市民が好む喧嘩道具ではございません。どちらかと言えば、西の国境地帯で見たことがございます」
リオンの目が細くなる。
「ヴァレーヌか」
マルタンはすぐには答えなかった。
布を畳み、剣を膝に置く。
「断言はできません」
「なぜだ」
「西と申しましても、広うございます。ヴァレーヌだけではありません。中立国の傭兵も使いますし、北方の商人が弩を好むとも聞きます。共和国の剣に似ていた、とまでは申せます。共和国が裏にいる、とまでは申せません」
「慎重だな」
「私は共和国人でございますから」
マルタンは穏やかに言った。
「私が軽々しく祖国の名を出せば、それは私の疑いにもなりましょう」
「自分の身を守るためか」
「妻子へ仕送りするためでございます」
リオンは、少しだけ口元を歪めた。
嘘は言っていない。
この男はいつもそうだ。腰は低い。言葉は柔らかい。だが、要所では決して不用意に踏み込まない。
「いずれにしても、ただの国内派閥争いの域は越えている」
リオンは言った。
「襲撃者は公爵令嬢を殺すつもりだったと思うか」
マルタンは首を傾げた。
「殺そうと思えば、最初に馬車を狙ったはずです。弩を二つ用意していたなら、窓へ撃ち込めばよい。ですが、彼らはまず護衛を減らしました」
「つまり」
「奪うか、騒がせるか。あるいは、守れなかったと言わせるか」
リオンは頷いた。
同じ結論だった。
公爵家を狙った。だが、殺すためだけではない。騒がせるためだ。
フォンヴァルト家の姫君が下町で襲われた。
その噂だけで、帝都の貴族街はざわめく。警備隊の面子は潰れる。灰鷹隊の力を示すことにもなったが、同時に灰鷹隊を使わなければ公爵家の女一人守れないという話にもなる。
誰かが、そういう火種を置いている。
「明日、ロビンとレイバーに話す」
「私も同席いたしましょうか」
「呼ばれればな」
「では、呼ばれなければ寝ております」
「ずいぶん余裕だな」
「寝不足は剣に悪うございます」
マルタンは剣を鞘へ戻した。
金具が小さく鳴る。
リオンはその音を聞きながら、昼間の報告書を思い出した。
護衛六名中、二名死亡、一名負傷。
それでもエレオノーラは無事。
偶然ではない。
ロビンは、マルタンに礼を言った。
レイバーは笑った。
だが、リオンには別のものが見えていた。
敵は灰鷹隊を見た。
灰鷹隊もまた、敵に見られた。
今日の襲撃で、互いに存在を知った。
次は、もっとやりにくくなる。
◇
翌朝、灰鷹隊本部の小会議室には、三人がいた。
ロビン・フォン・バーゼル。
レイバー。
リオン・フォン・アルトベルク。
窓は閉じられている。机の上には、襲撃現場から回収された品が並べられていた。
折れた弩の部品。
血のついた短剣。
片刃の短い剣。
逃亡した襲撃者のものと思われる布切れ。
そして、前方で倒れた隊士二名の名が書かれた紙。
ロビンはその紙を見つめていた。
顔は静かだった。
だが、リオンは知っている。ロビンが静かな時ほど、内側には火がある。
「護衛経路は誰が知っていた」
レイバーが口を開いた。
声は低い。
「公爵家側。灰鷹隊側。施療院側。あとは御者と侍女。多すぎるな」
「偶然ではないのか」
ロビンが言った。
願望ではなく、確認のための言葉だった。
レイバーは首を振る。
「偶然で済ませたら、次は死ぬぞ」
その一言で、部屋の空気が冷えた。
ロビンは目を伏せる。
「エリーを狙った」
「狙われたのは、公爵家だ」
リオンは言った。
ロビンの目がこちらへ向く。
