第9話 灰鷹の暗部
異動の辞令は、朝の点呼のあとに告げられた。
マルタン・ルクレールは、最初、自分の名を呼ばれたことに気づかなかった。
灰鷹隊の隊舎前には、朝の冷たい空気が残っていた。槍を持った隊士たちが列を作り、馬番が厩舎の方で桶を運び、レイバーが帳簿と書類を抱えていつものように不機嫌な顔をしていた。
「ルクレール」
二度目に呼ばれて、マルタンは慌てて背筋を伸ばした。
「はい」
レイバーが書類から顔を上げた。
「本日付で、市街警備第三班より、特別連絡班へ異動。班長扱いだ」
「班長、ですか」
「耳が遠いのか」
「いえ。少々、驚きまして」
周囲の隊士たちも少しざわついた。
灰鷹隊に入って日が浅い共和国人が、班長扱いで異動する。
それが目立たないはずはなかった。
レイバーは淡々と続けた。
「先日の公爵夫人護衛任務での働きが評価された。扉口の保持、護衛対象の退避補助、敵襲への対応。報告書ではそうなっている」
「恐れ入ります」
「恐れる前に働け」
「はい」
「配属先の指揮はリオン・フォン・アルトベルク。詳細は本人から聞け」
レイバーはそこで書類を閉じた。
「あと、給金は上がらん」
マルタンは少しだけ肩を落とした。
「そうですか」
「今、露骨にがっかりしたな」
「いえ、そのような」
「しただろう」
列のどこかで笑いが漏れた。
レイバーは咳払いをした。
「ただし、危険手当は任務ごとに検討する」
マルタンは顔を上げた。
「検討、でございますか」
「検討だ」
「なるほど」
「不服そうな顔をするな」
「いえ、検討していただけるだけで、大変ありがたく」
「お前は本当に腹の底が読めんな」
レイバーはそう言って、次の名前を呼んだ。
マルタンの新しい班には、見覚えのある顔が何人かいた。
フリッツ・ハイネ。
エレオノーラ護衛任務で、初めての実戦に足を止めてしまった若い隊士である。
彼はマルタンと目が合うと、気まずそうに頭を下げた。
他に、下町出身で口の軽そうなオットー・ライス、無口な古参ヘルマン・ヴァイス、連絡係のユルゲン・クーンがいた。
彼らも辞令を受け取ったばかりらしく、誰も状況を飲み込めていない顔をしていた。
「ええと」
マルタンは班員たちを前に、丁寧に頭を下げた。
「本日より班長を仰せつかりました、マルタン・ルクレールです。至らぬ点も多いかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
オットーが目を瞬かせた。
「班長が一番腰低いんですけど」
「年長者として当然です」
「いや、年長者って普通もっと偉そうに」
ヘルマンがぼそりと言った。
「偉そうな班長よりはいい」
フリッツはまだ硬い顔で立っていた。
マルタンは彼に目を向けた。
「ハイネさん」
「はい」
「また一緒ですね」
「……はい」
「よろしくお願いします」
フリッツは一瞬、何か言いたげに口を開いた。
だが、結局ただ頭を下げた。
護衛任務で何もできなかったという傷は、まだ彼の中に残っているのだろう。
マルタンは、それを急いで剥がすつもりはなかった。
その日の昼前、マルタンはリオンに呼ばれた。
リオン・フォン・アルトベルクは、隊舎の裏手で待っていた。
灰青色の外套をまとい、片手剣を腰に差している。いつものように姿勢がよく、いつものように目が冷静だった。
「班員への挨拶は済んだか」
「はい」
「では歩くぞ」
「どちらへ」
「帝都だ」
リオンはそれだけ言って歩き出した。
マルタンは慌てて後を追った。
帝都の昼は、夜とは違う顔をしている。
大通りでは商人が声を張り上げ、貴族の馬車が人を避けさせ、パン屋の前には列ができていた。
しかし一歩路地へ入れば、洗濯物が頭上を渡り、子どもが泥水を跳ね、酒場の裏口から空樽が転がされている。
リオンは大通りを歩かなかった。
市場の脇道を抜け、橋の下を通り、倉庫街の裏へ回り、下町の細い道へ入る。
その足取りには迷いがない。
「覚えろ」
リオンは言った。
「何をですか」
「道だ。表通りではなく、裏の道を」
「はい」
「治安維持とは、ただ巡回して酔漢を捕まえることではない。暴れる者を押さえるのは最後だ。その前に、どこで人が集まり、どこで物が流れ、どこで噂が生まれるかを知る必要がある」
マルタンは周囲を見た。
市場の魚売り。
荷車を押す少年。
壁に貼られた古い布告。
その上に重ねて貼られた、税を批判する落書きめいた紙片。
「革命派、ですか」
リオンは少しだけ目を細めた。
「耳が早いな」
「隊舎でも、時折耳にします」
「なら、どんな者たちだと思う」
マルタンは答えに迷った。
「……不満を持つ市民、でしょうか」
「正しい。そして、それだけでは足りない」
