第10話 パンの値段
パンの値段は、街の機嫌を変える。
マルタン・ルクレールがそのことを知ったのは、帝国へ来てからだった。
ラ・ヴィーニュ村にも貧しさはあった。小麦の出来が悪い年もあれば、葡萄の病で村中が暗くなる年もあった。冬の薪が足りず、家々が肩を寄せ合うように暮らすこともあった。
だが、村の朝市では、誰が誰にどれだけ売ったか、だいたい皆が知っていた。
粉屋が値を上げれば、なぜ上げたのかを近所の女房衆が問い詰める。葡萄酒が安くなれば、ベルナールが今年の出来を自慢する。卵が小さければ、鶏の餌の話になる。
貧しくても、顔があった。
帝都には、顔がなかった。
いや、顔はある。
人の顔なら、嫌というほどある。
中央広場の市場には、商人、職人、荷運び、兵士、女中、主婦、学生、浮浪者、子ども、馬車の御者、用心棒が溢れていた。
だが、そのどれもが、互いを人ではなく値段として見ているように思えた。
「高いな」
マルタンは、露店の前で足を止めた。
黒パンが並んでいる。
リュカなら二つは食べたがる大きさだった。ミレーヌなら、中身だけほじくって怒られるだろう。エミールにはまだ早い。
値札を見て、マルタンは思わず眉を寄せた。
「ラ・ヴィーニュなら、この半分で買えます」
「ここは君の葡萄村ではない」
隣でリオン・フォン・アルトベルクが言った。
今日は灰青色の外套を着ていない。
上等だが地味な市民服に、目立たない短外套。腰の片手剣も、外套の影に隠している。
マルタンもまた、灰鷹隊の装いではなかった。古い外套の下に長剣を下げているが、柄が目立たぬよう布を巻いている。
リオン班は、この日、帝都中央広場の市場を視察していた。
理由は、半地下の酒場から上がってきた情報だった。
ここ数日、酒場での愚痴はほとんどが物価の話になっているという。
パンが高い。
小麦が高い。
油が高い。
薪が高い。
大商会が食料品を買い占めている。
南部の商人どもが倉庫に穀物を隠している。
公爵家はそれを見逃している。
真偽は分からない。
だが、ミレーヌの酒場で酔った職人がこう豪語した。
次の市で、あの大商会の店主をぶん殴ってやる。
それだけなら、酔っ払いの大言壮語で済む。
しかしクラウスからも、革命派の集会で中央広場市場に人を集める話が出ていると報告があった。
だからリオン班は来ていた。
ただし、灰鷹隊としてではない。
「やはり表立っては動けないのですか」
マルタンは、小麦袋を積んだ荷車を見ながら尋ねた。
「ここは南部公爵家の管轄だ」
リオンは答えた。
帝都の治安維持は、中央軍だけで担っているわけではない。
北部公爵家と南部公爵家も、区域ごとに治安維持を分担している。
帝国東西は大国と接し、常に軍事的負担が重い。対して北部は海に面し、南部は属国や緩衝地帯を挟む。負担の平等、そして帝都における政治的均衡のため、北部と南部は帝都治安にも人を出す。
灰鷹隊は北部公爵家に属する。
この中央広場市場は、表向きには南部公爵家の担当区域だった。
「要請なしに武装介入すれば揉める」
「市民が殴り合っていても?」
「殴り合いなら、まず南部の連中の仕事だ」
「火がついたら」
「その時は、火を消す者の所属など誰も見なくなる」
リオンは静かに言った。
「だが、その時には大抵の場合は遅い」
マルタンは市場を見回した。
広場の中央には、大きな穀物商の天幕があった。
看板には、帝都でも名の知れた大商会の印が描かれている。倉庫を持ち、馬車を持ち、南部の商路に強い商会だという。
その前には人だかりができていた。
「昨日より高いじゃないか!」
女の声が響いた。
「仕入れ値が上がっておりますので」
店員は疲れた顔で答えた。
「仕入れ値、仕入れ値って、そればっかりだ!」
別の男が叫ぶ。