「どういう意味だ」
「公爵家の姫君を下町で襲えば、殺しても攫っても、逃がしても、騒ぎになる。公爵家の警備に傷がつく。帝都警備隊の面子も潰れる。灰鷹隊が出張れば、今度は公爵家が私兵を帝都で動かしていると言える」
ロビンは黙った。
レイバーが机を指で叩く。
「前にも似たようなことがあったな」
銀鹿亭。
誰も、その名を口にしなかった。
エレオノーラ誘拐事件。
あの事件も、表向きには公爵家の政敵が仕組んだものとされた。実行犯は捕らえられた。だが、黒幕までは辿れなかった。いや、辿り切る前に糸が切れた。
そして、今回。
リオンは机上の片刃剣を手に取った。
「この剣をマルタンが見た。西方の国境地帯で似たものを見たことがあるそうだ」
「マルタンが?」
ロビンが少し眉を上げる。
「共和国と関係があるということか」
「断言はできない。マルタンも断言しなかった」
レイバーが鼻を鳴らした。
「あいつらしいな。自分に火の粉がかかる言い方はしねえ」
「それは悪いことではない」
リオンは剣を置いた。
「軽々しく祖国の名を売る者よりは信用できる」
ロビンは二人を見た。
「リオン。お前はどう見る」
「帝国内の政敵だけではない。少なくとも、外の金か道具が入っている。公爵家を揺さぶり、帝都警備隊と公爵騎士団の間に疑いを作りたい者がいる」
「目的は」
「帝都の秩序を、少しずつ傷つけること」
言ってから、リオンは窓の方を見た。
閉じた窓の向こうには、帝都の朝がある。
屋台が開き、馬車が通り、役人が急ぎ、子どもが走る。
何も燃えてはいない。
だが、灰の下には火がある。
「灰鷹隊はどうする」
ロビンが言った。
リオンは視線を戻す。
「表向きは、護衛経路の見直し。市街警備班の増強。弩と短剣の出所を追う」
「裏では」
レイバーが言った。
リオンはレイバーを見る。
レイバーは笑っていなかった。
「裏では、酒場、宿屋、倉庫、共和国人街を洗う。必要なら、こちらも耳を置く」
ロビンが少しだけ眉を寄せた。
「耳を置く、か」
「綺麗な言い方ではないな」
「わかっている」
ロビンは短く息を吐いた。
「だが、またエリーが狙われるなら、綺麗なことだけ言ってはいられない」
その言葉を聞いて、リオンはロビンを見た。
光の側に立つ男が、影を認めた瞬間だった。
もっとも、影がどこまで伸びるか、ロビンはまだ知らない。
知らなくていいのかもしれない。
◇
ヴァレーヌ共和国首都、リュシアン。
外務省の建物は、革命前には王立財務院と呼ばれていた。
厚い石壁、広い階段、天井の高い廊下。古い王の紋章は削り取られ、代わりに共和国の標語が掲げられている。
自由。
市民。
祖国。
その三つの言葉は、どの部屋にも、どの書類にも、どの演説にも現れた。
だが、建物の中で働く者たちの顔は、標語ほど明るくはない。
ヴァレーヌ共和国は、革命によって王を退けた。
だが、それで安定したわけではなかった。
王党派は消えていない。市民派も一枚岩ではない。急進派は穏健派を裏切り者と呼び、穏健派は急進派を暴徒と呼ぶ。軍は国境を警戒し、商人は税に怒り、農村は徴発に疲れている。
革命は勝った。
しかし、革命後の国を守る戦いは、まだ終わっていなかった。
ヴァンサン・ルノワールは、外務長官の執務室へ呼ばれていた。
三十代半ばの男である。
黒に近い茶髪を後ろへ撫でつけ、薄い口髭を整えている。身なりは上品だが、貴族的ではない。共和国の官僚として、質の良いものを目立たぬように着ている。