リオンは、通りの向こうで荷を運ぶ男たちを見た。
「革命派は、制服を着て歩いてはくれない。町人と同じ服を着る。パンを買い、酒を飲み、子を育て、税に怒る。昨日まで普通の住民だった者が、明日には扇動者になることもある」
「見分けがつきませんね」
「だからロビンには向かない」
リオンの声は冷静だった。
「ロビン殿に?」
「あいつは旗を掲げる男だ。正面に立ち、名乗り、敵を敵として倒す。それが強みだ。だが、革命派相手にそれをやると、町人全員を敵に回す」
マルタンは黙って聞いた。
「暴動が起これば、ロビンたち本隊が正面を押さえる。槍を並べ、盾を立て、群衆を押し返す。それは必要だ。だが、暴動は勝手に起きるわけではない」
「誰かが煽る」
「そうだ。金を出す者、紙を刷る者、酒場で火をつける者、武器を渡す者。そいつらを探すのが、僕たちの仕事だ」
リオンは歩調を緩めなかった。
「綺麗な仕事ではない。密偵を使う。嘘もつく。時には捕まえる前に消す。報告書には書けないこともある」
マルタンは、リオンの横顔を見た。
「私に向いていると?」
「少なくとも、君は自分を綺麗な人間だとは思っていないだろう」
マルタンは苦笑した。
「買いかぶりです」
「君は自分を安く見せるのがうまい」
「それは、妻にも似たようなことを言われました」
「奥方は賢いな」
「はい」
その返事だけは、迷いがなかった。
リオンはわずかに笑った。
「なら、その賢い奥方のためにも覚えておけ。これから君が扱うのは、酔っ払いではない。町人の顔をした敵かもしれない者たちだ。そして、敵ではない町人を敵にしてしまうかもしれない仕事だ」
「承知しました」
「まだ承知するな。見てからにしろ」
やがて二人は、下町の外れにある半地下の酒場へ着いた。
石段が数段、地面の下へ降りている。
扉は重い木製で、昼間だというのに窓は閉じられていた。
入口には札が掛かっている。
準備中。
リオンはその札を一瞥し、構わず扉を開けた。
「よろしいのですか」
「よろしいから開けている」
「閉まっているように見えますが」
「見え方の問題だ」
リオンは中へ入った。
マルタンも続いた。
店内は薄暗かった。
昼の光は高い小窓から細く差し込むだけで、樽と椅子と丸卓が影を作っている。
夜になれば賑わうのだろうが、今は掃除の途中らしく、椅子が卓の上に上げられていた。
その奥で、若い娘が床を拭いていた。
栗色の髪を布でまとめ、袖をまくり、手際よく布巾を動かしている。
顔立ちは明るく、目がよく動く。
彼女はリオンを見ると、ぱっと表情を変えた。
「あ、リオン様」
声に、隠しきれない喜びがあった。
リオンは少し眉を動かしただけだった。
「ミレーヌ。客だ」
「準備中ですけど」
「知っている」
「知っていて入るのは、なお悪いです」
娘はそう言いながらも、嬉しそうだった。
マルタンは、少し息を止めた。
ミレーヌ。
娘と同じ名だった。
偶然だ。
よくある名だ。
そう自分に言い聞かせたが、胸の奥が小さく痛んだ。
「こちらは?」
ミレーヌがマルタンを見た。
「マルタン・ルクレール。今日から僕の班に入る」
「まあ。では、新しい怖いお仕事の人ですね」
「怖いかどうかは、彼次第だ」
マルタンは慌てて頭を下げた。
「マルタン・ルクレールと申します。よろしくお願いいたします」
「私はミレーヌ。ここの看板娘です」
彼女は胸を張った。
「看板娘が自称なのか」
リオンが言うと、ミレーヌはにっこり笑った。
「誰も否定しませんから」
その時、店の奥の扉が開いた。
一人の男が出てきた。
灰鷹隊の制服ではない。粗末な上着、擦り切れた帽子、下町の職人か荷運びのような格好をしている。
だが、歩き方が違った。
兵の歩き方だった。
「遅かったな」
男はリオンに言った。
「予定通りだ、クラウス」
「お前の予定は、いつも相手に優しくない」
「優しい予定が欲しければロビンのところへ行け」
クラウスと呼ばれた男は鼻で笑った。
さらに奥の席に、もう一人いた。
マルタンは、その男を見て姿勢を正した。
公爵家騎士団の紋章。
整った防具ではないが、身につけ方に隙がない。
落ち着いた目をした、屈強な騎士だった。
「オスカー殿」
リオンが言った。
「アルトベルク殿」
オスカーは静かに頷いた。
「そちらが、例の共和国人か」
「マルタン・ルクレールです」
マルタンは深く頭を下げた。
「公爵家騎士団、オスカーだ。君の働きは聞いている。公爵令嬢を守ってくれたこと、礼を言う」
「恐れ入ります」
マルタンはさらに頭を下げた。
リオンは椅子を下ろして座った。
準備中の酒場は、いつの間にか会議室になっていた。
「説明する」
リオンは言った。
