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第1話 刃毀れの長剣

落日の槍の世界観でまた書きたくなりました。

第二の戦と第三の戦の間の話です。

 春が終わり、帝都の石畳に昼の熱が残るようになった頃、フリッツ・ハイネは槍を握る手に汗をかいていた。


 暑さのせいではない。


 緊張のせいだった。


 実戦が初めてというわけではない。帝都巡衛隊第三分隊、通称灰鷹隊に入ってから、酔漢の取り押さえも、行商人の護衛も、下町の巡回も経験した。路地裏で短剣をちらつかせるごろつきを見ても、最近では足がすくまなくなってきた。


 だが、今日の任務は違う。


 護衛対象は、公爵家の姫君だった。


 エレオノーラ・フォンヴァルト。


 帝国に四家しかない公爵家の三女であり、灰鷹隊隊長ロビン・フォン・バーゼルの婚約者でもある。いずれバーゼル家へ嫁ぐ方だと聞かされている。


 その姫君が、下町の施療院と孤児院を視察するという。


 表向きには公爵家の慈善事業の確認。だが、大仰な馬車と騎士団を連ねれば、かえって騒ぎになる。そこで護衛には、帝都の路地に慣れた灰鷹隊から六名だけが選ばれた。


 その六名の中に、なぜかフリッツが入っていた。


 もし何かあれば、ただでは済まない。


 首が飛ぶ、という言葉がある。


 今のフリッツには、比喩に聞こえなかった。


 フリッツは帝都近郊の農家の四男だった。兄たちに畑は残るが、四男に分けられる土地はない。だから槍を覚え、兵士になろうと帝都へ来た。貴族など、遠くの祭礼で馬車を見たことがある程度だ。


 その自分が、公爵令嬢の馬車の左側を守っている。


 考えるだけで、喉が乾いた。


「緊張しておいでですかな」


 背後から、妙に柔らかい声がした。


 振り返ると、マルタン・ルクレールがいた。


 フリッツと同じく、第二の戦いの後に灰鷹隊へ入った新隊士である。ただし同期と言っても、年齢は一回りほど違う。フリッツたち若手から見れば、ほとんど先生か叔父のような年頃だった。


 ヴァレーヌ共和国出身の長剣使い。


 そう聞けば、もっと恐ろしい男を想像する。敵国生まれで、旧騎士剣術の師範だったというのだから、顔に傷の一つもあり、口数少なく人を睨むような男だと思っていた。


 だが実際のマルタンは、いつも少し背を丸め、誰に対しても頭を下げ、困ったように笑っている男だった。


 灰鷹隊の若い連中は、陰で彼を「西国の先生」と呼んでいる。


 悪意はない。


 ただ、強そうには見えなかった。


「そりゃあ、力も入りますよ」


 フリッツは小声で答えた。


「俺たちからすれば、雲の上の方です。もし傷でもつけたら……」


「深呼吸なさいませ」


 マルタンは穏やかに言った。


「体が硬くなってしまっては、いつもの力も出せません。フリッツ殿の腕なら大丈夫です」


「そう言われても」


「では、緊張をほぐすために、私の故郷の話でもいたしましょうか。私の故郷ラ・ヴィーニュは、ヴァレーヌの南にありましてな。春の終わりには丘一面の葡萄の葉が――」


「故郷の話は大丈夫です!」


 フリッツは慌てて遮った。


 この男は故郷の話を始めると長い。


 ラ・ヴィーニュの葡萄畑。赤葡萄酒。朝市の丸パン。妻の煮込み。丘の風。村道の石畳。何度も聞かされた。本人はいつも恐縮したように話すのだが、気づけば相手が逃げられなくなっている。


「任務に集中しましょう」


「おっしゃる通りでございます」


 マルタンは少し寂しそうに頷いた。


「では、私は後ろへ戻ります。気楽に参りましょう。気楽に、しかし目だけは開けて」


 そう言って、馬車の後方へ下がっていった。


 フリッツは息を吐いた。


 少しだけ、緊張がほぐれた気がした。


 馬車はゆっくりと進む。


 貴族街から下町へ向かうには、いくつか道がある。大通りを使えば目立つ。かといって、あまり細い路地を通れば逃げ場がない。今日の経路は、貴族街の外縁を抜け、商人の倉庫が並ぶ道を通り、施療院の裏口へ回るものだった。