笑えば柔らかい顔になる。
だが、今は笑っていなかった。
「帝国へ行ってもらう」
外務長官は前置きなく言った。
机の上には、何通もの報告書が置かれている。封蝋はすでに割られていた。
「前任は失敗した」
「エレオノーラ・フォンヴァルトの件ですか」
「それだけではない。銀鹿亭の失敗。護衛襲撃の失敗。現地協力者の喪失。貴重な連絡員を複数失った」
長官は一枚の紙を指で弾いた。
「帝国の公爵家を割る。それが前任の方針だった。北部公爵家、宮廷、帝都警備隊、他公爵家。疑心暗鬼にさせる狙いは悪くなかった」
「結果は」
「灰鷹隊という予想外の駒を育てただけだ」
ヴァンサンは、そこで初めて紙へ視線を落とした。
灰鷹隊。
帝都巡衛隊第三分隊。
フォンヴァルト公爵家の庇護下にある、平民と没落貴族の混成部隊。
報告書にはそうある。
「帝国は我々へ目を向けかけている」
長官は続けた。
「西方戦線で挑発を受けたと叫ぶ者がいる。共和国を討てと宮廷で叫ぶ者もいる。だが、我々に大戦を受ける余裕はない」
ヴァンサンは頷いた。
それは誰もが知っている事実だった。
ヴァレーヌ共和国は強国に見える。
だが内側は、常に揺れている。
王を倒した市民が、次に誰を倒すかは誰にも分からない。国境の外敵より、議場の内側の方が危険な日もある。
「帝国を傾けろ」
長官は言った。
「だが、こちらに目を向けさせるな。帝国が我々を攻撃する余裕を失うようにしろ。チェシーを支えるのも結構。帝国内の不満を育てるのも結構。方法は問わない」
「失敗は」
「許されない」
ヴァンサンは、少しだけ笑った。
「共和国らしいお言葉です」
「皮肉を言いに呼んだのではない」
「承知しております」
ヴァンサンは報告書を手に取った。
そこには、ある名前が記されていた。
ロビン・フォン・バーゼル。
リオン・フォン・アルトベルク。
レイバー・ツィンマー。
そして、マルタン・ルクレール。
ヴァンサンの指が、その名で止まった。
「これは」
「共和国人だ」
長官が言う。
「ヴァレーヌ南部、ラ・ヴィーニュ村出身。旧騎士長剣術師範。現在は灰鷹隊所属」
「帝国の犬になった共和国人、ですか」
「君の仕事は犬を罵ることではない。使えるか、殺すか、見極めることだ」
ヴァンサンは報告書を閉じた。
「わかりました。帝国へ向かいます」
「必要なものは」
「金。印刷職人。共和国語を話せる商人。火薬筒の部品。逃走路。あと、前任者の残した連絡網のうち、生きているものだけ」
「死んでいるものは」
「燃やしてください」
長官は、しばらくヴァンサンを見ていた。
「君は、前任と同じやり方をしないのだな」
「貴族を裂くより、市民を燃やす方が早い」
ヴァンサンは静かに言った。
「帝国の貴族は、互いを疑いながらも同じ食卓に戻ります。ですが、市民は違う。一度、自分たちにも火を持てると知れば、もう元の暗がりには戻れません」
「燃えすぎれば、こちらにも火の粉が来る」
「燃やすのではありません。風を読むのです」
ヴァンサンは微笑んだ。
「帝国の街には、すでに灰が積もっています。私は、少し息を吹くだけです」
◇
ヴァンサン・ルノワールが帝都に入ったのは、それからしばらく後のことだった。
商人の随員として、中立国を経由した。
帝都は巨大だった。
石造りの門。広い大路。皇帝の威光を示す尖塔。貴族街の高い壁。下町の煙。荷車の列。物乞い。凱旋を讃える古い掲示。負傷兵。流行の卵料理を売る屋台。
強大な都市だ。