「倉庫に隠しているんだろう!」
「買い占めだ!」
「南部商会は腹いっぱい食って、俺たちは黒パンも買えねえのか!」
その言葉に、周囲がざわついた。
店員の後ろには、体格のいい用心棒が二人立っていた。
南部の訛りがある。腕を組み、騒ぐ客たちを睨んでいる。
少し離れた場所には、南部公爵家の治安兵がいた。
だが、数が足りない。
彼らもただ見ているわけではないが、群衆の厚みに対してあまりに少なかった。
「班の配置は」
リオンが小さく言った。
「オットーさんが市場北側、裏路地の出口。ヘルマンさんが西の井戸近く。フリッツさんはユルゲンさんと一緒に伝令待機です」
「よく覚えた」
「書きましたので」
マルタンは袖の内側に小さく折った紙片を隠していた。
リオンは呆れたように彼を見た。
「君は剣士ではなかったのか」
「妻に買い物を頼まれた時も、書かないと忘れます」
「奥方は苦労しているな」
「はい」
マルタンは素直に頷いた。
リオンは一瞬だけ笑いかけ、それをすぐ消した。
「見るべきは怒鳴っている者ではない」
「はい」
「怒鳴る者は火だ。火をつける者は別にいる」
マルタンは群衆を見た。
怒っている者は多い。
それ自体は不自然ではない。
実際、値段は高い。パンを買えない怒りは、作り物ではない。
だが、群衆の端に、妙な者たちがいた。
何も買っていない。
値札を見ていない。
それでいて、人だかりの流れだけを見ている。
三人。
いや、五人。
フードを深くかぶり、荷運びか職人のような格好をしている。
手ぶらに見えるが、外套の下が少し不自然に膨らんでいた。
「リオン様」
「見えている」
リオンの声は低かった。
その時、大商会の天幕前で、ひときわ大きな声が上がった。
「ふざけるな!」
髭面の男が、小麦袋を掴んでいた。
「金を払ってからにしてください!」
店員が慌てて止める。
「昨日の値なら払ってやる!」
「本日の値段でなければ売れません」
「なら、昨日の分を返せ!」
理屈になっていない。
だが、周囲の不満がその男に味方した。
「そうだ!」
「商人どもは儲けすぎだ!」
「倉庫を開けろ!」
用心棒が前へ出た。
「下がれ」
「誰に言ってんだ!」
髭面の男が用心棒の胸を押した。
用心棒は男の腕を掴む。
男が振りほどく。
小麦袋が落ち、白い粉が地面にこぼれた。
その白さに、群衆の目が吸い寄せられた。
パンになるはずのものが、土にまみれる。
誰かが悲鳴のように叫んだ。
「食い物を粗末にしやがって!」
次の瞬間、群衆の端にいたフードの一人が動いた。
外套の下から棍棒が出た。
用心棒の膝裏に振り下ろされる。
男が崩れた。
二人目が、もう一人の用心棒の腕を打った。
三人目が天幕の支柱を蹴った。
天幕が揺れる。
小麦袋が崩れる。
怒号が爆発した。
「奪え!」
誰が叫んだのか分からなかった。
だが、その一言で人の波が変わった。
抗議は略奪になった。
商人の天幕へ手が伸びる。
袋が破られる。
店員が突き飛ばされる。
南部の治安兵が笛を吹く。
だが、笛の音は怒号に飲まれた。
リオンが舌打ちした。
「始まった」
「止めますか」
「まだだ。僕たちがここで名乗って剣を抜けば、北部が南部の管轄で暴れたことになる」
「では」
「火付けを追う」
リオンはすでに動いていた。
マルタンも続いた。
棍棒を持ち込んだ小集団は、混乱の中心から離れ始めていた。
彼らは小麦袋を奪わない。
店員を追わない。
怒鳴りもしない。
目的を終えた者の動きだった。
群衆に紛れ、広場の北側へ抜ける。
「オットー」
リオンが短く呼ぶと、露店の陰からオットー・ライスが顔を出した。
「見えてます。北の魚屋裏へ」
「回り込め」
「はいよ」
オットーは下町の子どものように人混みへ消えた。