 護衛は六名。


 馬車の前方に二名。左右に一名ずつ。後方に二名。


 前方には、第二の戦いを経験した古参隊士がついた。フリッツは左側。右側には同じく新隊士のオットー。後方にはマルタンと、もう一人の隊士がいる。


 馬車の中には、エレオノーラと侍女がいる。


 フリッツは顔を見ていない。


 見てはいけない気がした。


 ただ、馬車の窓布がわずかに揺れた時、白い手袋の指先だけが見えた。その細さだけで、フリッツはまた胃が痛くなった。


 通りは静かだった。


 静かすぎる、と気づいたのは、前方の隊士が足を止めた時だった。


「何だ、お前たちは」


 低い声が響いた。


 道の左右、倉庫の戸口と荷車の影から、人影が出てきた。


 八人。


 いや、奥にもう一人いるかもしれない。


 身なりは町人だった。荷運び、職人、露天商。だが、立ち方が違う。目が笑っていない。酔漢でも、ごろつきでもない。


 前方の古参隊士が槍を構えた。


「道を開けろ。公爵家の――」


 言葉はそこで途切れた。


 一人の町人がふらりと近づいたかと思うと、古参隊士の喉元に手を伸ばした。


 短い刃が光った。


 うめき声。


 古参隊士が膝から崩れる。喉から血が噴き、石畳に赤い筋を引いた。


 もう一人の古参が叫ぼうとした。


 その前に、別の男が外套の下から小型の弩を突き出した。


 弦の弾ける音。


 矢が首の付け根に刺さった。


 前方二名が、ほとんど同時に倒れた。


 フリッツの頭が真っ白になった。


 帝都の中だ。


 貴族街からそう離れていない。


 昼間だ。


 それなのに、人が殺された。


 目の前で。


 御者が悲鳴を上げ、馬を引こうとした。馬車が斜めに揺れる。狭い道で無理に向きを変えようとして、右側の壁に車輪をこすった。


「待て、動かすな!」


 誰かが叫んだ。


 馬が嘶く。右側にいたオットーが馬車に押され、よろめいた。後方の隊士が馬の手綱を押さえようとする。


 馬車は道を塞ぐように斜めになった。


 逃げ道が消えた。


 襲撃者たちが一斉に動き出す。


 弩に次の矢をつがえる者。短剣を抜く者。荷車の影から棒状のものを取り出す者。フリッツは槍を構えようとしたが、手が震えていた。


 穂先が揺れる。


 情けないほど大きく揺れる。


 何をすればいい。


 馬車を守る。どうやって。前は敵。右は壁。左は狭い軒下。後ろは馬が暴れている。自分が前に出るべきか。だが前へ出れば弩で撃たれる。槍は長い。狭い。突けるか。足が動かない。