「この店は、ただの酒場ではない。下町の噂、商人の不満、荷運びの話、酔った職人の愚痴が集まる。ミレーヌはそれを拾う。クラウスは、革命派の集会へ潜っている」
クラウスは軽く手を上げた。
「表向きは、灰鷹隊を辞めた不満分子ということになっている」
「辞めたのですか」
マルタンが尋ねると、クラウスは笑った。
「書類の上ではな」
「では、戻る場所は」
「あると信じている」
その言葉は軽かったが、軽くないものを含んでいた。
オスカーが口を開いた。
「公爵家は、帝都の革命派の動きを警戒している。単なる不満の高まりなら、まだ対処はできる。だが最近、金と情報の流れが妙だ」
「共和国ですか」
マルタンは思わず言った。
店内の空気が一瞬だけ固まった。
リオンが彼を見た。
「なぜそう思う」
「……私の国は、帝国を良く思っておりません。革命後、帝国は古い専制の象徴として語られています。帝都で火をつけたい者がいても、不思議ではないかと」
「その通りだ」
オスカーは静かに頷いた。
「ヴァレーヌ共和国のエージェントが、帝都の革命派に接触している疑いがある」
マルタンは黙った。
祖国の名が、敵として語られる。
分かっていたことだ。
それでも、胸の内に冷たいものが落ちた。
「君を疑っているわけではない」
オスカーが言った。
リオンが横から言った。
「僕は疑っている」
「リオン殿」
「疑うことと、使うことは両立します」
マルタンは苦笑するしかなかった。
「ごもっともです」
ミレーヌが卓に水差しを置いた。
「難しい話をするなら、お水くらい飲んでください。喉が渇くと、人は怒りっぽくなります」
「君はいつから軍議に口を出すようになった」
リオンが言うと、ミレーヌは平然と答えた。
「床を拭く者は、床の上で話されることにも詳しくなるんです」
クラウスが笑った。
「実際、この店で一番耳がいいのは彼女だ」
ミレーヌは得意げに胸を張った。
マルタンは、その明るさに少し救われた。
同時に、不安にもなった。
明るすぎる娘が、暗い仕事の中にいる。
それは、危うい。
リオンは水には手をつけず、話を続けた。
「近々、物価を理由にした騒ぎが起きる」
「物価ですか」
「パン、小麦、薪、油。どれも上がっている。徴発も増えた。市民は怒っている。そこへ、誰かが火をつける」
クラウスが低い声で言った。
「革命派の集会では、次の市の日に人を集める話が出ている。表向きは抗議。だが、裏では石と棒を用意している連中がいる」
「灰鷹隊本隊は」
「正面に出る」
リオンが答えた。
「ロビンたち本隊と巡衛隊が広場を押さえる。他の治安部隊も出る。暴徒化すれば鎮圧だ」
「私たちは」
「裏を見る」
リオンの目が細くなった。
「誰が人を集めるのか。誰が石を配るのか。誰が最初に血を流させようとしているのか。誰が、その混乱の後ろで笑うのか」
マルタンは、水差しの横に置かれた木の杯を見た。
治安維持。
その言葉は、表では簡単に聞こえる。
だが、ここにあるのは巡回や護衛ではない。
町人の顔を見て、敵かもしれないと疑う仕事。
怒る民衆の中から、怒らせた者を探す仕事。
必要なら、表に出る前に潰す仕事。
リオンが言った通り、綺麗な仕事ではなかった。
「ルクレール」
リオンが名を呼んだ。
「はい」
「君の班には、当日、広場の裏道を見てもらう。フリッツたちにはまだ全てを話すな。必要なことだけ伝えろ」
「承知しました」
「それと」
リオンは一拍置いた。
「君は共和国人だ。共和国人の匂いを、共和国人より嗅げる者はいない」
マルタンは、静かに息を吐いた。
「私の故郷を、敵として見ることになりますか」
「かもしれない」
「そうですか」
「嫌なら今のうちに言え」
マルタンは少し考えた。
ラ・ヴィーニュ村。
セリーヌ。
リュカ、ミレーヌ、エミール。
アルマンの商会。
ヴァレーヌの葡萄畑。
それらは故郷だった。
だが、帝都で暴動を煽る者がいるなら、それは彼の故郷ではない。
少なくとも、彼が帰りたい場所ではない。
「私は家族を食わせるために来ました」
マルタンは言った。
「帝国に忠義があるわけではありません。ですが、いただいた役目を放り出して、妻子に送る金を得るつもりもございません」
リオンは彼を見た。
「つまり?」
「働きます」
ミレーヌが小さく笑った。
「分かりやすい方ですね」
リオンは椅子から立ち上がった。
「では、働いてもらう」
半地下の酒場の外では、昼の帝都がざわめいていた。
パンを買う列が伸び、商人が値を叫び、誰かが税を罵っている。
まだ暴動は起きていない。
だが、火種はすでに街のあちこちに落ちていた。
マルタンは、その火種を初めて見た気がした。