マルタンは、倒れた店員の方を一瞬見た。
助け起こしたい。
だが、ここで止まれば火付け役を見失う。
彼は歯を食いしばり、リオンの後を追った。
広場の裏手は、表とは別の世界だった。
荷車の轍が残る細い道。空樽。魚の匂い。店の裏口。壁から壁へ渡された洗濯物。捨てられた野菜くず。
フードの男たちは速かった。
ただ逃げているのではない。
道を知っている。
角を曲がる前に迷いがない。
「帝都の者か」
マルタンが言った。
「あるいは、案内を受けている」
リオンは片手剣の柄に手を置いたまま走る。
前方で、フードの一人が振り返った。
マルタンたちに気づいたらしい。
短い言葉を吐いた。
帝国語ではなかった。
マルタンの足が、一瞬だけ鈍った。
ヴァレーヌ語。
しかも、ただのヴァレーヌ語ではない。
リュシアンの街角で聞いたことのある、短く、硬い言い回し。
革命前夜、壁に貼られた紙の前で、若者たちが囁いていた合図に似ていた。
「右へ」ではない。
彼らは、ヴァレーヌ語で「灯を移せ」と言った。
火を、別の場所へ。
「リオン様」
「何だ」
「今の言葉、共和国語です」
リオンの目が鋭くなった。
「意味は」
「灯を移せ、と」
「合図か」
「おそらく」
追跡は続いた。
路地の角で、ヘルマンが飛び出した。
無口な古参は、逃げる男の一人に肩からぶつかり、壁へ叩きつけた。
しかし、残りはさらに奥へ走る。
マルタンは長剣を抜かなかった。
この狭い路地で刃を抜けば、市民を巻き込む。
鞘ごと腰から外し、前に飛び出した男の手首を打った。
棍棒が落ちる。
男は倒れたが、すぐに起き上がって逃げた。
追う。
追える。
そう思った瞬間、広場の方から悲鳴が上がった。
女の声。
子どもの泣き声。
そして、火事を知らせる鐘。
マルタンは振り返った。
市場の上に、黒い煙が上がっていた。
リオンも足を止めた。
フードの男たちは路地の奥へ消えていく。
あと少しで、追いつけたかもしれない。
リオンは一瞬だけ、その背中を見た。
そして言った。
「追跡は中止する」
「ですが」
「中止だ」
声に迷いはなかった。
「火をつけた者を追うのは後だ。今は、火を広げるな」
マルタンは拳を握った。
ヴァレーヌ語。
リュシアンの合図。
逃げていく背中。
全部、追いたかった。
だが、広場では市民が叫んでいる。
商店が破られ、火が上がり、南部の治安兵だけでは抑えきれなくなっている。
リオンは即座に指示を飛ばした。
「ヘルマン、捕らえた者がいれば縛っておけ。逃げた者は今は捨てる。オットー、北側の路地を見ろ。人の流れを数えろ。ユルゲンを探して合同本部へ走らせる。フリッツには西の井戸へ。火が広がる前に水場を押さえろ」
「私は」
「君は僕と戻る。防衛線を決める」
「防衛線」
「暴徒は怒りだけで動いているように見えて、道に流される。広い場所から狭い路地へ流れ込めば、そこで詰まる。詰まった場所で押し返せば、殺さずに止められる」
リオンは市場の方を見た。
「だが、間違った場所に線を引けば、市民ごと潰す」
マルタンは息を吸った。
中央広場の市場が、煙に霞んでいる。
ラ・ヴィーニュ村の朝市ではありえなかった光景だった。
パンを買う場所が、怒りで燃えている。
貧しさは知っている。
空腹も知っている。
だが、これは違う。
誰かが、空腹に火をつけた。
「参りましょう」
マルタンは言った。
リオンが頷いた。
二人は、火の上がる中央広場へ引き返した。
灰鷹隊本隊への応援要請は、まもなく出る。
それまでに、どこで暴徒を止め、どこから市民を逃がし、どの道を閉じるべきかを決めねばならなかった。
火付け役の背中は、路地の奥へ消えた。
だが、その声だけは、マルタンの耳に残っていた。
灯を移せ。
ヴァレーヌの言葉で、そう言った。