 考えだけが速くなる。


 体は置き去りになった。


 その時だった。


「通していただいて、よろしいですかな」


 穏やかな声が、後ろから聞こえた。


 マルタンだった。


 彼はいつものように、少し申し訳なさそうな顔でフリッツの横へ来た。まるで混んだ食堂で席の間を抜ける時のように、軽く頭を下げている。


「マ、マルタン殿」


「フリッツ殿」


 マルタンは襲撃者から目を離さずに言った。


「下がっていなさい」


「ですが――」


「下がっていなさい、と申しました」


 声は静かだった。


 だが、フリッツは息を呑んだ。


 同じ敬語なのに、さっきとは違う。


 背を丸めていた男の姿勢が変わっていた。肩の位置が落ち、足の裏が石畳に吸いついたように見える。困った犬のようだった目から、柔らかさが消えていた。


 マルタンは腰の長剣に手をかける。


 巨大な剣ではない。


 片手剣より長く、両手で扱うための柄を持つ、古い形の長剣だった。鞘も革帯も使い込まれている。飾り気はない。だが柄だけは、長く触れられて艶を帯びていた。


「何者かは存じませんが」


 マルタンは一歩前へ出た。


「これより先へお進みならば、お相手つかまつります」


 弩の男が矢を放った。


 次の瞬間、金属音がした。


 矢が石畳に跳ねた。


 フリッツには、剣を抜くところが見えなかった。


 マルタンはすでに抜刀していた。長剣の刃が、昼の光を細く返している。


 彼は走らなかった。


 滑るように間合いを詰めた。


 弩の男が二射目をつがえるより早く、マルタンの剣先が弩の弓身を叩いた。木と金具が砕け、男の手から弩が跳ねる。返す刃が胸へ吸い込まれた。


 血が噴いた。


 マルタンはもうそこにいない。


 左から短剣の男が迫る。マルタンは長剣の根元で受けた。刃と刃が噛み、短剣が外へ流される。流した勢いのまま柄頭が男の顎を打った。骨の砕ける音がして、男が仰け反る。そこへ、横からもう一人が剣を振り下ろした。