そして、疲れた都市だ。
ヴァンサンは馬車の窓からそれを見て、そう判断した。
人々は皇帝を讃える言葉を知っている。
だが、腹が減れば声は低くなる。
兵士が通れば道を開ける。
だが、目は従っていない。
屋台の横で、二人の男が言い争っていた。
片方が「チェシー共和国」と言い、もう片方が慌てて周囲を見回す。
良い兆候だ、とヴァンサンは思った。
恐れられている言葉は、やがて広がる。
帝都北区の奥、古い商館の地下に、彼のための部屋が用意されていた。
そこには数人の協力者が集まっていた。
印刷工。
没落貴族の次男。
商人組合に顔の利く男。
学生風の若者。
そして、前任者から引き継がれた連絡員が二人。
ヴァンサンは彼らの顔を一人ずつ見た。
その中で一番若い男が、机の端に書類束を置いた。ルネ・バロー。ヴァンサンがリュシアンから連れてきた連絡員であり、弟のように使っている男だった。
ルネはまだ若い。だが、暗号と印刷工の扱いには長けている。何より、共和国の理想を疑っていない。
「方針を変える」
最初にそう告げた。
年長の連絡員が眉をひそめる。
「公爵家への工作は」
「続ける価値はある。だが主軸ではない」
「では何を」
「市民だ」
ヴァンサンは机の上に帝都の地図を広げた。
貴族街に印をつける。
次に、下町、市場、印刷所、大学、商人組合、酒場、兵舎近くの安宿に印をつけた。
「貴族を裂くより、市民を燃やす方が早い。帝都には薪が多い。物価、徴発、敗戦、負傷兵、失業者、没落貴族、飢えた職人。そこへ共和政という燃料を注ぐ」
学生風の若者が目を輝かせた。
商人は不安げに唇を結んだ。
ヴァンサンは構わず続ける。
「ただし、邪魔者がいる」
別の紙を広げた。
灰鷹隊の名簿だった。
「帝都巡衛隊第三分隊。通称、灰鷹隊」
没落貴族の次男が鼻で笑った。
「田舎者の槍兵でしょう」
「前任もそう思った」
ヴァンサンは穏やかに言った。
「その結果が、銀鹿亭の失敗と、今回の護衛襲撃の失敗だ」
部屋が静かになる。
「彼らは単なる槍兵ではない。平民と没落貴族の混成部隊。下町に顔が利き、公爵家に出入りし、戦場帰りで、民衆からも一定の人気がある」
「厄介ですな」
「厄介だ。だが、混成部隊ということは、割れるということでもある」
ヴァンサンの指が名簿の上を滑った。
ロビン・フォン・バーゼル。
リオン・フォン・アルトベルク。
レイバー・ツィンマー。
ローレンス・ミュラー。
そして、マルタン・ルクレール。
ヴァンサンの指が止まる。
「共和国人がいる」
ルネが顔を上げた。
「灰鷹隊に?」
「ヴァレーヌ南部、ラ・ヴィーニュ村。旧騎士長剣術師範。妻子あり。帝国軍騎士団には落ち、灰鷹隊に採用」
ヴァンサンは小さく笑った。
「面白い」
「接触しますか」
ルネの声には、わずかに嫌悪が混じっていた。共和国人が帝国の治安部隊にいる。その事実を、彼はまだ若い正義感で受け止めていた。
「いずれな」
彼は名簿を閉じた。
「まずは帝都を知る。市場を見ろ。酒場を見ろ。印刷所を押さえろ。学生に紙を配れ。商人には数字を見せろ。職人には徴発の怒りを思い出させろ」
協力者たちが頷く。
ヴァンサンは最後に、貴族街と下町の境界を指でなぞった。
「灰鷹隊は、帝国の犬であり、民衆の友でもある。ならば、どちらかを選ばせればよい」
灯りが揺れた。
地図の上で、灰鷹隊本部の印が小さく影を落とす。
ヴァンサンはその影を見つめながら言った。
「旗は、美しいほど燃えやすい」