 マルタンは半歩退いた。


 振り下ろしが空を切る。


 長剣の切っ先が下から跳ね、男の手首を裂いた。剣が落ちる。さらに一歩踏み込み、肩口から胸へ斜めに斬り下ろす。


 フリッツは動けなかった。


 戦いというものは、もっと荒々しいものだと思っていた。


 怒鳴り、ぶつかり、槍を突き出し、必死に押し合うものだと思っていた。


 マルタンの動きは違った。


 襲撃者が来る場所に、先に刃が置かれている。


 狭い路地で、長いはずの剣が少しも邪魔になっていない。壁を背にせず、馬車を背にせず、斜めになった車輪と石壁の間に、ちょうど人一人分の道を作っている。


 敵が一度に来られない場所だった。


 マルタンがそこを選んだのだと、遅れて気づく。


「回れ!」


 襲撃者の一人が叫んだ。


 荷車の向こうから、別の男が後方へ回ろうとした。


 マルタンは視線を向けない。左手を柄から離し、腰の小袋に触れた。何か小さなものが飛ぶ。


 鉛玉だった。


 火薬筒に使う丸い鉛玉。


 それが男の額に当たり、男が一瞬ひるんだ。


 マルタンはその一瞬だけで足りた。


 前の男の剣を受け、刃を滑らせる。相手の体勢が崩れたところで、マルタンは腰をひねった。長剣が横へ走り、荷車へ回ろうとした男の喉を裂く。


 同じ動きの終わりに、剣尻が前の男の鳩尾を打った。


 男が息を詰まらせる。


 マルタンは右足を踏み込み、長剣を短く突き出した。


 刃が腹に沈む。


 引き抜く。


 血が石畳に散った。


 五人。


 ほんの数息で、五人が倒れていた。


 残る襲撃者たちは、互いに目を見合わせた。


 最初に一人が逃げた。


 それに続いて、残りも路地の奥へ走る。


 マルタンは追わなかった。


 剣を下げたまま、しばらく襲撃者の逃げた方角を見ていた。


 やがて、ふう、と息を吐く。


「御者殿。馬をなだめてください。車輪は、まだ動きますかな」


 声は、元に戻っていた。


 柔らかい、腰の低い声だった。


 フリッツは、その場に膝をついた。


 槍を支えにしていなければ、倒れていた。


 生きている。


 そう思った瞬間、吐き気がこみ上げた。


 馬車の内側から、侍女の震える声がした。


「ご無事ですか」


 マルタンが馬車の戸へ向かって、深く頭を下げる。


「恐れながら、まだ外へは出ませぬよう。道を改めます。ご安心くださいませ」


 窓布の向こうで、白い手袋の指がわずかに動いた。


 エレオノーラの声が、静かに返った。


「わかりました。負傷者を」


「すぐに」


 マルタンは頭を下げたまま言った。


 その足元に、血が流れていた。


 倒れた古参隊士の血と、襲撃者の血が、石畳の隙間で混ざっていた。



   ◇



 その日の夕刻。


 帝都貴族街にある灰鷹隊本部の会議室で、リオン・フォン・アルトベルクは報告を聞いていた。


 正確に言えば、報告書を読みながら、報告の不備に苛立っていた。


 エレオノーラ・フォンヴァルト護衛中、下町手前の倉庫街にて襲撃を受ける。


 護衛六名中、二名死亡。一名負傷。


 襲撃者八名以上。うち五名死亡。残り逃亡。


 護衛対象は無事。


 結果だけ見れば、最悪ではない。


 むしろ、よく守ったと言うべきだろう。


 だが、リオンは眉間に皺を寄せた。


 襲撃を受けた、という報告が最初に来た時点で問題だった。


 受ける前に匂いを拾え。


 帝都の下町に顔が利く部隊を名乗るなら、せめて道の静けさくらい報告に上げろ。


 そう言いたくなる。


 もっとも、今日ここに座っている三人に、それを言っても仕方がない。


 会議室の向かい側には、生き残った護衛三名が座っていた。


 若い隊士が二人。


 一人はフリッツ・ハイネ。農家の四男だと記録にあった。顔色が悪い。槍を握っていない手まで膝の上で固く握っている。


 もう一人はオットー・ライス。下町出身の若手。腕に包帯を巻いている。馬車に押されて転び、肩を打ったらしい。


 そして、三人目。


 マルタン・ルクレール。


 ヴァレーヌ共和国出身。旧騎士長剣術師範。三十代半ば。帝国軍騎士団の募集では弾かれ、灰鷹隊の選抜へ流れてきた男。


 リオンは、入隊試験の日を覚えている。


 弱そうに頭を下げ、恐縮しきった顔で木剣を握っていた。


 そして試合が始まった途端、リオンの剣筋を三手で読んだ。


 危険な男だ。


 便利な男でもある。


 リオンはそう判断していた。


 会議室には、ロビン・フォン・バーゼルとレイバーもいた。


 ロビンは隊長として、いつになく硬い顔をしている。無理もない。襲われたのは婚約者だ。


 レイバーは報告書を手に、黙っている。目だけは笑っていない。


「皆、今日は本当によくやってくれた」


 口火を切ったのはロビンだった。


 彼は席を立ち、三人に向かって深く頭を下げた。


「エレオノーラを守ってくれて、心から感謝する。ありがとう」


 フリッツとオットーが慌てた。


「た、隊長、頭を上げてください」


「俺たちは、そんな」


 マルタンだけは、一緒になって深く頭を下げていた。


「いえいえ、もったいないお言葉でございます」


 ロビンは顔を上げる。


「襲撃者は、ただのごろつきではない。手際が良すぎる。弩の使い方も、喉を狙う刃も、訓練を受けた者の動きだ。よく防いでくれた」


 フリッツの顔がさらに青くなった。


 彼は膝の上で拳を握ったまま、唇を噛んでいる。


 レイバーが机の上に小袋を三つ置いた。


 硬貨の音がした。


「隊長および公爵家から、臨時報酬だ。受け取れ。あと、死亡した二人の家には別途弔慰金を出す。負傷者の治療費も隊で持つ」


 小袋が、それぞれの前へ押し出された。


 フリッツはそれを見つめていた。


 やがて、震える声で言った。


「受け取れません」


 ロビンが眉を動かす。


「なぜだ」


「俺は、何もできませんでした。槍を構えただけで、足が動かなくて……マルタン殿がいなければ、俺は、馬車も守れず」


 オットーも俯いた。


「俺もです。馬車に押されて転んで、それだけでした。報酬をいただく資格はありません」


 会議室に沈黙が落ちた。


 リオンは、二人を責める気にはなれなかった。


 初めて人が喉を裂かれるところを見た若者など、動けない方が普通だ。そこで動ける者の方がおかしい。


 そして、そのおかしい方の男が、ゆっくりと顔を上げた。


「あのう……」


 間の抜けた声だった。


 全員の視線が、マルタンへ向く。


「実は、その、襲撃者の方々とやり合いました際に、少々、剣を傷めまして」


 マルタンは申し訳なさそうに、膝の上で両手をこすった。


「修繕の費用などは、いかほど見ていただけるものでございましょうか」


 ロビンが一瞬だけ目を瞬いた。


「ああ、そうか。もちろん修理代は出す」


 彼は懐から金貨を二枚取り出し、マルタンの前に置いた。


「これで足りるか」


 マルタンは金貨を見た。


 それから、ロビンを見た。


 捨てられた子犬のような目だった。


 ロビンは戸惑い、もう一枚足した。


 マルタンはまだ見ている。


 リオンは片眉を上げた。


 レイバーが口元を押さえている。


 ロビンはさらに一枚置いた。


 マルタンの顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとうございます。誠に、誠に助かります」


 深々と頭を下げ、マルタンは自分の報酬袋と追加の金貨を懐へしまった。


 それから、隣のフリッツとオットーの前に置かれた袋へ目を向けた。


「それで、お二方はお受け取りにならないので?」


 フリッツが顔を上げる。


「え」


「いえ、不要でしたら、その」


 マルタンはまた恐縮したように笑った。


「私が、お預かりしてもよろしいでしょうか」


 誰も返事をしなかった。


 その沈黙を許可と受け取ったのか、マルタンは二つの袋を丁寧に手に取った。


「ありがとうございます」


 彼は満面の笑みで頭を下げた。


 フリッツもオットーも、ロビンも、唖然としていた。


 レイバーがついに吹き出した。


「お前、すげえな」


「いえいえ、とんでもございません」


 マルタンは三つの袋を懐に収め、もう一度深く頭を下げた。


「では、失礼いたします。本日は、誠にありがとうございました」


 礼を言うのはお前なのか。


 リオンは心の中でそう思った。


 マルタンは、何事もなかったように退室していった。



   ◇



 夜。


 灰鷹隊本部の稽古場には、細い灯りだけが残っていた。


 リオンが戸口に立つと、奥で一人、剣を手入れしている男がいた。


 マルタン・ルクレールである。


 彼は布で長剣を拭いていた。昼間に五人を斬った剣だ。刃にはもう血の跡もない。丁寧に磨かれ、油を薄く引かれている。


 リオンは近づいた。


「刃毀れは見当たらないが」


 マルタンは手を止めなかった。


「おや」


「おや、ではない」


「いえ、まあ、その。長く使っている剣でございますから。目に見えぬ歪みというものも、きっとございましょう」


「見えない刃毀れか」


「はい。たいへん恐ろしいものでございます」


 リオンは鼻で笑った。


「君は臆病そうな顔をして、なかなか図太い」


「よく言われます」


「誰に」


「妻に」


 マルタンはようやく顔を上げた。


 いつもの困ったような笑みだった。


「いただける機会があれば、いただきたいですしね」


「恥とは思わないのか」


「思います」


 答えは早かった。


 リオンが黙る。


 マルタンは剣に視線を戻し、布を動かした。


「ですが、恥でパンは買えません。葡萄酒も、薬も、子どもの靴も買えません。私が少々恥をかいて、家に銀貨が届くなら、安いものでございます」


 稽古場に、布が刃を滑る音だけがした。


 リオンはしばらく、マルタンの横顔を見ていた。


「共和国人を灰鷹隊に入れるのは危険だと、私は今でも思っている」


「ごもっともでございます」


「だが、目の届く場所に置くなら、便利でもある」


「便利にお使いくださいませ。できれば、手当のつく任務で」


 リオンは今度こそ、少しだけ笑った。


「君には、後で聞きたいことがある。今日の襲撃者についてだ」


 マルタンの手が止まる。


 一瞬だけ、稽古場の灯りが刃に映った。


「承知いたしました」


 声は柔らかい。


 だが、昼の路地で聞いた声に近かった。


「私に分かることであれば、何なりと」


 リオンは頷いた。


 灰鷹隊は、光の中で旗を掲げる。


 だが、旗の影には、こういう男も必要になる。


 リオンはその時、そう思った。

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